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ピズモのブログ一覧

2014年03月29日 イイね!

山口(西宮市)・淡河・三木(その4・三木合戦の古戦場めぐりなど)

平井村中村間ノ山付城は、三木合戦の際、秀吉本陣の北側の守備を担っていました。
城主は「播磨鑑」「別所軍記」によると秀吉の軍師である竹中半兵衛とされています。
土塁に囲まれた主郭は、東西15m、南北11mの長方形を呈しており、南側には虎口(出入口)を設けています。
主郭の北東面は、土砂崩れによって切り立った崖になっています。北西斜面には帯曲輪状(主要な曲輪の周囲に配置される細長い曲輪)の平坦地が見られます。
(現地説明板などより)
平井村中村間ノ山付城は、かつては、三木合戦の際秀吉の本陣と言われていました。
しかし実際には本陣としては狭すぎる、又諸国古城之図と随分違うということで、現在は一本南の尾根筋上の平井山ノ上付城が秀吉本陣とされるようになりました。
そして、以前は秀吉本陣と現地の説明にもありましたが、ここは伝竹中半兵衛陣所跡と表記されるようになりました。
伝竹中半兵衛陣所跡 - 1
伝竹中半兵衛陣所跡 - 1 posted by (C)pismo

伝竹中半兵衛陣所跡 - 2
伝竹中半兵衛陣所跡 - 2 posted by (C)pismo

伝竹中半兵衛陣所跡 - 3
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伝竹中半兵衛陣所跡 - 4
伝竹中半兵衛陣所跡 - 4 posted by (C)pismo

栄運寺は、山号は屏風山、浄土宗の寺院です。
元禄5(1692)年開山の比較的新しい寺ですが、この裏山にもうひとつの竹中半兵衛の墓があることで知られています。
秀吉本陣があった平井山から地続きの山麓に栄運寺があり、竹中半兵衛の位牌が祀られているそうです。
お墓は、栄運寺の墓地の右手より登っていきます。盛塚の上に竹中の2文字が刻まれた墓石と、隣には「浄源院殿霊誉居士」と刻まれた宝篋印塔が建立されています。
栄運寺・竹中半兵衛の墓 - 1
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栄運寺・竹中半兵衛の墓 - 2
栄運寺・竹中半兵衛の墓 - 2 posted by (C)pismo

栄運寺・竹中半兵衛の墓 - 3
栄運寺・竹中半兵衛の墓 - 3 posted by (C)pismo

栄運寺・竹中半兵衛の墓 - 4
栄運寺・竹中半兵衛の墓 - 4 posted by (C)pismo

慈眼寺山城は、通称「一本松」と呼ばれる慈眼寺裏山の山頂にあります。
美囊川の北岸尾根の最高所に位置し、見晴らしの良い場所にあります。
三木城を攻めるために築かれた陣城跡で、羽柴秀吉の武将有馬法印則頼が陣を置いたといわれています。
慈眼寺山城 - 1
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慈眼寺山城 - 2
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慈眼寺山城 - 3
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慈眼寺山城 - 4
慈眼寺山城 - 4 posted by (C)pismo

谷大膳の墓は、平田村山ノ上付城の麓にあります。
谷大膳亮衛好は幼名小太郎、享禄2(1529)年宇多源氏佐々木氏の末裔福田六兵衛尉正之の次男として美濃国莚田群伊地良村に生まれました。
近江国甲賀郡長野の豪族で伯父の谷衛之の養子になりました。
衛之が浅井亮政に属し佐和山の合戦で亡くなった後、跡を継ぎ、後伊地良村に住し斎藤道三、織田信長に仕えました。
天正4(1576)年の石山の戦いで大手柄を立て、天正6(1578)年9月三木合戦では秀吉方の武将として平田大村の砦を守っていました。
天正7(1579)年9月9日夜半に兵糧を三木城へ運び込もうとした別所・毛利の軍勢の夜襲を受け、薙刀をふるって奮闘しましたが、身に五十余創をうけ力及ばず戦死を遂げました。
秀吉はその死を悼み、丁重に葬り杉を以て塚木としました。法号、亮衛院殿月賛玄光大居士で、共に戦死した兄福田正舜(玄々院殿)、弟土田小傅次、甥福田彦八良(勇功院殿)同孫三郎(猷駿院殿)を併せ葬りました。一族の位牌は大村の金剛寺にあります。
大膳の嫡男衛友は仇敵室小兵衛の首級をあげました。
秀吉は、父子の功を嘉彰し丹波山家に6千石を与え、江戸時代には1万6千石の大名となり明治に至りました。明治以後華族令により子爵に列せらました。
谷大膳の墓 - 1
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谷大膳の墓 - 2
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谷大膳の墓 - 3
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谷大膳の墓 - 4
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淡河弾正の墓がある八幡森史蹟公園です。淡河弾正忠定範は淡河城主で、三木城主別所長治とは姻戚関係でした。
天文8(1539)年に美作江見城主・江見又治朗祐春の次男として生まれました。
淡河氏に養子に入り、別所長治の祖父別所就治の娘と結婚したため、別所長治の義理の伯父にあたります。
天正6(1578)年2月別所長治が織田信長に抗し三木城に籠った際には別所氏に味方したため、天正7(1579)年5月から羽柴秀吉の弟の秀長を大将とする織田軍により淡河城が攻められました。
6月27日には、定範が牝馬を敵陣に放って包囲軍を破りました。
その後、三百余騎を率いて三木城に入城し、9月10日には毛利軍が糧食を三木城に入れようとしたため、羽柴秀吉はこれを阻もうとして平田大村で戦いが起きました。
定範は奮戦し、主従5騎が三木城に帰城しようとしましたが、八幡の森で割腹して戦死しました。41歳でした。
三木市は淡河弾正忠定範の404回目の命日にあたる昭和57(1982)年9月10日、三木合戦で信長方、別所方双方に多数の死傷者を出した平田大村加佐合戦で秀吉方の追手の手により非業の最期を遂げた淡河城城主の淡河弾正忠定範とその郎党などの死を慰霊するため、三木市民、淡河家の子孫、別所長治の部下子孫などの方々の募金と土地所有者森田氏の協力を得て八幡森史蹟公園の整備と淡河弾正忠定範戦死之碑、800人余の平田大村加佐合戦戦死者の慰霊碑と説明文が書かれた記念碑を建立しました。
(現地説明板などより)
淡河弾正の墓(八幡森史跡公園) - 1
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淡河弾正の墓(八幡森史跡公園) - 2
淡河弾正の墓(八幡森史跡公園) - 2 posted by (C)pismo

