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ピズモのブログ一覧

2015年02月11日 イイね!

大原美術館と倉敷美観地区・倉敷アイビースクエア

大原美術館は、倉敷の実業家大原孫三郎が、洋画家児玉虎次郎に託して収集した美術品を展示するために昭和5(1930)年に開館した倉敷美観地区にある美術館です。
エル・グレコ、ゴーギャン、モネ、マティス等の名品、日本の近代から現代の美術、民芸運動にかかわった作家たちの作品などを所蔵しています。
本館の他に、昭和36(1961)年に日本の洋画家の作品や現代美術館の作品を展示する分館と河井寛次郎、バーナード・リーチ、濱田庄司、富本憲吉の作品を展示する陶器館が開館しました。昭和38(1963)年には棟方志功および芹沢銈介の作品を展示する板画館と染色館が開館しました。現在は、陶器、板画、染色の展示室を「工芸館」と総称しています。
昭和45(1970)年には東洋館が開館し、昭和47(1972)年に館から離れた倉敷アイビースクエアに児島虎次郎記念館が開館しています。
児玉虎次郎の「和服を着たベルギーの少女」、クロード・モネの「睡蓮」、「積みわら」、エル・グレコの「受胎告知」、レオ・フレデリックの「万有は死に帰す、されど神の愛は万有をして蘇らしめん」など印象に残る絵画に感動。他には夢二郷土美術館と同じく河井寛次郎、富本憲吉、浜田庄司、バーナード・リーチの民芸運動に参加した陶芸家達の作品も魅力的でした。
大原美術館 - 01
大原美術館 - 01 posted by (C)pismo

大原美術館 - 02
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大原美術館 - 03
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大原美術館 - 04
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大原美術館 - 05
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大原美術館 - 06
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大原美術館 - 07
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大原美術館 - 08
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大原美術館 - 09
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大原美術館 - 10
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大原美術館 - 11
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大原美術館 - 12
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大原美術館 - 13
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大原美術館 - 14
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倉敷美観地区は、倉敷市倉敷川畔伝統的建造物群保存地区の名称で国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されているエリアです。
寛永19(1642)年、江戸幕府の天領に定められた際に倉敷代官所が設けられ、物資の集積地として発展してきました。
倉敷川の畔から鶴形山南側の街道一帯に白壁なまこ壁の屋敷や蔵が並び、天領時代の町並みをよく残しています。
昭和44(1969)年、倉敷市の条例により美観地区に定められ、昭和54(1979)年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
また、昭和41(1966)年には蒜山高原・鷲羽山と共に「新日本旅行地100選」に、美観地区の柳並木は、平成6(1994)年、「新・日本街路樹100景」に選定されています。
倉敷美観地区 - 1
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倉敷美観地区 - 2
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倉敷美観地区 - 3
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倉敷美観地区 - 4
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倉敷美観地区 - 5
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倉敷代官所は現在の倉敷アイビースクエア内にありました。
附近一帯は「小野が城」または「城の内」と呼ばれ、戦国時代の砦の跡といわれています。慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いの後、この地は徳川幕府の直領(天領)となりました。
慶長19(1614)年、大坂冬の陣の際、備中国総代官小堀遠州は幕府の命をうけ、兵糧米10数万石を倉敷湊から大阪に積み出すため、ここに屋敷を構えて陣屋としました。それ以来倉敷湊は急速な発展を遂げ、寛永19(1642)年に陣屋は倉敷代官所となり、初代幕府代官米倉平太夫が赴任してきました。
それより明治維新にいたる二百余年間、倉敷代官所は備中(倉敷)美作(久世)讃岐(塩飽諸島)の天領を支配する枢府となりました。
天保5(1834)年には代官所北側に倉敷教諭所が建てられ明倫館と名付けられ、それ以来、この地は文教の中心地となりました。
幕末になって尊皇佐幕で天下が物情騒然のとき、慶応2(1866)年、長州奇兵隊を脱走した一味約百名は、倉敷代官所および浅尾藩(総社市)を襲撃し世にいう倉敷浅尾騒動を起こしました。このため代官所は灰燼に帰しました。
明治維新の後政府は、代官所跡に倉敷県庁を置きましたが、明治4(1871)年倉敷県が廃止されてからは放置されたままになっていました。その後地元の先覚者達によって、明治21(1888)年3月9日代官所跡に倉敷紡績所(倉敷紡績株式会社)が創設されました。そして、昭和48(1973)年に、改修され、倉敷アイビースクエアとして観光施設になり現在に至っています。
アイビースクエア内に石碑、堀跡、井戸跡などが残っています。
(現地説明板などより)
倉敷アイビースクエア(倉敷代官所跡) - 01
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倉敷アイビースクエア(倉敷代官所跡) - 02
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倉敷アイビースクエア(倉敷代官所跡) - 03
倉敷アイビースクエア(倉敷代官所跡) - 03 posted by (C)pismo

