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ピズモのブログ一覧

2015年10月31日 イイね!

明治神宮・護国寺・日本橋・門前仲町

明治神宮は、明治天皇と昭憲皇太后を御祭神とする神宮です。
明治天皇は崩御後、京都の伏見桃山陵に葬られましたが、東京に神宮を建設したいとの運動が天皇を崇敬する東京市民(当時)から起こり、大正3(1914)年、明治天皇が「うつせみの代々木の里はしづかにて都のほかのここちこそすれ」と詠んだ代々木の南豊島世伝御料地を境内地として神宮建設が決定しました。御料地はかつて近江彦根藩井伊家の下屋敷のあった場所で、明治維新後に井伊家から政府に対して献上されたものです。造営は翌大正4(1915)年から開始され、全国から13,000人もの国民が労力奉仕に自発的に参加しました。
鎮座祭は、大正9(1920)年11月2日に行われ、皇室からは大正天皇の名代として皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)が行啓しました。
初代宮司は公爵一条実輝です。
御苑は江戸初期以来加藤家、井伊家の下屋敷の庭園でしたが、明治時代に宮内庁所管となり、代々木御苑と称せられ、明治天皇、昭憲皇太后にはたびたびお出ましになられた、ご縁の深い由緒のある名苑です。
面積約83,000㎡あり、曲折した小経が美しい熊笹の間を縫い、武蔵野特有の雑木林の面影をとどめています。苑には隔雲亭、御釣台、菖蒲田、清正井があります。
明治神宮
明治神宮 posted by (C)pismo

明治神宮 (1)
明治神宮 (1) posted by (C)pismo

明治神宮 (2)
明治神宮 (2) posted by (C)pismo

明治神宮 (3)
明治神宮 (3) posted by (C)pismo

明治神宮 (4)
明治神宮 (4) posted by (C)pismo

明治神宮 (5)
明治神宮 (5) posted by (C)pismo

明治神宮 (6)
明治神宮 (6) posted by (C)pismo

明治神宮 (7)
明治神宮 (7) posted by (C)pismo

護国寺は、山号は神齢山、真言宗豊山派の寺院です。
天和元(1681)年2月7日、5代将軍徳川綱吉の生母、桂昌院の発願により、上野国(群馬県)碓氷八幡宮の別当、大聖護國寺の亮賢僧正を招き開山とし、幕府所属の高田薬園の地を賜り堂宇を建立し桂昌院念持仏の天然琥珀如意輪観世音菩薩像(秘仏)を本尊として、号を神齢山悉地院護國寺と称し寺領三百石を賜ったことに始まります。
現在の観音堂(本堂)国指定重要文化財は元禄10(1697)年正月、観音堂建立の幕命があり、約半年余の工事日数でこの大造営が完成し、同年8月4日落慶式が挙行さましれた
月光殿は、国指定重要文化財で近江(大津市)の三井寺の塔頭日光院の客殿を移築した桃山時代の建築で書院様式を伝えるものとして貴重な建造物です。 
境内には月窓軒、化生庵、艸雷庵(そうらいあん)、不昧軒、円成庵、宗澄庵等々の八席それぞれ数寄を凝らした茶席がありその基を築かれたのは明治から昭和初期にかけて再興に寄与された高橋箒庵翁の尽力の賜物です。
また、境内には松平治郷(不昧)、三条実美、山県有朋、大隈重信、山田顕義、大倉喜八郎らの墓所があります。
(現地説明板などより)
護国寺
護国寺 posted by (C)pismo

護国寺 (1)
護国寺 (1) posted by (C)pismo

護国寺 (2)
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護国寺 (3)
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護国寺 (4)
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護国寺 (5)
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護国寺 (6)
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護国寺 (7)
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護国寺 (8)
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護国寺 (9)
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護国寺 (10)
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護国寺 (11)
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護国寺 (12)
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護国寺 (13)
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護国寺 (14)
護国寺 (14) posted by (C)pismo

日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長8(1603)年と伝えられています。幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていました。橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。幕末の様子は安藤(歌川)広重の錦絵でも知られています。
現在の日本橋は東京市により、石造2連アーチの道路橋として明治44(1911)年に完成しました。橋銘は第15代将軍徳川慶喜の筆によるもので、青銅の照明灯装飾品の麒麟は東京市の繁栄を、獅子は守護を表しています。橋の中央にある日本国道路元標は、昭和42(1967)年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを契機に、同47(1972)年に柱からプレートに変更されました。プレートの文字は当時の総理大臣の佐藤栄作の筆によるものです。
平成10(1998)年に照明灯装飾品の修復が行われ、同11(1999)年5月には国の重要文化財に指定されました。装飾品の旧部品の一部は中央区が寄贈を受け、大切に保管しています。
(現地説明板などより)
日本橋
日本橋 posted by (C)pismo