淡河弾正の墓(八幡森史跡公園) - 3
淡河弾正の墓(八幡森史跡公園) - 3 posted by (C)pismo

法界寺は、山号は虚空山、浄土宗西山禅林派の寺院で本尊は阿弥陀如来です。
開基は天平4(732)年、行基菩薩が聖武天皇の勅願を奉じて諸国を行脚し此の地に錫を止められた折、一翁が「此の地は和光同塵の地なり、よろしく伽藍を建立して衆生を化益せば、我常に守護して退転せさらん」と弥陀の尊像を与わりました。
行基菩薩は随喜の涙を流してして信心肝に銘じ、翁の告げに応じて伽藍を建立し、宝祝寿鎮護国家の道場となし、虚空山と号し、法界寺と名付けました。
その後、延徳年間に至り別所氏中興の祖則治は諸堂を造営し、別所家累代の菩提寺と定めました。
さらに天正8(1580)年正月17日、羽柴秀吉の三木城攻めにより城主別所長治公自害された際、遺体を当寺に埋葬しました。
慶長元(1596)年、杉原伯耆守により諸堂が再建され、天輪石塔及び霊廟を建立しました。次いで長治公百回忌に当たる延宝6(1678)年、禅空素伯和尚は三木郡十二町里の民衆に募縁し、「東播八郡総兵別所府君墓表」の碑を建立しました。
文政4(1821)年義空民礼和尚、低湿地にあった本堂、古裡等を境内の高地に移築しました。これが現在の伽藍で五輪石塔及び霊廟、墓表の碑は建立当時のまま現在地にあります。
長治の命日の4月17日には関係の老若男女が相集まり、公の冥福を祈る法要が続けられています。
また三幅の三木城合戦絵図により、当時の壮烈な戦況と、公の遺徳を偲ぶ「絵説き」の行事が絶えることなく続けられています。
(現地説明板などより)
法界寺 - 01
法界寺 - 01 posted by (C)pismo

法界寺 - 02
法界寺 - 02 posted by (C)pismo

法界寺 - 03
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法界寺 - 04
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法界寺 - 05
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法界寺 - 06
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法界寺 - 07
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法界寺 - 08
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這田村法界寺山ノ上付城は、三木と姫路を結ぶ湯の山街道の南側に建つ法界寺の山上に位置します。
北東に三木城跡とその先に秀吉の本陣平井山ノ上付城跡を見通すことができます。
城主は羽柴秀吉の重臣、宮部継潤と伝わっています。
城は主郭と副郭を中心部とし、その北側斜面に広がる段状の平坦地群や主郭南側の土塁に区切られた空間に軍勢が駐屯したと考えられています。
なお、別所氏を支援する毛利軍が明石方面から三木城へ兵糧を運び込むのを防ぐために織田方が築いた土塁が、当城を起点として築かれており、この城の南東側には6条からなる土塁(朝日ヶ丘土塁)が残っています。
平成25(2013)年3月、「三木城跡及び付城・土塁」として国の史跡に指定されています。
(現地説明板などより)
這田村法界寺山ノ上付城 - 01
這田村法界寺山ノ上付城 - 01 posted by (C)pismo

這田村法界寺山ノ上付城 - 02
這田村法界寺山ノ上付城 - 02 posted by (C)pismo

這田村法界寺山ノ上付城 - 03
這田村法界寺山ノ上付城 - 03 posted by (C)pismo

這田村法界寺山ノ上付城 - 04
這田村法界寺山ノ上付城 - 04 posted by (C)pismo

這田村法界寺山ノ上付城 - 05
這田村法界寺山ノ上付城 - 05 posted by (C)pismo

這田村法界寺山ノ上付城 - 06
這田村法界寺山ノ上付城 - 06 posted by (C)pismo

這田村法界寺山ノ上付城 - 07
這田村法界寺山ノ上付城 - 07 posted by (C)pismo

這田村法界寺山ノ上付城 - 08
這田村法界寺山ノ上付城 - 08 posted by (C)pismo

朝日ヶ丘土塁は、這田村法界寺山ノ上付城の南東に位置する三木城攻めの際に築かれた土塁である包囲網多重土塁の一つです。
包囲網多重土塁は、三木城の南側に築かれた2~4重の土塁で、法界寺裏山の付城から二位谷奥の付城までの各付城を結び、包囲網を構成しています。
この包囲網は別所氏と同盟関係にある中国地方の大名毛利氏が、兵糧を明石の魚住の浜に陸揚げし、三木城へ搬入していたことから、これを阻止するために築かれたもので、総延長は約4kmに及んだと推測されます。土塁の高さは約0.3~1.5mを測る比較的低いものですが、兵糧を積んだ荷車が幾重にも築かれた土塁を越えるのは困難だったと考えられます。
国有林内には、この多重土塁のほかにも数ヶ所で残っています。
三木市で遺跡として把握しているのが32遺跡、内25遺跡が現存しています。
(現地説明板などより)
平成25(2013)年3月、「三木城跡及び付城・土塁」として国の史跡に指定されています。
朝日ヶ丘土塁 - 1
朝日ヶ丘土塁 - 1 posted by (C)pismo