倉敷アイビースクエアは、ホテルを中心とした観光施設です。
元々は、明治21(1888)年、倉敷代官所跡に創設された倉敷紡績所(倉敷紡績株式会社)の工場でした。
昭和48(1973)年に、改修され、倉敷アイビースクエアとして観光施設になっています。
広場を囲むようにホテル、レストラン、多目的ホール、倉紡記念館、児島虎次郎記念館などがあります。
スコットランド・ロンモート蒸溜所の外観として、平成26(2014)年から平成27(2015)年にかけて放映されている朝の連続テレビ小説「マッサン」のロケ地にもなっています。
倉敷アイビースクエア(倉敷代官所跡) - 04
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倉敷アイビースクエア(倉敷代官所跡) - 05
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倉敷アイビースクエア(倉敷代官所跡) - 06
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倉敷アイビースクエア(倉敷代官所跡) - 07
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倉敷アイビースクエア(倉敷代官所跡) - 08
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倉敷アイビースクエア(倉敷代官所跡) - 10
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Posted at 2015/02/23 20:56:57 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2015年02月11日 イイね!

岡山県立博物館・後楽園・夢二郷土美術館

この日は、岡山県立博物館で開催されていた平成26年度 岡山・高知文化交流事業交流展「戦国大名 宇喜多氏と長宗我部氏」を見に行きました。
本能寺の変の原因は「光秀の動機は四国攻め?」明智光秀と長宗我部元親との関係が原因と騒がれました昨年発見された「石谷家文書」が目を惹きます。長宗我部元親の妻は石谷光政の娘で、斎藤利三の兄にあたる石谷頼辰は光政の養子になるので、長宗我部、石谷、斎藤利三はかなり深い親戚関係にあたります。コンパクトな展示会だったので見るのに時間はかかりませんでしたが、興味深い展示でした。
岡山県立博物館 - 1
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岡山県立博物館 - 2
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岡山県立博物館 - 3
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岡山県立博物館のすぐ隣にある後楽園を訪れました。日本三名園のひとつ、かつては岡山藩主池田家の庭園でした。梅が咲いていました。梅といえば、日本三名園では偕楽園が有名ですが、後楽園も少しだけですが梅園があります。まだ満開には程遠い感じがしましたが、冬から春への移り変わりを感じました。
後楽園 - 01
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後楽園 - 19
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後楽園 - 20
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後楽園 - 21
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後楽園 - 22
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後楽園 - 23
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後楽園 - 24
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夢二郷土美術館は両備グループが経営する、後楽園のすぐ近くにある美術館です。
今回の展示は、「松田基コレクション 夢二名品展 特別公開 民藝に関わった作家たち」というタイトルの企画展でした。
初代館長をつとめた松田基のコレクションの河井寛次郎、富本憲吉、濱田庄司、バーナード・リーチの陶芸などと共に夢二の作品を展示していました。
夢二の作品はいままであまりゆっくりと見たことがなく、夢二の美人画もそんなに関心がありませんでしたが、衣装など細かいディテールにこだわる面や「夢二式美人」の魅力なども堪能できました。
作品ごとに「こども学芸員」たちの感想が一緒に展示されており、子供たちの豊かな感性にもびっくり。作品の魅力を増していました。
夢二郷土美術館 - 1
夢二郷土美術館 - 1 posted by (C)pismo

夢二郷土美術館 - 2
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Posted at 2015/02/22 20:28:12 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2015年02月07日 イイね!