日本橋 (1)
日本橋 (1) posted by (C)pismo

日本橋 (2)
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日本橋 (3)
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日本橋
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日本橋 (4)
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日本橋 (5)
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日本橋 (6)
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日本橋 (7)
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日本橋 (8)
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産直鮮魚とマグロの明神丸は、宮城県女川町公認のアンテナショップ居酒屋です。
門前仲町駅下車、富岡八幡宮前にあります。
サンマ、ほや、銀鮭、ほたて、ツブ、うに、あわびや三陸の活魚、そして宮城県など東北の銘酒を楽しめるお店です。
産直鮮魚とマグロの明神丸
産直鮮魚とマグロの明神丸 posted by (C)pismo

産直鮮魚とマグロの明神丸 (1)
産直鮮魚とマグロの明神丸 (1) posted by (C)pismo

産直鮮魚とマグロの明神丸 (2)
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産直鮮魚とマグロの明神丸 (3)
産直鮮魚とマグロの明神丸 (3) posted by (C)pismo


富岡八幡宮は寛永4(1627)年、当時永代島と呼ばれていた現在地に御神託により創建されました。周辺の砂州一帯を埋め立て、社地と氏子の居住地を開き、総じて60,508坪の社有地を得ました。同じ地に別当寺院として永代寺も建立されました。
世に「深川の八幡様」と親しまれ、今も昔も変わらぬ信仰を集める「江戸最大の八幡様」です。
江戸時代には、源氏の氏神である八幡大神を殊の外尊崇した徳川将軍家の手厚い保護を受け、明治維新に際しては朝廷が当宮を准勅祭社に定めました。
永代寺は、神仏分離令によって廃寺になってしまいますが、明治29(1896)年に再建されました。
境内には伊能忠敬の銅像があります。伊能忠敬は、当時深川界隈に居住し、測量に出かける際は、安全祈願のため富岡八幡宮に必ず参拝に来ていたことから、平成13(2001)年に建立されました。
8月15日には、深川祭が行われます。神田祭、山王祭と並んで江戸三大祭の1つに数えられます。江戸時代には永代橋に多数の人が押し入ったことにより永代橋を崩落させたほどの人気があり、暑さ避けに水を掛けることから別名「水掛け祭」とも呼ばれ、担ぎ手に水をかける「水掛け」であれば誰でも参加ができます。
富岡八幡宮 (1)
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富岡八幡宮
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富岡八幡宮 (2)
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富岡八幡宮 (3)
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富岡八幡宮 (4)
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Posted at 2016/01/08 21:41:41 | コメント(2) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記
2015年10月31日 イイね!

等々力渓谷

等々力渓谷は、国分寺崖線(ハケ)の最高端に位置する約1kmの都区内唯一の渓谷です。
谷沢川が国分寺崖線に切れ込んで侵食したもので、台地と谷との標高差は約10mあります。谷沢川が多摩川と合流する手前で、国分寺崖線を浸食してできました。「等々力」の地名は、渓谷内にある「不動の滝」の音が響き渡り「轟いた」ことからついた、との言い伝えがあります。
昭和8(1933)年、国は等々力渓谷を風致地区として指定しました。世田谷区は、昭和49(1974)年に渓谷の河川と斜面地の一部を風致公園として開園しました。
等々力渓谷には等々力不動尊があり、その対岸には昭和36(1961)年に建築された書院建物とそれをとりまく日本庭園があります。庭園は昭和48(1973)年に著名な造園家により作庭されました。
渓谷内の斜面には、武蔵野の代表的な樹木であるケヤキをはじめ、シラカシ、コナラ、ヤマザクラ、イロハカエデなどとともに、常緑シダ類のような湿性植物が繁茂しており、渓谷内には至るところから湧水の出現が認められます。
玉川全円耕地整理組合が、昭和5(1930)年から昭和13(1938)年にかけて谷沢川の流路を整備し、小径を設けるまでは、不動の滝からゴルフ橋にいたる渓谷内は殆ど人の立ち入ることも稀で、雉などの鳥類や、イタチ、キツネなどの小獣類、各種昆虫類の宝庫でした。
都区内とは思えないほどの鬱蒼とした樹林と渓谷美は、幽邃な景観を呈し、武蔵野の面影をよく残しています。東京を代表する自然地理的名勝として貴重であり、植生学、地質学及び地形学上重要です。
等々力渓谷 (2)
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等々力渓谷 (3)
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等々力渓谷 (4)
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等々力渓谷 (5)
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等々力渓谷 (6)
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等々力渓谷 (7)
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等々力渓谷 (8)
等々力渓谷 (8) posted by (C)pismo