朝日ヶ丘土塁 - 2
朝日ヶ丘土塁 - 2 posted by (C)pismo

朝日ヶ丘土塁 - 3
朝日ヶ丘土塁 - 3 posted by (C)pismo

高木大塚城は三木城を兵糧攻めにするため築かれた30余りの付城の一つです。
朝日ヶ丘団地隅の一角、ホースランドパーク敷地端に立地しています。城を守っていた武将は不明だそうですが、「播州三木城地図」に描かれており、天正7(1579)年4月に織田信忠の軍が築いた6箇所の付城の一つである可能性があります。
周辺に古墳(塚)が点在することから、古墳群中最も大きい古墳を利用して築かれたものと考えられています。このことからこの付城を「大塚」の名称を用いて「大塚城」と呼ばれています。
朝日が丘団地内に所在し、土塁などがよく残っています。
平成25(2013)年3月、「三木城跡及び付城・土塁」として国の史跡に指定されています。
高木大塚城 - 1
高木大塚城 - 1 posted by (C)pismo

高木大塚城 - 2
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高木大塚城 - 3
高木大塚城 - 3 posted by (C)pismo

高木大塚城 - 4
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藤原惺窩誕生地の細川館です。
冷泉家は藤原道長の六男長家を祖とします。
定家の子・為家の子の時に二条・京極・冷泉の三家となり、長男・二条為氏、次男・京極為教、そして三男・冷泉為相は細川荘を領有しました。為氏と為相の細川荘の相続争いは為相の母阿仏尼の著書である十六夜日記に書かれています。訴訟の結果、細川荘は、冷泉家の領有となりました。
室町時代の中頃、冷泉家は故あって二つに分かれました。水上にあった方を上冷泉家、水下にあった方を下冷泉家と区別して呼ぶようになり、細川荘は、下冷泉家に引き継がれました。
細川館は下冷泉家が代々細川荘を支配してきた館城です。応仁の乱の後、政為、為孝、為豊、為純と戦火を逃れてこの地に住みました。
戦国~江戸時代の儒学者藤原惺窩は為純の第3子としてこの地で生まれました。天正6(1578)年18歳の時、父為純、兄為勝が三木城主別所長治に滅ぼされました。
惺窩は龍野の景雲寺において禅僧として修行していたため難を逃れました。惺窩は、母や弟妹を伴い、京都に逃れ相国寺に入りました。
その後勉学に励み近世儒学(朱子学)の開祖と仰がれるようになりました。特に朝鮮出兵の捕虜として抑留された儒学者姜沆との出会いで感化を受け、徳川家康には知遇を受け江戸にも招かれ儒学を度々伝授しましたが、学問の自由を守って仕官はすることなく、洛北市原に山荘を構え学研に励みました。
元和5(1619)年9月12日、59歳の生涯を終えました。門弟の林羅山、松永尺五、那波活所、堀杏庵は四天王といわれています。
下冷泉家は、一旦廃絶しましたが惺窩の子、為景が再興を許され公卿として代々朝廷に仕えました。
(現地説明板より)
細川館 - 1
細川館 - 1 posted by (C)pismo
Posted at 2014/04/14 21:01:18 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2014年03月29日 イイね!

山口(西宮市)・淡河・三木(その3・三木城とその周辺)

旧玉置家住宅の建物は、文政9(1826)年に、上州館林藩の財政建て直しを図るため、切手会所(今の銀行)として建てられたことをはじまりとしています。
延享4(1747)年から天保13(1842)年まで三木町は、上州館林藩(群馬県)の飛び地領でした。天明時代(1780年代)には、三木の金物が勃興期に入り、文政6(1823)年には三木町中町に切手会所が開設され、文政9(1826)年に、現在の「旧玉置家住宅」に切手会所が移転したものです。
明治8(1875)年、玉置家の住宅となりました。玉置家は、初代が雲龍寺の第21世大器晩成大和尚と言い、明治初期に切手会所の建物を取得して僧籍を去った元僧侶です。
還俗して、明治8(1875)年に玉置姓を名乗られました。
また、三代玉置福蔵氏は、朋友の小河秀太郎氏、宮崎新蔵氏と共に、株式会社三木銀行を設立した人物です。
玉置家が所有して以後に建築された離れ座敷、渡り廊下には、当時の匠技が施されています。
平成13(2001)年3月に玉置氏から三木市に寄贈を受け、平成14(2002)年、国の登録有形文化財に指定されました。平成21(2009)年度にリニューアル工事が行われ、平成22(2010)年2月にリニューアル工事が完了しました。
旧玉置家住宅 - 01
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旧玉置家住宅 - 02
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旧玉置家住宅 - 03
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旧玉置家住宅 - 04
旧玉置家住宅 - 04 posted by (C)pismo