和泉葛城山登山

この日は、大阪府と和歌山県の境にある和泉葛城山に登りました。
標高858m、古くから修験道や雨乞いなどとの信仰と関わりが深く、高龗(たかおがみ)神社〔葛木神社〕や、八大龍王社などがあります。
山頂付近のブナ林は、「和泉葛城山ブナ林」として大正12(1923)年、国の天然記念物に指定されています。

登城口の牛滝山大威徳寺です。
大威徳寺は、山号は牛滝山、天台宗の寺院です。
役行者が開創したとされる寺院で、葛城修験道の霊場でした。
寺号は、比叡山の学僧であった恵亮が、境内にある「三の滝」での修行中に滝の中から牛に乗った大威徳明王が現れたのを見て、その姿を彫って本尊として祀ったことが由来とされています。
空海も当山で修行をし、多宝塔などを建立したと伝えられ、かつては真言宗と天台宗の兼学寺院でした。
多宝塔は、国の重要文化財に指定されています。
紅葉の名所として知られています。
大威徳寺 - 01
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大威徳寺 - 02
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大威徳寺 - 03
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大威徳寺 - 04
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大威徳寺 - 05
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大威徳寺 - 06
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大威徳寺 - 07
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大威徳寺 - 08
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和泉葛城山 - 01
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和泉葛城山 - 02
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和泉葛城山 - 03
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葛城山は、奈良時代に役小角(役行者)が開いたとされる葛城修験道場として、信仰を集めてきました。
高龗(たかおがみ)神社は、葛城山の頂上付近にあります。創建の伝説によれば、岸和田藩主岡部氏が狩に来山した時に、白鹿を射殺すると、たちまち雷が鳴り豪雨となりました。そこで、藩主は巨石で社殿を造り、葛城一言主命、八大龍王をまつって山を鎮めたと言われています。以来、社は五ヶ庄(塔原、相川、河合、蕎原、木積)の郷社とされ、特に雨の神として信仰されました。
7月18日、8月、9月第4日曜日には祭礼が行われています。
頂上付近の和歌山県側にも八大竜王社があります。
高龗神社(葛木神社) - 01
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高龗神社(葛木神社) - 02
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高龗神社(葛木神社) - 03
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高龗神社(葛木神社) - 04
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高龗神社(葛木神社) - 05
高龗神社(葛木神社) - 05 posted by (C)pismo

八大龍王社 - 1
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和泉葛城山 - 04
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和泉葛城山 - 05
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和泉葛城山 - 06
和泉葛城山 - 06 posted by (C)pismo
Posted at 2015/02/15 20:59:26 | コメント(0) | トラックバック(0) | トレッキング | 日記
2015年02月05日 イイね!

第49回「京の冬の旅」非公開文化財特別公開・後編(東福寺龍吟庵・勝林寺)

次は、東福寺の塔頭を訪れました。

龍吟庵は、臨済宗東福寺派の寺院で東福寺の塔頭です。
東福寺の主要伽藍の東北、本坊庫裏の背後から偃月橋を渡った正面にあり、東福寺第三世住持無関普門(大明国師)の住居跡です。
国師は建暦2(1212)年信濃国に生まれ、13歳で得度し、東福寺開山聖一国師(円爾弁円)の元で5年間参禅しました。
建長3(1251)年、40歳の時に入宋、10年間にわたって禅の奥義を究め、弘長2(1262)年に帰国しました。
弘安4(1281)年に東福寺第三世住持となり、正応4(1291)年には、南禅寺創建にあたって開山に招かれましたが、同年秋、病を得て東福寺に戻り、12月12日、龍吟庵で80歳で亡くなりました。
龍吟庵の境内地中より国師の遺骨を納めた銅製の骨蔵器が発見されたことで、ここに塔所(墓所)が営まれたことが確認されました。
方丈は、室町時代初期に建てられた現存最古の貴重な禅宗方丈建築で、書院造と寝殿造の名残をとどめた柿葺屋根の優美な建物です。
方丈を挟んで、東・南・西の三方向に配された趣の異なる枯山水庭園は、昭和39(1964)年に名作庭家、重森三玲が造ったものです。
南庭「無の庭」は、一木一草をも用いない簡素な白砂敷きの庭、西庭「龍の庭」は、寺名の「龍吟庵」にちなみ、龍が海中から黒雲を得て昇天する姿を、石組によって表現しています。青石による龍頭を中央に配し、白砂は海を、黒砂は黒雲を、そして竹垣は稲妻模様をあらわしています。東庭「不離の庭」は、方丈と庫裏を結ぶ渡り廊下に面した長方形の庭園で、赤砂を敷いて中央に長石を臥せ、その前後に白黒の二石を配しています。狼に襲撃されそうになった国師の身を、二頭の犬が守ったという、国師幼少の頃の故事にもとづいて作庭されました。
(パンフレットより)
東福寺龍吟庵 - 01
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東福寺龍吟庵 - 02
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東福寺龍吟庵 - 03
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東福寺龍吟庵 - 04
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東福寺龍吟庵 - 05
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東福寺龍吟庵 - 06
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東福寺龍吟庵 - 07
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東福寺龍吟庵 - 08
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勝林寺は、東福寺の塔頭です。
臨済宗大本山東福寺は、嘉禎2(1236)年に関白九条道家の発願により、藤原氏の氏寺として栄えていた法性寺内に伽藍を建立したことに始まります。
東福寺の寺名は、東大寺、興福寺の奈良二大寺から一字ずつ取ったもので、20年近くの年月をかけ京都最大の大伽藍を造営し、開山に聖一国師(円爾弁円)を迎えました。その後相次ぐ火災のため、初期の伽藍の大部分を焼失しますが、そのたびに見事な復興を遂げ、京都五山に列せられるにふさわしい名刹となりました。
勝林寺は、天文19(1550)年に第二百五世住持・高岳令松禅師によって勝林庵として創建された寺院です。
本山東福寺の鬼門(北方)に位置し、仏法と北方を守護する毘沙門天を祀ることから「東福寺の毘沙門天」と呼ばれています。
本堂は大壇那であった近衛家の大玄関を移して建立されたもので、境内には一切経を埋めた石塔が建てられています。数々の絵画、仏像彫刻を有し、とりわけ毘沙門堂の正当性を証明するべく、本尊の秘仏毘沙門天立像をはじめ、他に例を見ない珍しい毘沙門天曼荼羅や、大正15(1926)年に日本画家櫟文峰により描かれた迫力に満ちた虎の大襖絵などがあります。
(パンフレットより)
東福寺勝林寺 - 1
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東福寺勝林寺 - 2
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東福寺勝林寺 - 3
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Posted at 2015/02/11 23:06:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2015年02月05日 イイね!