等々力不動尊は、満願寺の別院で、正式には滝轟山(りゅうごうさん)明王院といいます。
本尊は不動明王、真言宗中興の祖興教大師(覚鑁)が夢のお告げにより開かれ、この地に不動明王を安置した霊場です。
等々力渓谷に隣接した場所にあり、関東三十六不動尊霊場の第17番霊場です。
不動尊から渓谷に降りた所には、「不動の滝」があり、古来から今日まで滝に打たれて行をする人が各地から訪れています。「等々力」の地名はこの渓谷内の「不動の滝」が響き渡り「轟いた」ところからついた、との言い伝えがあります。境内には150本近い桜など、紅葉も美しく、等々力渓谷を代表する自然豊かな樹林地となっています。
山門は江戸時代のもので、満願寺から移築されたものです。
等々力不動尊 (2)
等々力不動尊 (2) posted by (C)pismo

等々力不動尊 (3)
等々力不動尊 (3) posted by (C)pismo

等々力不動尊 (4)
等々力不動尊 (4) posted by (C)pismo

御岳山古墳は、多摩川の左岸、標高31mの舌状地先端部に位置しており、西側には等々力渓谷を臨んでいます。世田谷区野毛から大田区田園調布にかけて多摩川左岸の台地緑辺部一帯には、連なるように50数基から成る茂原台古墳群が形成されており、本古墳はこのうちのひとつです。西方には野毛大塚古墳(都指定史跡があり、これに次ぐ規模を有しています。全長57m、現在高7mを測り、野毛大塚古墳と同じく帆立貝形です。河原石による葺石、円筒埴輪を伴い、5世紀後半から6世紀中葉の築造と考えられています。
学習院大学の調査によって、埋蔵施設である内部主体は、木間を粘土で覆った粘土槨であると推定されています。副葬品として内行花文を文様とする七鈴鏡(都指定有形文化財)、短後甲、直刀等が出土しており、特に短甲は二領分の破片があり、その製作時期が5世紀後半に位置づけられます。
(現地説明板などより)
御岳山古墳 (2)
御岳山古墳 (2) posted by (C)pismo
Posted at 2016/01/08 20:59:19 | コメント(1) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記
2015年10月25日 イイね!

立川市の昭和天皇記念館・西武ドーム・所沢市の史跡

昭和天皇記念館は、昭和天皇御在位五十年記念事業の一環として昭和58(1983)年に開園した国営昭和記念公園の「花みどり文化センター」内に平成17(2005)年11月27日設置され、緑を愛された昭和天皇の生物学ご研究や昭和天皇、香淳皇后のご遺品・写真等の昭和天皇ゆかりの資料を展示しています。
昭和天皇記念館
昭和天皇記念館 posted by (C)pismo

西武ドーム(西武プリンスドーム)は、埼玉西武ライオンズの本拠地の球場です。
昭和38(1963)年に竣工した西武園球場が、プロ野球開催可能な球場として昭和53(1978)年、改築工事に着手し、その最中、国土計画がクラウンライターライオンズを買収、西武ライオンズと改称し、新球場を同球団の本拠地として使用することを決定。屋外球場である西武ライオンズ球場として昭和54(1979)年にオープンしました。
西武ライオンズ球場は、元々将来を見据えドームがかけられるように設計されていましたが、平成11(1999)年、西武ドームとして生まれ変わりました。
西武ドーム〔西武プリンスドーム〕
西武ドーム〔西武プリンスドーム〕 posted by (C)pismo