旧玉置家住宅 - 05
旧玉置家住宅 - 05 posted by (C)pismo

旧玉置家住宅 - 06
旧玉置家住宅 - 06 posted by (C)pismo

旧玉置家住宅 - 07
旧玉置家住宅 - 07 posted by (C)pismo

旧玉置家住宅 - 08
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雲龍寺は山号は高源山、曹洞宗の寺院です。
天徳2(957)年、天台宗の僧良源によって創建されました。
この寺は古い歴史のある寺院で、明治維新までは公寺に属しており、特別な上位の寺でした。その創建は村上天皇の勅命によるもので、天皇の勅願所でありましたが、廃絶すること久しく、その後、播磨、備前、美作の守護職であった時の豪族赤松円心入道が古い寺伝を知り、深くこれを惜しんで朝廷に再建を奏請して、そのご聖慮に沿い天皇より高源山の山号を賜りました。
時は後醍醐天皇の元享2(1322)年で天皇の祈願所となりました。
のち、文明年間になって、時の城主別所加賀守就治が異忠禅師を招いて再建し、そのとき規模を一新して禅寺として開山した寺院であると伝えています。
羽柴秀吉との三木合戦時には、三木城内にあったため、殿堂及び伽藍は焼失しました。
天正8(1580)年、1月17日、一族の最後を弔うために雲龍寺7世の住職春泰禅師が、三木城主別所長治公の自害の席に招かれ、後事を託され「天目茶碗」と「唐子遊びの軸」を形見に贈られました。
長治公は「三木の干殺し」といわれる兵糧攻めを受け、家臣や領民の命を救うことを条件に自害しました。照子夫人も運命を共にしました。
首は秀吉の陣地から安土に送られましたが、春泰禅師が安土より首級を持ち帰り年頃に埋葬祭祀しました。
三木城開城後、領主となった杉原伯耆守が秀吉に上訴して再建しました。
天正13(1580)年、秀吉から境内山林竹木並びに三十石の寄進状及び制札を賜り、以後代々の徳川将軍家より御朱印状を承りました。
秀吉の兵糧攻めに遭い、城内の藁まで食べたとの言い伝えにより、当寺では毎年1月17日に藁に見立てた「うどん」を食べて当時を偲ぶ会が催されています。
また、昭和17(1942)年、帝国在郷軍人会三木分会によって辞世の歌碑を建て首塚の補修が行われました。
昭和48(1973)年3月、別所公奉賛会は、さきに三木城再興の構想趣意に賛同され寄進された浄財と首塚修復に当り寄せられた市民有志の浄財で玉垣を建立し、併せて照子夫人の霊を合祀しました。
(現地説明板などより)
雲龍寺 - 01
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雲龍寺 - 02
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雲龍寺 - 03
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雲龍寺 - 04
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雲龍寺 - 05
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雲龍寺 - 06
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雲龍寺 - 07
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雲龍寺 - 08
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鷹尾山城は、三木城の南東の丘陵上に位置しています。
雲龍寺背後の東西に細長い尾根上に築かれていましたが、現在は、市役所、文化会館、体育館などが建ち、る勤労者体育センター西側に西端の主郭の土塁や堀などが残っています。
城主は、三木城主別所長治の弟、友之で、三木合戦の際、三木城の南側を守備していました。
しかし、天正8(1580)年1月11日、羽柴秀吉により落城しました。
落城後は秀吉がこの城に入り、三木城に対し降伏勧告を行いました。
(現地説明板などより)
平成25(2013)年3月、「三木城跡及び付城・土塁」として国の史跡に指定されています。
鷹尾山城 - 1
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鷹尾山城 - 2
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鷹尾山城 - 3
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鷹尾山城 - 4
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鷹尾山城 - 5
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三木城の築城時期は諸説ありますが、明応元(1492)年頃、別所則治が築いたといわれています。その後、代々別所氏の居城でした。
別所氏は播磨の守護赤松氏の一族で季則の二男が平安時代中期の永暦元(1160)年に別所城を築き、別所氏を名乗ったのが始まりとされています。
享禄3(1530)年には浦上村宗により落城し、城主の別所就治は落ち延びました。その後、享禄4(1531)年の大物崩れで浦上村宗が戦死し、別所就治は三木城を奪還しました。
天正6(1578)年には羽柴秀吉による三木合戦が始まり、別所長治は籠城戦をよく戦いましたが、「三木の干し殺し」により戦力が低下、天正8(1580)年1月15日に開城を勧告し、別所長治もこれに応じ一族共に自害しました。
落城後も三木が播磨における京都や大坂からの入口として重要な場所で会ったため、主に豊臣家の直轄地として城代や城番が置かれました。
天正13(1585)年、中川秀政が入城し、中川秀成が跡を継いだ後、一時再び豊臣氏の直轄領となりますが、関ヶ原の戦いの後池田輝政が姫路城主となると、三木城も6つの支城の一つとなり、宿老の伊木忠次が3万石を知行し三木城の城主となりました。その後伊木忠繁が継ぎますが、元和元(1615)年一国一城令によって破却されました。
構造は、本丸・二の丸を中心部とし、新城、鷹尾山城、宮ノ上要害で構成され、南側は山と谷、他三方を崖に囲まれています。土造りの城としては、播磨の中でも最大級の規模を誇っています。
城塀に囲まれた本丸跡に「今はただうらみもあらじ諸人のいのちにかはる我身とおもへば」と記された別所長治公辞世の歌碑、銅像があります。
平成25(2013)年3月、三木城の本丸・二の丸・鷹尾山城跡は、領主の居城と攻城側の付城が一体的に残る貴重な事例として、三木城の本丸・二の丸・鷹尾山城跡が、平井山付城跡(秀吉本陣跡)などの付城跡と共に「三木城跡及び付城・土塁」として国の史跡に指定されています。
(現地説明板などより)
城塀に囲まれた本丸跡に「今はただうらみもあらじ諸人のいのちにかはる我身とおもへば」と記された別所長治公辞世の歌碑、銅像があります。
三木城 - 01
三木城 - 01 posted by (C)pismo

三木城 - 02
三木城 - 02 posted by (C)pismo

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三木城 - 11
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三木城 - 12
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Posted at 2014/04/03 23:01:52 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2014年03月29日 イイね!

