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ピズモのブログ一覧

2016年03月19日 イイね!

真田丸と茶臼山周辺

三光神社の創建は第18代反正天皇の時代で、以後神職として 武内宿弥の苗裔たる武川氏が86代にわたって務めました。
古来より日本全國で唯一の中風病除の神として知られ、全国に崇敬者がおられます。
6月1日から7日まで祈願大祭があります。
七福神の一つ寿老人(武内宿弥)を祀り、毎月7日は大坂七福神巡りがなされます。
この周辺は大坂城の出城・真田丸(偃月城)があり、大坂冬の陣では真田信繁(幸村)が陣し本城よりここに至るまで地下に暗道を設けたといわれ、その痕跡といわれる「真田の抜け穴」が本殿階下にあります。ただし、現在残っている抜け穴は真田信繁がつくったものではなく、真田丸を攻めた前田軍の塹壕の痕跡の可能性が高いともいわれています。
抜け穴の隣には真田幸村の銅像も建立されています。
三光神社
三光神社 posted by (C)pismo

三光神社 (1)
三光神社 (1) posted by (C)pismo

三光神社 (2)
三光神社 (2) posted by (C)pismo

三光神社 (3)
三光神社 (3) posted by (C)pismo

三光神社 (4)
三光神社 (4) posted by (C)pismo

三光神社 (5)
三光神社 (5) posted by (C)pismo

三光神社 (6)
三光神社 (6) posted by (C)pismo

三光神社 (7)
三光神社 (7) posted by (C)pismo

心眼寺は、山号は真田山、浄土宗の寺院です。
元和8(1622)年に僧白牟が真田信繁(幸村)、大助父子の冥福を願って建立されたお寺です。
かつては「幸村鎧掛けの松の木」もありましたが、昭和20(1945)年の大阪大空襲により堂宇ともども焼失しました。
門扉に真田家の家紋の六文銭がありますが、この近辺は真田信繁が冬の陣で活躍した真田丸があったとされています。
境内には「従五位下 真田左衛門佐豊臣信繁之墓」があります。真田信繁は、武田信玄配下の武将であった、父真田昌幸の次男で、通称は源次郎、号は好白といいます。
関ヶ原の戦いでは父と共に西軍に付くも、戦いに敗れ、紀州九度山に幽閉されます。14年間、蟄居生活を送り、慶長19(1614)年豊臣方に参加しました。
大阪冬の陣では、難攻不落の大阪城唯一の弱点とも豊臣秀吉が危惧した、南惣構の外側に真田出丸を構築、そこで徳川方と壮絶な死闘を繰り広げました。
翌年の夏の陣で、信繁は茶臼山に本陣を置いて徳川本体と戦い、徳川家康に迫るも力尽き、越前兵に安居神社付近で討ち取られたと伝えられています。
真田信繁は、一般に「幸村」として知られる。しかし現存最後とされる慶長20年3月19日付の書簡にも「左衛門佐信繁」と署名があり、生前「幸村」と名乗ったことはなかったと考えられています。
徳川時代中期にあたる18世紀のなかばころには「幸村」の呼称が流布していましたが、本墓碑は、生前の確実な諱である「信繁」を採用した。
豊臣姓は秀吉が創始したもので、弟秀長や甥(のち養子)秀次ら親族のほか、毛利輝元や徳川秀忠(おそらく家康も)など有力大名も称しました。
当寺は徳川時代より信繁の菩提を弔っており、平成26(2014)年10月、信繁の四百回忌に際して、墓碑を建立しました。
また、境内には京都見廻組の桂早之助・渡辺吉太郎の墓があります。
慶応3(1867)年11月15日、京都木屋町の近江屋で坂本龍馬や中岡慎太郎らが殺害されました。
箱館戦争終結後、新政府に捕えられた元見廻組肝煎 今井信郎の供述によると、見廻組与頭 佐々木只三郎を指揮者とする数名が、坂本龍馬らを襲撃しました。
その人員の中に、桂早之助と渡辺吉太郎、高橋安次郎の名があります。
慶応4(1868)年1月3日に始まった鳥羽伏見の戦いに見廻組も参戦し、最前線で戦いました。
桂は下鳥羽で左股に銃創を受け、4日に戦死しています。遺体は戸板に乗せられて同僚らの手で大坂まで運ばれ、本寺に葬られました。
享年28歳。戒名は「徳元院大誉忠愛義貫居士」です。
渡辺は鳥羽から橋本にいたる戦いの中で負傷し、5日に戦死、本寺に葬られました。享年26六歳。
墓碑には吉三郎とあるが、同時代資料から「吉太郎」が正しいです。
高橋も5日に鳥羽淀橋において戦死し、本寺に葬られた。享年27歳でした。
「宝樹院恩誉巍山孝道居士」という戒名を刻んだ墓石が、桂の墓の隣に存在していましたが、現在、墓石は残されてません。
裏面には「慶応四年戊申夭正月五日」と刻まれていたと伝わっています。
(現地説明板などより)
真田丸・心眼寺
真田丸・心眼寺 posted by (C)pismo