西武ドーム〔西武プリンスドーム〕 (1)
西武ドーム〔西武プリンスドーム〕 (1) posted by (C)pismo

西武ドーム〔西武プリンスドーム〕 (2)
西武ドーム〔西武プリンスドーム〕 (2) posted by (C)pismo

西武ドーム〔西武プリンスドーム〕 (3)
西武ドーム〔西武プリンスドーム〕 (3) posted by (C)pismo

西武ドーム〔西武プリンスドーム〕 (4)
西武ドーム〔西武プリンスドーム〕 (4) posted by (C)pismo

西武ドーム〔西武プリンスドーム〕 (5)
西武ドーム〔西武プリンスドーム〕 (5) posted by (C)pismo

西武ドーム〔西武プリンスドーム〕 (6)
西武ドーム〔西武プリンスドーム〕 (6) posted by (C)pismo

狭山不動尊(不動寺)は、山号は狭山山、天台宗の別格本山の寺院です。
ユネスコ村として昭和26(1951)年にオープンした遊園地に数多くの寺院建築が移築されていましたが、敷地内に昭和50(1975)年に、西武鉄道グループにより狭山不動尊が建立されました。なお、ユネスコ村は平成2(1990)年に、後を引き継いだユネスコ村大恐竜探検館は、平成18(2006)年に閉園しています。
勅額門や御成門は、増上寺にあった徳川秀忠(台徳院)の廟から、丁子門は、増上寺にあった崇源院(お江の方)霊廟から移設したもので重要文化財に指定されています。
第一多宝塔は、大阪府高槻市の畠山神社から昭和36(1961)年に移築され、第二多宝塔は昭和39(1964)年に兵庫県加東市の掎鹿寺から移築されたものです。その他、毛利家江戸屋敷の門を移築した総門、奈良県五條市の桜井寺の山門から移築された桜井門など寺院建築が数多く移築されています。
また、近くの西武ドームを本拠地とする埼玉西武ライオンズが必勝祈願をする寺院としても知られています。
狭山山不動寺
狭山山不動寺 posted by (C)pismo

狭山山不動寺 (1)
狭山山不動寺 (1) posted by (C)pismo

狭山山不動寺 (2)
狭山山不動寺 (2) posted by (C)pismo

狭山山不動寺 (3)
狭山山不動寺 (3) posted by (C)pismo

狭山山不動寺 (4)
狭山山不動寺 (4) posted by (C)pismo

狭山山不動寺 (5)
狭山山不動寺 (5) posted by (C)pismo

狭山山不動寺 (6)
狭山山不動寺 (6) posted by (C)pismo

狭山山不動寺 (7)
狭山山不動寺 (7) posted by (C)pismo

狭山山不動寺 (8)
狭山山不動寺 (8) posted by (C)pismo

狭山山不動寺 (9)
狭山山不動寺 (9) posted by (C)pismo

狭山山不動寺 (10)
狭山山不動寺 (10) posted by (C)pismo

狭山山不動寺 (11)
狭山山不動寺 (11) posted by (C)pismo

狭山山不動寺 (12)
狭山山不動寺 (12) posted by (C)pismo

狭山山不動寺 (13)
狭山山不動寺 (13) posted by (C)pismo

狭山山不動寺 (14)
狭山山不動寺 (14) posted by (C)pismo

狭山山不動寺 (15)
狭山山不動寺 (15) posted by (C)pismo

狭山山不動寺 (16)
狭山山不動寺 (16) posted by (C)pismo

狭山山不動寺 (17)
狭山山不動寺 (17) posted by (C)pismo

小手指ヶ原は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけてしばしば合戦が展開されたところです。当時は一面の原野で、北方は入曾(狭山市)から藤沢(入間市)あたりまでがその範囲に含まれていました。背後には狭山丘陵があり、また鎌倉街道の沿線にも位置していたため、古来戦場となることが多かったのです。
特に歴史的な合戦のひとつとして、元弘3(1333)年上野国新田庄(現在の群馬県太田市)を本拠地とする新田義貞の鎌倉攻めがあります。同年5月8日に義貞は北条氏の支配する鎌倉幕府を倒すため新田庄で兵を挙げます。利根川を渡り、鎌倉街道を一路南下した新田軍は11日にここ小手指の地に至ります。太平記によると、はじめは150騎ほどだった一行は進むにつれ沿道の武士を加え、最後には20万騎にも及んだと記されています。
新田義貞の軍勢とそれを迎え撃つ鎌倉幕府軍は、緒戦となった小手指ヶ原で30余回も討ち合いますが、勝敗はつかず、新田軍は入間川(狭山市)に、幕府軍は久米川(東京都東村山市)にそれぞれ引きました。翌12日に新田軍は幕府軍に押し寄せ、幕府軍は分倍河原(府中市)まで退きます。その後幕府軍は援軍を得て一旦は立て直すものの、結局21日には鎌倉極楽寺坂への新田軍の進軍を許し、5月22日幕府軍の北条高時らが鎌倉東勝寺で自害し、鎌倉幕府は滅亡するに至りました。
なお、背後の小高い塚は白旗塚と呼ばれ、源氏の末裔である新田義貞がここに陣を張り、源氏の旗印とされる白旗を立てたという伝承があります。
(現地説明板より)      
小手指ヶ原古戦場 (1)
小手指ヶ原古戦場 (1) posted by (C)pismo