山口(西宮市)・淡河・三木(その2・三津田城〔満田城〕〜竹中半兵衛の墓・ 平井山ノ上付城(秀吉本陣跡))

三津田城(満田城)は、有馬重則、則頼の居城です。
有馬重頼は、三田城からこの三津田(満田)城に拠点を移しました。隣接する別所就治や淡河氏と戦いを繰り広げました。
有馬則頼は、豊臣秀吉に仕え、三木落城後は淡河の地を与えられました。関ヶ原の戦いの後は三田に移り、次男の有馬豊氏は福知山藩、後には久留米藩21万石の藩主となりました。
三津田城(満田城)は天然の岩山を利用して有馬重則、則頼の出城として20数年勢威をふるいました。
東の明石出の道をへだてた高台には五輪塔が祀ってあります。
矢の向かい「幡山」「城の越」の地名があることを思えば鎌倉時代から平氏九代、淡河氏四代がこの要塞の地を出城としたものと思われます。
この城は三津田と戸田の境にそびえ山田川、淡河川に囲まれた天然の要害で、本丸・二の丸・三の丸が絶壁の台地に広がっています。兵達は下三津田全域に住んでいたらしく、「遊女田」「小巻」という名も残っています。
(現地説明板などより)
三津田城〔満田城〕 - 01
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三津田城〔満田城〕 - 02
三津田城〔満田城〕 - 02 posted by (C)pismo

三津田城〔満田城〕 - 03
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三津田城〔満田城〕 - 04
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三津田城〔満田城〕 - 05
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三津田城〔満田城〕 - 06
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三津田城〔満田城〕 - 07
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三木合戦中に病死した竹中半兵衛の墓です。
一世の軍略兵法家として知られた竹中半兵衛重治は、初め斎藤龍興に属し、後に織田信長に従い、秀吉と共に各地に転戦し殊勲を立てました。
しかし、三木城攻城戦がたけなわの頃、平井山の陣中に胸を病み、一時は京都に移って療養していましたが、固着した戦況を心配し此の地に帰ってきました。
けれども、病魔には勝てず天正7(1579)年6月13日に36歳の若さをもって永歿しました。臨終の時、秀吉に対して将来の「天下人」と予言し息を引き取りました。秀吉は「お先まっくら」と人前もはばからず遺体にとりすがったといわれます。
この墓の維持の為にはその昔から竹中山と称する山林1ヘクタールが村山として残され毎年6月13日は村の老若男女が皆業を休んで供養を続けています。
天保年間に儒者・山田翠雨が平井山の竹中半兵衛の墓に参拝の際漢詩を詠じました。

三軍誰不欽英風(三軍誰か英風をしたわざらん)
(秀吉の大軍は皆,半兵衛公を慕っていた)
力病猶従征戦中(病を力めて猶従う 征戦の中)
(病に侵されながら戦場に出る)
只猴郎唱功業大(英風、功業の大を唱ふるも)
(猿面の如き秀吉が自ら功績を唱えているが)
何知籌策出干公(何ぞ知らん籌策 公に出づるを)
(半兵衛公の策であったことを人は知っているだろうか)
一夜行營落大星(一夜行営 大星は落つ)
(一夜にして戦場で公は消え去った)
惜君萬方不見寧(君を惜しむ万方(くにぐに) 寧(やすらぎ)を見ざるを)
(秀吉の天下統一が済まないうちに惜しいことである)
隆盛孤塚平山翠(隆盛たる孤塚 平山の翠に)
(土を盛り上げた一つの塚が平井山のみどりの中に包まれている)
猶是天正舊典型(猶是は天正の旧典型)
(天正年間の武将の鏡といえる)

墓は綺麗に整備されており、地元でも大事にされているようです。
竹中半兵衛の墓 - 1
竹中半兵衛の墓 - 1 posted by (C)pismo

竹中半兵衛の墓 - 2
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平井山ノ上付城は、三木合戦の際、羽柴(後の豊臣)秀吉が本陣とした付城です。
美嚢川と志染川の間に挟まれた山上に位置し、南西に三木城を望むことが出来ます。
天正6(1578)年7月、織田信長の長男、信忠が三木城を支援する神吉城や志方城(ともに加古川市)を攻略した後、築城したとされています。8月に羽柴秀吉が入ると、10月15日に津田宗久を招いて茶会を開催しました。同22日に別所方が襲来して合戦が繰り広げられましたが、別所長治の弟別所治定らが討死するなど、別所方の敗北に終わっています。
城は、土塁囲みの平坦地を主郭として東西に尾根が延び、その尾根から分かれる北側の尾根には軍勢が駐屯するための段状の平坦地群が設けられています。主郭の東側に延びる尾根は、部分的に土塁で囲まれ、櫓台状の土盛りが見られます。また、城の最高所にある曲輪Ⅱ、曲輪Ⅲは主郭から独立した曲輪群を形成し、三木城を包囲する付城群の中では最大規模を誇っています。
平成25(2013)年3月、「三木城跡及び付城・土塁」として国の史跡に指定されています。
(現地説明板などより)
平井山ノ上付城(秀吉本陣跡) - 01
平井山ノ上付城(秀吉本陣跡) - 01 posted by (C)pismo

平井山ノ上付城(秀吉本陣跡) - 02
平井山ノ上付城(秀吉本陣跡) - 02 posted by (C)pismo

平井山ノ上付城(秀吉本陣跡) - 03
平井山ノ上付城(秀吉本陣跡) - 03 posted by (C)pismo

平井山ノ上付城(秀吉本陣跡) - 04
平井山ノ上付城(秀吉本陣跡) - 04 posted by (C)pismo

平井山ノ上付城(秀吉本陣跡) - 05
平井山ノ上付城(秀吉本陣跡) - 05 posted by (C)pismo

平井山ノ上付城(秀吉本陣跡) - 06
平井山ノ上付城(秀吉本陣跡) - 06 posted by (C)pismo

平井山ノ上付城(秀吉本陣跡) - 07
平井山ノ上付城(秀吉本陣跡) - 07 posted by (C)pismo

平井山ノ上付城(秀吉本陣跡) - 08
平井山ノ上付城(秀吉本陣跡) - 08 posted by (C)pismo
Posted at 2014/04/03 22:44:48 | コメント(1) | トラックバック(0) | ツーリング | 日記
2014年03月29日 イイね!