第49回「京の冬の旅」非公開文化財特別公開・前編(本法寺・妙顕寺)

第49回「京の冬の旅」非公開文化財特別公開で公開されている本法寺と妙顕寺を訪れました。
本法寺の近くには、後花園天皇火葬塚があります。堀川通り沿いにあります。
後花園天皇は、第102代天皇で、伏見宮貞成親王の第1皇子にあたります。
文明2(1470)年12月27日、崩御され、文明3(1471)年1月3日に悲田院にて火葬して埋骨し、翌年、常照皇寺の光厳天皇陵の傍らに移されました。
この地は悲田院の火葬塚の跡とされており、現在は大應寺境内にあります。悲田院は、9世紀初頭、檀林皇后により病人・貧窮者・孤児の救済施設として建てられましたが、応仁の乱後荒廃し、天正14(1586)年、その由緒ある遺跡を惜しみ、大應寺が建立されました。
この火葬塚は、京都府内における近世以前の皇室の陵墓・火葬塚の中で、学術上最も確実なものの1つであるといわれています。
後花園天皇火葬塚
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本法寺は、山号は叡昌山、日蓮宗本山の一つです。
永享8(1436)年本阿弥清信が日親上人を開基に請じて創建したのが当寺の起りといわれます。
本阿弥清信は、刀剣の鞘走が原因で、将軍足利義教の怒りに触れ、投獄された際に日親上人と出会い、教化されて熱心な法華信者となりました。
当初は弘通所(ぐつうしょ)といいましたが、その後永享12(1440)年に日親上人の幕府諫暁が原因で破却され、康正年間(1455〜57)に四条高倉に再建されました。
寛正元(1460)年、二度目の破却に遭った本法寺は、三条万里小路に移転して復興を果たすと、日親上人はこの寺を一門の中心地に定めています。
天文5(1536)年法華の乱によって山徒に焼かれ、一時は都を逃れ、和泉国堺に避難する事となりました。
後に一条戻橋で再興し、さらに天正15(1587)年、豊臣秀吉の聚楽第建設に伴う都市整備により現在地に移転し、今日に至っています。
江戸時代には後水尾天皇・紀州徳川家の保護を受けて繁栄し、中山法華経寺(千葉 中山にある日蓮宗本山)輪番にあたる上方三山の一つでもありました。
現在の堂宇は天明8(1788)年の大火で焼失した後再建されたものです。
本阿弥光悦作庭の「巴の庭」は室町期の書院風枯山水の影響を残す名庭で、国から名勝の指定を受けています。
巴の庭は、書院の東側から南へ曲がる鍵形で、広さはおよそ200坪に及びます。東南隅に石組の枯瀧が配され、手前に置かれた縦縞紋様の青石によって、流れ落ちる水を表現しています。また、書院の縁側近くには、半円を二つ組み合わせた円形石と、切石による十角形の蓮池が配置され、「日」「蓮」を表現したといわれています。
この他当寺は本阿弥家の菩提寺であったことでも名高く、一門の墓もあり、本阿弥光悦は多くの書画・什器をよせています。
寺宝には、銭舜挙(せんしゅんきょ)筆と伝える蓮華図、群介図・中文殊左右寒山拾得画像、長谷川等伯筆の仏大涅槃図など絵画十点と本阿弥光悦筆の法華題目抄など書二点の重要文化財を所蔵しています。長谷川等伯は本法寺10世・日通と交友があり、塔頭教行院を宿としていたため、寺宝が伝わったそうです。
また、本法寺は朝鮮通信使ゆかりの地です。
文禄元(1592)年から慶長3(1598)年まで7年におよんだ文禄・慶長の役は、豊臣秀吉の死によって戦闘は終息しましたが、その 戦後処理は難航しました。朝鮮側は新しく日本の政権を握った徳川家康の真意を確かめることが先決だと考え、慶長9(1604)年に松雲大師惟政(ソウウンデサン・イジョン)という高い地位にあった僧侶をまず派遣することにしました。松雲大師はこの戦中に僧兵を率いて日本軍と戦った人です。