小手指ヶ原古戦場
小手指ヶ原古戦場 posted by (C)pismo

白旗塚は、新田義貞と鎌倉幕府軍が元弘3(1333)年に戦った小手指ヶ原の戦いの際、源氏の末裔である新田義貞がここに陣を張り、源氏の旗印とされる白旗を立てたという伝承があります。
この白旗塚は、一説には古墳とも言い伝えられてきましたが、慶応4(1868)年、村民の手により浅間神社の石祠を建て、浅間信仰の塚になりました。
以降140年余りにわたり風雨に晒され、表土の流出が続き、ここにきて白旗塚碑や石祠土台が露出転倒する事態になりました。
白旗塚隣接地に農園を持つ北野中学校は郷土の文化財を守ることは体験活動の一環に取り入れるため、塚主の快諾を得て平成19(2007)年修復工事に着手しました。        
(白旗塚土盛修復記念碑などより)
白旗塚
白旗塚 posted by (C)pismo

白旗塚 (1)
白旗塚 (1) posted by (C)pismo
Posted at 2016/01/05 23:01:07 | コメント(1) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記
2015年10月24日 イイね!

靖國神社・皇居・東京タワー

この日は、人を案内して靖國神社と皇居を訪れました。
大村益次郎の銅像
靖國神社
靖國神社 posted by (C)pismo

靖國神社
靖國神社 (1)
靖國神社 (1) posted by (C)pismo


遊就館

靖國神社 (2)
靖國神社 (2) posted by (C)pismo


靖國神社 (3)
靖國神社 (3) posted by (C)pismo

靖國神社 (4)
靖國神社 (4) posted by (C)pismo

靖國神社 (5)
靖國神社 (5) posted by (C)pismo

靖國神社 (6)
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靖國神社 (7)
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皇居(江戸城)
東京タワー
東京タワー posted by (C)pismo
江戸城
江戸城 posted by (C)pismo

江戸城 (1)
江戸城 (1) posted by (C)pismo

KITTEより東京駅
KITTEより東京駅 posted by (C)pismo

東京タワーは、正式名称は日本電波塔といい、高さ333mある東京の観光名所です。
昭和33(1958)年12月23日に竣工しました。
電波塔としての機能は、デジタルテレビ放送設備はスカイツリーに移行しましたが、バックアップとして利用されているほか、ラジオ放送にも使われています。また、東京都環境局の風向風速計、温度計、硫黄酸化物測定器などが高度別に取り付けられています。
東京タワー (1)
東京タワー (1) posted by (C)pismo

東京タワー (2)
東京タワー (2) posted by (C)pismo

東京タワー (3)
東京タワー (3) posted by (C)pismo

東京タワー (4)
東京タワー (4) posted by (C)pismo

東京タワー (5)
東京タワー (5) posted by (C)pismo

東京タワー (6)
東京タワー (6) posted by (C)pismo

東京タワー (7)
東京タワー (7) posted by (C)pismo

東京タワー (8)
東京タワー (8) posted by (C)pismo

東京タワー (9)
東京タワー (9) posted by (C)pismo

Posted at 2016/01/05 19:39:09 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記
2015年10月18日 イイね!

日野市新選組関係史跡など(その2・石田〜高幡不動尊〜平山)

新選組副長土方歳三の生家は、資料館になっているこの地の300m東、石田寺の北方にありました。
弘化3(1846)年、歳三が12歳の6月末、長雨による増水で多摩川・浅川の堤防が決壊し、万願寺や石田村などは大洪水に見舞われたが、歳三の生家も土蔵などに被害を受けました。その後、残った母屋や土蔵をこの地に解体移築しました。
歳三は、その家で文久3(1863)年2月、京都に上洛するまでの青春時代を過ごしました。生家は、万願寺地区の区画整理により平成2(1990)年に取壊されました。現在、屋敷内には歳三の植えた矢竹が繁り、新築された家屋には相撲の稽古をした大黒柱や梁を移植して一室を作り、土方歳三資料館として月に2回、公開しています。
土方歳三の鎖帷子などの武具、写真や手紙などが展示されています。
平成17(2005)年春には3倍の広さになって新装開館し、これまで展示しきれなかった資料も新たに見られるようになりました。
土方歳三資料館
土方歳三資料館 posted by (C)pismo