真田丸・心眼寺 (1)
真田丸・心眼寺 (1) posted by (C)pismo

真田丸・心眼寺 (3)
真田丸・心眼寺 (3) posted by (C)pismo

真田丸・心眼寺 (4)
真田丸・心眼寺 (4) posted by (C)pismo

真田丸・心眼寺 (5)
真田丸・心眼寺 (5) posted by (C)pismo

真田丸・心眼寺 (6)
真田丸・心眼寺 (6) posted by (C)pismo

真田丸・心眼寺 (7)
真田丸・心眼寺 (7) posted by (C)pismo

真田丸・心眼寺 (8)
真田丸・心眼寺 (8) posted by (C)pismo

慶長5(1600)年の関ヶ原合戦で西軍に与し敵軍の将となった信州上田城主真田昌幸、幸村(信繁)親子は戦後高野山に流され、しばらくして麓の九度山(和歌山県九度山町)に移りました。
父昌幸は慶長16(1611)年6月4日に九度山で亡くなりますが、幸村は大坂冬の陣が勃発するや否や、慶長19(1614)年10月、豊臣秀頼の招きに応じて大坂城に入城しました。
幸村はすぐに大坂城の弱点が南側にあるのを見抜き、出丸を構築しました。これが「真田丸」で、幸村は慶長19(1614)年12月4日、ここ「真田丸」を舞台に前田利常、松平忠直、井伊直孝、藤堂高虎ら徳川方の大軍を手玉にとりました。
「真田丸」の場所については、元禄年間(1688〜1704)年に作製された大坂三郷町絵図に「真田出丸跡」として明示されており、それによると現在の大阪明星学園の敷地が「真田丸」の跡地であることが明らかです。今はグラウンドになっているため、かつての面影は全く失われていますが、真田幸村はこの場所で徳川方相手に大勝利を得ました。
平成28(2016)年1月、大阪明星学園グラウンド前に顕彰碑が建てられました。
心眼寺、三光神社、グラウンド付近の高低差など周辺の地形にはかつての真田丸の面影がかすかに感じられます。
(現地説明板などより)
真田丸
真田丸 posted by (C)pismo