同年12月末に対馬島主などと共に入洛した松雲大師は本法寺に滞在し、家康との会見を待ちました。その間、京都五山の著名な僧侶たちが本法寺に大師を訪れて詩文の交流をしたり、仏教や儒教の知識について筆談問答を重ねました。ある日本の僧侶は松雲大師を「博覧強記・筆跡もまた麗し」と評しています。家康との会見は翌年3月初旬に伏見城で行われました。
この会見で家康は「我は朝鮮に讐怨なし。和を請う」と述べました。この報告を松雲大師から得た朝鮮朝廷は、「家康からの謝罪の意思をを表わした国書の到来」などが国交回復の条件としたこれが届いたため、慶長12(1607)年には朝鮮から戦後初めての使節団(回答兼刷還使)が来日することにつながりました。
(現地説明板などより)
本法寺 - 01
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本法寺 - 02
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本法寺 - 03
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本法寺 - 15
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本法寺 - 16
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妙顕寺は、山号は具足山、正しくは四海唱導妙顕寺といい、日蓮宗の大本山の一つです。
日蓮聖人の孫弟子に当たる日像上人が、元亨元(1321)年に、京都における日蓮宗最初の道場として創建したのが当寺の起こりです。
建武元(1334)年には、後醍醐天皇から法華宗号と勅願寺の綸旨を受け、法華宗最初の勅願寺として洛宗洛外の宗門の第一位に認められました。
しかし、度々の法難と災禍により寺地を転々とし、天正11(1583)年に秀吉の命により西洞院二条の旧地から現在地に移されました。
その後、天明8(1788)の天明の大火で焼失しましたが、天保5(1834)年(に再建され、今日に至っています。
寺宝として尾形光琳筆の「松竹梅」図三幅、江戸琳派の祖酒井抱一が光琳の百回忌に際して描いた「観世音菩薩像」など琳派の絵画の他、六曲一双の狩野山楽筆「楼閣山水図」屏風などの寺宝があり、塔頭の泉妙院には、光琳と陶工として有名な弟乾山の墓があります。
本堂は、間口28m、奥行25mの総欅造で、江戸時代の建築です。内部の格天井には檀信徒の家紋が奉納されていて、須弥壇には「南無妙法蓮華経」と書かれた宝塔の両脇に釈迦如来像、多宝如来像を祀り、日蓮聖人像や日像聖人像が安置されています。
書院前庭の「光琳曲水の庭」は尾形光琳の屏風絵を元に作られたといわれ、樹齢400年の赤松と黒松、白砂の流れが光琳の華やかな作風を思わせます。また、客殿前の枯山水庭園「龍華飛翔の庭(四海唱導の庭)」や、孟宗竹が清々しい坪庭など、趣の異なる庭もみどころです。
妙顕寺 - 01
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Posted at 2015/02/10 22:00:51 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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