土方歳三資料館 (1)
土方歳三資料館 (1) posted by (C)pismo

土方歳三資料館 (2)
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土方歳三資料館 (3)
土方歳三資料館 (3) posted by (C)pismo

土方歳三資料館 (4)
土方歳三資料館 (4) posted by (C)pismo

土方歳三資料館 (5)
土方歳三資料館 (5) posted by (C)pismo

土方歳三資料館 (6)
土方歳三資料館 (6) posted by (C)pismo

石明神社(せきみょうじんじゃ)は土方家を含めてこの辺り一帯の 産土神(うぶすなのかみ)です。
創建年代は不明ですが、慶長2(1597)年に社殿を改築した棟札が最古のものであり、その後、寛永2(1673)年、元禄12(1699)年、享保2(1717)年にわたって社殿改築の棟札があります。古くは堰大明神、または石明社または石大明神といわれていましたが、近代にいたって石明神社と改称され、戦後も石明神社と呼ぼれています。
現在の社殿は平成14(2002)年にできたものです。
石明神社
石明神社 posted by (C)pismo

石明神社 (1)
石明神社 (1) posted by (C)pismo

伊十郎屋敷は、土方歳三の生家跡の東隣にあります。
当家は、隣家の先祖源内の分家です。伊三郎、伊十郎、久蔵は幕末三代村役人を勤めました。
伊三郎は弘化3(1846)年、隼人家あわや流亡の折、名主として陣頭指揮し、現在地に移住させました。
この洪水の7年前、14歳の娘なかを本家喜六(隼人)に嫁がせていました。時に歳蔵(歳蔵は宗門人別書上帳に記されている土方歳三の名です。)は5歳でした。
多摩川の本流は更に居村に迫り、安政5(1858)年、伊十郎家も此の地に移りました。
石田村の歳蔵は在郷の若者に武芸を奨励し、特に分家の久蔵(貞作)には、近藤勇からの稽古への誘いの手紙を此の長屋門を通り届けています。
145年の歳月が過ぎ、村の原風物は少なくなった。近藤や歳蔵が見覚えあるものは、とうかんの森や石田寺の榧の木、建物では此の長屋門と母屋ぐらいになってしまいました。
(現地説明板などより)
伊十郎屋敷
伊十郎屋敷 posted by (C)pismo

伊十郎屋敷
伊十郎屋敷 posted by (C)pismo

とうかん森には土方一族(十家余)の氏神を祀る稲荷社があります。
稲荷社は、古くから地元の土方一族が祀ってきたもので、宝永5年(1708)の記録にもそのことが書かれています。「とうかん」の呼称は、「とうかん森」とは「稲荷森」を音読した「とうかもり」あるいは十家の音読みに由来するとも伝えられています。
森は、稲荷祠とカヤ2本及びフジによって形成されています。
カヤはいずれも大木で、樹齢250年と推定されているものもあり、2本とも雄株です。
かつては20mを超えるムクノキ が、稲荷祠を中心にカヤ・フジを取り囲むようにしてあり、こんもりとした森を形成していました。

土方歳三の生まれた家はとうかん森の北東にありましたが、彼が5歳の時多摩川が洪水により土蔵を壊したため、移転しました。
かつては、うっそうとした森ですが、平成23(2011)年、枝が隣家にかかるようにもなり、大幅に伐採されてしまいました。
とうかん森
とうかん森 posted by (C)pismo
とうかん森 (1)
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石田寺は、山号は愛宕山、院号は地蔵院、高幡不動尊金剛寺の末寺で真言宗の寺院です。
南北朝時代の康安元(1361)年、吉祥坊慶興という僧が建立したものの、永和3(1377)年頃から衰えて一時は廃寺となった場所に、百数十年を経た天文13(1544)年7月9日、多摩川に大洪水が起こり、一体の観音像が石田に流れ着きました。それを村人が廃寺になった堂跡に観音堂を建てて安置したのがきっかけになり、文録2(1593)年に慶心という僧が一宇を建立、石田寺と号したといいます。
土方家の墓所があり、土方歳三の墓がもあります。
歳三は函館で戦死しているため、この墓には遺骨はないため「引き墓」です。
石田寺
石田寺 posted by (C)pismo