山口(西宮市)・淡河・三木(その1・中野城〔城垣内稲荷神社〕〜淡河)

この日はバイクでツーリング。
西宮市山口町〜神戸市淡河〜三木のコースです。

有馬川の畔に城垣内稲荷神社(しろのかいちいなりじんじゃ)という祠があります。
そこが中野城の跡といわれ、有馬法印則頼の持ち城だったそうです。また、安土桃山時代には、丸山山頂にあった丸山城(山口五郎左衛門の居城)の出城だったとも伝えられています。
いつ頃、誰がどんな理由で祀り始めたかは不明ですが、上山口地区の守り神として大切にされています。鎮座地字名の「城ノ垣内」をとって城垣内稲荷と呼ぶようになったようです。
御祭神は秀吉大明神、豊一明神、秀一明神です。名前も気になります。有馬温泉を愛した秀吉ですが、没後に地元の人が祀ったのでしょうか?
昭和57(1982)年、敷地が整備され、拝殿が新築されました。毎年5月の連休最終日には、参道に大きな幟が立てられ、大祭が執り行われます。
(現地説明板などより)
中野城 - 1
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中野城 - 2
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中野城 - 3
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中野城 - 4
中野城 - 4 posted by (C)pismo

中野城 - 5
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淡河城は淡河氏が築いた城です。
北条時政の三男時房の子時盛が子の時治(朝盛)に承久4(1222)年に播磨国美嚢郡淡河荘を与えました。(北条右近将監成正とも)
そして地頭職として補任され、入部したことに始まります。
以後時治の子孫が淡河氏を称しました。
暦応2(1339)年赤松円心は三男則祐を総大将として志染に陣を布き、南朝の拠点である山田・丹生寺を攻め、さらに淡河・石峰寺・三津田で合戦を行い、この時淡河城も落城しました。
室町時代の明徳3(1392)年、淡河範清は播磨守護赤松氏の一族中嶋彦八郎熙範の嫡男季範を養子に迎えたことにより淡河氏は赤松一族になりました。
天文23(1554)年、、三好長慶の支援を得た有馬郡の有馬重則(月公)が、摂津国衆を率いて播磨に侵入し別所方の城を攻撃しました。淡河城も攻撃され、元範は防戦につとめましたが城は落ち、しばらく淡河氏は没落しました。その後、永禄元(1558)年、別所氏の支援を得て淡河城を回復、別所氏麾下として淡河に勢力を維持しました。
天正6(1578)年2月別所長治、織田信長に反旗を翻したため、羽柴秀吉は三木城を攻めました。
天正7(1579)年4月織田軍淡河城の四方に付城を築き対陣しました。城主淡河弾正忠定範は、6月27日に敵陣に牝馬を放ち牡馬が狂奔したことで寄せ手は大混乱となり、そこへ淡河勢が攻め込みました。羽柴秀長らは多くの戦死者を出し、ほうほうの体で逃げ散りました。大勝を得た後は、三木城に入りました。谷大膳衛好は、羽柴秀吉の部将として平田山に陣を構え、三木城への食糧補給路を断つ任にあたっていましたが、9月10日毛利の将、生石中務と三木城の別所方が平田村の谷大膳の陣を攻撃しました。一方、秀吉も援軍を出し、戦いは秀吉方の大勝に終わったが谷大膳は壮絶な討ち死にを遂げました。
この大村合戦に淡河定範も出陣して奮戦しましたが手傷を受け、主従5騎で逃げ延びようとしましたが、遂に力尽き自害して果てました。
三木城が落城した後、淡河城は有馬則頼に与えられ、慶長6(1601)年まで有馬氏の居城となりました。
関ヶ原の戦いの後、有馬則頼は三田に居城を移したため、淡河城は廃城となりました。
城の遺構は現在、本丸と天守台、堀を残すだけとなっています。幅15m、深さ3~5mの堀に囲まれ、本丸の南辺に東西50m、南北8~16mの天守台を配する構えは、当時の面影を残しています。また、本丸の南東には竹慶寺跡があり、境内には城主淡河氏代々の墓碑があります。
(現地説明板などより)
淡河城 - 01
淡河城 - 01 posted by (C)pismo

淡河城 - 02
淡河城 - 02 posted by (C)pismo

淡河城 - 03
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淡河城 - 04
淡河城 - 04 posted by (C)pismo

淡河城 - 05
淡河城 - 05 posted by (C)pismo

淡河城 - 06
淡河城 - 06 posted by (C)pismo

淡河城 - 07
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淡河城 - 08
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淡河城 - 09
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淡河城 - 10
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淡河城・竹慶寺跡の淡河氏墓所- 11
淡河城・竹慶寺跡の淡河氏墓所- 11 posted by (C)pismo