石田寺 (1)
石田寺 (1) posted by (C)pismo

甲州街道万願寺一里塚です。
江戸幕府は江戸日本橋を起点に街道を整備し、慶長9(1604)年に大久保長安が一里(約4km)ごとに塚を築かせました。
一里塚という名称は、一里ごとに存在したことに由来します。
一里塚は道を挟んで両側に造られ、平面規模は五間四方(約9m)を基準とし、高さは1丈(約3m)と大きなものです。
一里塚は旅人には距離の目安になり、塚の頂上には榎が植えられることが多く、大きく成長すると夏場には木陰を与えるものでした。
今の日野市域には、万願寺と現在の日野台に一里塚が築かれましたが、現存するのは万願寺の一里塚のうち甲州街道(甲州道中)の南側の一基のみです。北側の塚は昭和43(1968)年に取り壊されました。
当初の甲州街道は、青柳(国立市)付近から万願寺渡船場で多摩川を渡り、万願寺一里塚を通り日野宿に入りました。この一里塚は江戸日本橋から9番目にあたり、参勤交代の大名・甲州勤番やお茶壺道中の役人も行き来しました。
その後、貞享元(1684)年に甲州街道は、上流の日野渡船場を通る道筋へと改められました。しかし、万願寺渡船場や日野宿へと至る道は、その後も利用され、多摩川を渡ってこの塚を越えると日野宿に到着することから、このあたりは塚越(つかこし)と呼ばれていました。
平成15(2003)年、現存する甲州街道の南側の塚について範囲や構造を探るために調査を行いました。
塚は直径9m、高さ3mと一里塚の基準通りで、平面形は道に沿って長めでやや楕円形をしています。
塚の構築にあたっては、砂礫層まで掘削し外周を一部掘りくぼめ、砂を多く含む粘土質の土を積み上げました。また、道との境には塚の崩壊を防ぐためか、3段ほどの石積みが見られます。その石積みの上には宝永4(1707)年に噴火した富士山の火山灰が認められたことから、その年代より古いことが確認できています。
この塚の北側に隣接する甲州街道は、3間(5.4m)幅で、道普請の痕跡も見つかっています。
この調査の後、塚の頂上には榎を、塚全体には保護のために芝を、それぞれ植え、甲州街道のイメージも可能なよう復元しました。ただ、甲州街道は本来の3間幅(5.4m)ではなく、幅4mで復元しています。
(現地説明板などより)
甲州街道万願寺一里塚 (1)
甲州街道万願寺一里塚 (1) posted by (C)pismo

甲州街道万願寺一里塚 (2)
甲州街道万願寺一里塚 (2) posted by (C)pismo

甲州街道万願寺一里塚
甲州街道万願寺一里塚 posted by (C)pismo

金剛寺は、山号は高幡山、院号は明王院、正式な寺号は高幡山明王院金剛寺、高幡不動尊の通称で知られる真言宗智山派別格本山の寺院です。
成田山新勝寺、總願寺、雨降山大山寺あるいは高貴山常楽院とともに関東の三大不動尊の一つとされています。
土方歳三の墓のある日野市内の愛宕山石田寺は末寺のひとつです。
創建は、大宝年間(701)以前とも或いは奈良時代行基菩薩の開基とも伝えられていますが、寺伝では今を去る1100年前、平安時代初期に慈覚大師円仁が、清和天皇の勅願によって当地を東関鎮護の霊場と定めて山中に不動堂を建立し、不動明王をご安置したのに始まります。
建武2(1335)年8月4日夜の大風によって山中の堂宇が倒壊し、時の住僧儀海上人が康永元(1342)年麓に移し建てたのが現在の不動堂です。続いて建てられた仁王門ともども重要文化財に指定されています。
室町時代の高幡不動尊は「汗かき不動」と呼ばれて鎌倉公方をはじめとする戦国武将の尊祟をあつめ、江戸時代には関東十一檀林に数えられ、火防の不動尊として広く庶民の信仰をあつめました。
当時門末三十六ケ寺を従え、関東地方屈指の大寺院であったが安永8(1779)年の、大日堂をはじめ大師堂、山門、客殿、僧坊等を一挙に焼失しました。
その後、徐々に復興に向いましたが、昭和50年代以降五重塔・大日堂・宝輪閣・奥殿・大師堂・聖天堂等が再建されていきました。
境内には土方歳三の立像や、近藤勇、土方歳三の顕彰碑「殉節両雄の碑」があります。奥殿には新選組関係の書簡なども展示されています。
高幡不動尊金剛寺
高幡不動尊金剛寺 posted by (C)pismo