淡河城竹慶寺跡の淡河氏墓所 - 12
淡河城竹慶寺跡の淡河氏墓所 - 12 posted by (C)pismo

淡河城・竹慶寺跡の淡河氏墓所 - 13
淡河城・竹慶寺跡の淡河氏墓所 - 13 posted by (C)pismo

淡河城 - 14
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淡河城 - 15
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淡河城 - 16
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淡河八幡神社は、伝承では、宝亀10(779)年6月に住吉の神(表筒男命)を祀り、仁平年間(1151~54)に吉野の神、安閑天皇、貞応2(1223)年に鶴岡八幡宮から応神天皇の分霊をうけて社号を若宮八幡宮と称し、その神域を八幡の杜と呼びました。
旧淡河郷(庄)16村の鎮守社で淡河氏、有馬氏、更に明石藩歴代の崇敬祈願所となりました。有馬氏はご本殿をさらに大きく造立しました。
明治7(1874)年郷社となりました。
なお、本殿は平成11(1999)年に神戸市指定有形文化財に指定されています。
また、御弓神事は昭和46(1971)年に県指定重要無形民俗文化財となっています。
御弓神事とは、一年の除災招福を祈る行事の一つで、毎年2月11日に社前で行われます。
鳥居下の大的に宮司が「鬼」と墨書し、すぐ塗りつぶし、災害の根源を封じ込めます。
次に氏子から選ばれた正副4人の射手が神前から矢を放ち、この的を射て、根源の悪霊を鎮圧し、的の中心を射た矢は神前に供えられます。
古式をとどめた厳格な作法が守られており、その起源は相当古いものと思われます。
(現地説明板などより)
淡河八幡神社 - 01
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淡河八幡神社 - 02
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淡河八幡神社 - 03
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淡河八幡神社 - 04
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Posted at 2014/04/03 22:34:42 | コメント(0) | トラックバック(0) | ツーリング | 日記
2014年03月25日 イイね!

姫路黒田官兵衛ゆかりの地めぐり(その4・英賀)

次は英賀です。
平成26(2014)年の大河ドラマ「軍師官兵衛」の第10話「毛利襲来」の「官兵衛紀行」で紹介されました。
英賀城の堀跡
英賀城の堀跡 posted by (C)pismo

英賀薬師の境内は英賀城井ノ上口の跡といわれ、今でも土塁の一部が残っています。法寿寺は英賀城が落城した天正8(1580)年の約100年後、英賀城主三木氏の後裔古今が延宝年間に中興造立しました。
当時は、浄土宗鎮西派(総本山)知恩院幡念寺末寺でした。堂内正面に阿弥陀如来像、向かって左の脇侍に法然上人、右に善導大師が、左の厨子に薬師如来像等が安置されています。古くから霊験あらたかな「英賀薬師さん」と親しまれ、信仰されています。
境内にひときわ目を引く五輪塔は、英賀城主三木家のものです。
(現地説明板などより)
英賀薬師(旧法寿寺跡) - 1
英賀薬師(旧法寿寺跡) - 1 posted by (C)pismo

英賀神社は国史見在社(六国史に記載のある神社)です。
播磨国風土記によれば、和銅6(713)年に伊和大神の後子英賀彦神・英賀姫神が、祖神の命によりこの地を本拠として播磨灘沿岸地域を開拓創始しました。
よって英賀国主大神として祀り、元慶5(881)年、神位従五位下に昇叙され、創業開発の神、縁結びの神として尊崇されました。
三木通近が英賀城主となり、領内発展の興隆にあたり、嘉吉3(1443)年、天満神社・八幡大神・春日大神を勧請し、領内の総氏神とあがめました。
(1580)以来歴代の城主の尊崇を集め、社殿は荘厳華麗を極めました。天正8(1580)年2月、羽柴秀吉は英賀城攻略に際し、特に当社に除火の令を出しました。
明治4(1871)年社格制定に当たり郷社に列せられ、明治13(1880)年県社に昇格しました。
境内には寛文7(1667)年銘の手水鉢や寛政6(1794)年の狛犬が、拝殿には江戸期の絵馬が多く残っています。また、明治時代の算学もあり、和算が盛んだったことを物語っています。本殿裏には英賀城跡の土塁が残っています。また、拝殿東側には「播磨灘物語」「司馬遼太郎」と刻まれた司馬遼太郎文学碑があります。
司馬遼太郎のルーツは祖父の代までこの地で、自らも愛情を込めて播州門徒の末裔と名乗っていました。
英賀神社 - 01
英賀神社 - 01 posted by (C)pismo

英賀神社 - 02
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英賀神社 - 03
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英賀神社 - 04
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英賀神社 - 05
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英賀神社 - 06
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英賀神社 - 07
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英賀神社 - 08
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英賀神社 - 09
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英賀神社 - 10
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英賀神社 - 11
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英賀神社 - 12
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英賀城は、岩繋城(いわつなぎじょう)ともいいます。
三木城、御着城、英賀城が播磨三大名城といわれています。
南は海、西は夢前川、東は水尾川に面し、北は湿地帯という要害でした。
鎌倉時代には、砦が造られていましたが、室町時代になると播磨の守護大名であった赤松氏の一族が守りました。
しかし、嘉吉元(1441)年の嘉吉の乱によって勢力を失った後、三木氏が城主となって城をさらに整えました。
天正8(1580)年、羽柴秀吉に滅ぼされるまで約140年間三木氏は、的形から室津の間を中心にその周辺を支配し一大勢力を誇っていました。
城内には本丸・二の丸をはじめ、一族が、それぞれ大きな屋敷を構えていました。
また、英賀御坊をはじめ多くの真宗寺院、商家や住宅が建てられ、交易の盛んな港のある城下町(四十九町・約九百軒)として大いに賑わっていました。
昭和13(1938)年頃まではあちこちに土塁が残っていましたが、今では英賀神社と英賀薬師(城主の墓所・法寿寺跡)の北側だけに残っています。また英賀御坊跡は昭和13(1938)年頃の夢前川の付替工事により消滅しました。その時、瓦、礎石や日常使用していた器などが出土しました。
本丸跡は中浜橋近くにあり、英賀神社には土塁が残っていますが、神社隣にこの英賀城跡公園があります。
公園には謎の石垣があり、城跡の雰囲気を出そうとしているのが窺えます。
英賀城・英賀城跡公園 - 1
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英賀城・英賀城跡公園 - 2
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廣畑天満宮の源祀は、社伝によると、霊亀年間(715~716)には奉祀されていた廣辻神社に始まるといい、昌泰4(901)年、菅原道真が九州下向の途中、広畑の高浜の汀に上陸した際、当地の人々は、道真公の人徳を深く仰いだといわれています。
道真公太宰府で帰幽後、廣辻神社に併せ祀り、おのずから天満宮・廣畑天満宮と称するにいたったと伝えられ、その後文久3(1863)年より境内整備並びに社殿の改修を行い、明治2(1869)年に完成し、同時に鎮座していた蛭子大神・春日大神を合祀して現在の廣畑天満宮の社頭を整えたといわれています。
現在、参集殿の北側には姫路藩の藩校「好古堂」の酒井家時代の教授亀山雲平による石碑が建っています。
そして、南側の鳥居を通って右側には平成15(2003)年に建てられた司馬遼太郎氏文学碑があります。御祭神菅原道真公御神忌千百年記念事業として、社務所を建築した際に、先祖の出身者との由縁により、著書の一筋を文学碑として建立しました。
「祖父惣八は、播州人である。
 兵庫県姫路市の浜寄りの郊外の広という村の出身で、そこに江戸時代のあいだずっと百姓をしていた家系に生れた。
 戦国のころは播州三木城にその先祖が籠城したという事であるが、身分はわからない。」
 「歴史と小説」より
と刻まれています。
司馬遼太郎の祖父、福田惣八氏は幕末に旧来の小祠を改め、現本殿の改築を行った際に、篤志を受けたことにより境内にその名が刻まれた玉垣があります。玉垣は本殿の裏にあり向かって左から二十二本目にあります。
昭和60(1985)年、社務所(現齋館)を改築した際、父福田是定氏の名前で篤志を受けたため、文学碑の右側にその名が刻まれた玉垣があります。
(現地説明板などより)
廣畑天満宮 - 01
廣畑天満宮 - 01 posted by (C)pismo