高幡不動尊金剛寺 (1)
高幡不動尊金剛寺 (1) posted by (C)pismo

高幡不動尊金剛寺 (2)
高幡不動尊金剛寺 (2) posted by (C)pismo

高幡不動尊金剛寺 (3)
高幡不動尊金剛寺 (3) posted by (C)pismo

高幡不動尊金剛寺 (4)
高幡不動尊金剛寺 (4) posted by (C)pismo

高幡不動尊金剛寺 (5)
高幡不動尊金剛寺 (5) posted by (C)pismo

高幡不動尊金剛寺 (6)
高幡不動尊金剛寺 (6) posted by (C)pismo

高幡不動尊金剛寺 (7)
高幡不動尊金剛寺 (7) posted by (C)pismo

高幡不動尊金剛寺 (8)
高幡不動尊金剛寺 (8) posted by (C)pismo

高幡城は、高幡不動尊の裏山にあった城です。
この城の詳細は不明です。高幡氏や平山氏の城ともいわれています。
享徳4(1455)年1月、関東公方足利成氏と関東管領山内上杉氏、扇谷上杉氏の間で行われた立河原合戦で敗れた上杉憲秋は高幡不動まで逃れて自刃しています。
不動ヶ丘と呼ばれる丘陵にあり、高幡不動尊の山内八十八箇所巡拝コースになっています。
頂上の広場の本丸付近に説明看板が立っています。麓は根小屋、陣川戸等城址ゆかりの地名が残っています。
高幡城 (1)
高幡城 (1) posted by (C)pismo

高幡城 (2)
高幡城 (2) posted by (C)pismo

高幡城
高幡城 posted by (C)pismo

高幡城 (3)
高幡城 (3) posted by (C)pismo

平山季重居館は、平安時代末期から鎌倉時代初頭にかけ、源氏に属して各地で活躍した武将、平山季重の居館の跡です。
平山季重は、保元の乱、一の谷の合戦など数々の合戦に参加し、その武勇伝は「平家物語」「吾妻鏡」にも登場するほどです。
遺跡の碑が建てられている周辺は、その後曹洞宗由木永林寺末・大福寺のあり、文化2(1805)年、大福寺を訪れた平山正名(下総国香取郡鏑木村・季重の子孫と称する)は寺内の季重の墓に詣で、その荒廃を嘆いて修復を発願しました。その意思は子の正義に受け継がれ、平山季重遺跡之碑は、嘉永4(1851)年に平山正義により建てられたものであり、碑文には季重の功績をたたえています。碑文の筆者は幕末の剣客として有名な男谷精一郎信友です。大福寺は、明治6(1873)年廃寺となりました。季重居館跡の碑は、大正14(1925)年12月に七生青年団平山支部によって建てられました。
現在この地には、平山季重ふれあい館等が建てられ、居館跡を伝えるものとして、平山季重遺跡之碑と季重居館跡の碑があります。
(現地説明板などより)
平山季重居館
平山季重居館 posted by (C)pismo

平山城は、平山城址公園駅の南側にある丘陵にあります。
丘の尾根一帯は都立公園「平山城址公園」として整備されています。
公園の敷地外には、平山季重を祀る「平山季重神社」がありますが、ここが曲輪跡のようです。
歴史的な由緒は不明ですが、平山氏に関わる城と推定されています。
平山城址公園近く
平山城址公園近く posted by (C)pismo

平山城址公園近く (1)
平山城址公園近く (1) posted by (C)pismo

平山城
平山城 posted by (C)pismo

平山城 (1)
平山城 (1) posted by (C)pismo

宗印寺は、山号は大澤山、曹洞宗の寺院です。
境内地は、安行寺無量院のあったところといわれています。
慶長4(1599)年、中山照守が一庵を建てました。寛文3(1633)年になり、一東天樹が一寺を開き宝永2(1705)年、三世大本慧立大和尚が痛んだ堂宇を復興させました。このときから開基中山照守の戒名宗印居士をとって、大沢山宗印禅寺と号することになりました。平山季重を供養するために建てられた大平山大福寺が明治6(1873)年、廃寺になったため、平山季重の墓、日奉地蔵堂、大福寺本尊の千手観世音菩薩立像も宗印禅寺に移されました。墓は季重二十五代の孫松本藩の平山季長が追悼のために建立したものです。
(現地説明板などより)
宗印寺 (1)
宗印寺 (1) posted by (C)pismo

宗印寺 (2)
宗印寺 (2) posted by (C)pismo
Posted at 2016/01/03 22:04:31 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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