廣畑天満宮 - 02
廣畑天満宮 - 02 posted by (C)pismo

廣畑天満宮 - 03
廣畑天満宮 - 03 posted by (C)pismo

廣畑天満宮 - 04
廣畑天満宮 - 04 posted by (C)pismo

廣畑天満宮 - 05
廣畑天満宮 - 05 posted by (C)pismo

廣畑天満宮 - 06
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廣畑天満宮 - 07
廣畑天満宮 - 07 posted by (C)pismo

廣畑天満宮 - 08
廣畑天満宮 - 08 posted by (C)pismo

廣畑天満宮 - 09
廣畑天満宮 - 09 posted by (C)pismo

廣畑天満宮 - 10
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明蓮寺は、山号は消雲山、真宗大谷派の寺院です。
英賀本徳寺が建立された直後の永正14(1517)年、英賀六代城主三木通規の家臣神出左衛門の母妙蓮尼によって建立されました。
本尊は阿弥陀如来です。当時、英賀は浄土真宗に帰依した三木一族を中心に運営される自治都市「寺内町」で、織田信長と戦う大阪の石山本願寺と深い繋がりをもっていました。
天正8(1580)年、信長の命を受けた羽柴(豊臣)秀吉によって「寺内町」は解体されました。その時、英賀本徳寺は亀山へ、英賀門徒の多くが龍野町、飾磨田町(玉地)などへ移されましたが、明蓮寺は唯一英賀の地へ残りました。
英賀本徳寺は、現在の歌野橋上流にありました。昭和12(1937)年、日本製鐵廣畑製鉄所の誘致に伴う夢前川の改修付け替え工事によって遺跡は河床となりました。
明蓮寺の境内には昭和13(1938)年に移された「英賀本徳寺跡碑」が建っています。
(現地説明板などより)
明蓮寺・英賀本徳寺跡石碑 - 1
明蓮寺・英賀本徳寺跡石碑 - 1 posted by (C)pismo

明蓮寺・英賀本徳寺跡石碑 - 2
明蓮寺・英賀本徳寺跡石碑 - 2 posted by (C)pismo

明蓮寺・英賀本徳寺跡石碑 - 3
明蓮寺・英賀本徳寺跡石碑 - 3 posted by (C)pismo

英賀城の港、田井ヶ浜跡に建立された巽地蔵です。英賀港は古代からの港で寛和2(986)年、花山法皇が書写山円教寺に御幸し、帰りは当港から国史の船で出港なされた。
室町期は、英賀城下の市場町で天正8(1580)年の英賀落城まで三木氏一族と英賀衆が活躍した交易の港町として繁栄しました。
このあたりは田井ヶ浜といわれていました。天正4(1576)年、黒田官兵衛の進言により、御着城主小寺政職が織田家に味方することを決めると、毛利水軍5千人がこの田井ヶ浜に上陸しました。官兵衛は500人の手勢で毛利軍を追い返し、一躍その名を高めました。
祖先が英賀出身の司馬遼太郎作「播磨灘物語・英賀の浦」で毛利水軍と御着城黒田官兵衛軍の「町の坪合戦」が名文で語られています。
田井ヶ浜は、英賀落城後は荒れ果てていましたが、熊谷家がこの地を清め地蔵尊を祀りました。
英賀神社南東方向で、「巽の地蔵」と名付けられました。境内には田井ヶ浜跡碑が建立されています。
(現地説明板などより)
田井ヶ浜趾・巽地蔵 - 1
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田井ヶ浜趾・巽地蔵 - 2
田井ヶ浜趾・巽地蔵 - 2 posted by (C)pismo

田井ヶ浜趾・巽地蔵 - 3
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田井ヶ浜趾・巽地蔵 - 4
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英賀城の本丸跡です。
中浜橋近くに本丸跡の石碑があります。
英賀城本丸跡 - 1
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英賀城本丸跡 - 2
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英賀城本丸跡 - 3
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Posted at 2014/03/31 22:58:53 | コメント(2) | トラックバック(0) | 自転車 | 日記

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