真田丸 (1)
真田丸 (1) posted by (C)pismo

真田丸 (2)
真田丸 (2) posted by (C)pismo

真田丸 (3)
真田丸 (3) posted by (C)pismo

安居神社は祭神に少彦名神、菅原道真公を祀る神社です。
道真公が太宰府に左遷される途中、この地で少し安居(休憩)されたというので40年を経た天慶5(942)年ここにその御神霊をお祀りした安居神社と称したといわれています。
境内には昔から癇鎮めの井と称する井戸があり霊水として広く知られていますが、現在は四囲の状況に禍され枯渇の状態にあります。
昭和20(1945)年太平洋戦争の災禍をうけ一切の建物は焼失しましたが、大丸を始め奉賛者の寄進により昭和26(1951)年春復興しました。
境内に真田幸村戦死跡碑があります。
元和元(1615)年大坂夏の陣に徳川家康は秀忠と共に大軍を率いて大坂城を攻めました。ここで大坂方は城を出て戦い、5月6日真田信繁(幸村)は後藤基次、薄田兼相等と大和口を防がんとして河内の片山道明寺に赴き、基次等が敗死したので殿軍となって伊達政宗の兵と戦い、翌7日は天王寺附近に松平忠直の軍を迎え奮戦し家康を追いつめるまでに至りましたが、ついに当社境内一本松の下で力尽きて越前松平勢鉄砲組の西尾仁左衛門にその首を授けました。。時に49歳でした。
当時の松は既に枯死しましたが、社殿復興を機に昭和26(1951)年4月24日これを記念して植樹されました。
また、真田幸村公之像は平成21(2009)年12月17日に建立されました。
例年5月に幸村祭が盛大に行われます。
安居神社〔安居天満宮〕
安居神社〔安居天満宮〕 posted by (C)pismo

安居神社〔安居天満宮〕 (1)
安居神社〔安居天満宮〕 (1) posted by (C)pismo

安居神社〔安居天満宮〕 (2)
安居神社〔安居天満宮〕 (2) posted by (C)pismo

安居神社〔安居天満宮〕 (3)
安居神社〔安居天満宮〕 (3) posted by (C)pismo

安居神社〔安居天満宮〕 (4)
安居神社〔安居天満宮〕 (4) posted by (C)pismo

安居神社〔安居天満宮〕 (5)
安居神社〔安居天満宮〕 (5) posted by (C)pismo

安居神社〔安居天満宮〕 (6)
安居神社〔安居天満宮〕 (6) posted by (C)pismo

安居神社〔安居天満宮〕 (7)
安居神社〔安居天満宮〕 (7) posted by (C)pismo

安居神社〔安居天満宮〕 (8)
安居神社〔安居天満宮〕 (8) posted by (C)pismo

一心寺は正式名称は坂松山高岳院一心寺で法然上人二十五霊場第七番札所です。
文治元(1185)年天台座主慈円が草庵をつくったのが最初といわれ、法然上人が日想観を修しました。隣接する東側、茶臼山の裏には「一心寺シアター倶楽」という劇場を持っています。
大坂城の三の丸玉造門を移設した「黒門」などがありましたが、太平洋戦争で焼失しました。
写真下の黒門は建築家でもある現住職の作った鉄とコンクリートのものです。現代建築と、和風建築の両方が見られるお寺です。
本多忠勝の次男で本多忠政の弟本多忠朝の墓があり、「酒封じの神」として禁酒を誓う人がよく詣でているそうです。
一心寺
一心寺 posted by (C)pismo

本多出雲守忠朝の墓は、一心寺内にあります。
本多出雲守忠朝は、徳川家康公四天王の一人といわれた本多忠勝の次男で忠政の弟です。関ヶ原合戦で初陣を飾り、父忠勝が伊勢桑名へ移封された後、上総大多喜城五万石の城主となりました。
酒が好きで、慶長19(1614)年大坂冬の陣でも活躍しましたが、このとき酒を飲んでいたため、敵の猛攻に遭って敗退したため家康に咎められた忠朝は翌年、慶長20(1615)年大坂夏の陣のとき、汚名を返上しようと死を覚悟していました。そして毛利勝永勢と戦い、戦死しました。享年34歳でした。
いつも飲み過ぎては後悔していた忠朝は、死の間際に、『今後、自分の墓に詣でる者を必ず酒嫌いにさせてやろう』と遺言したといわれています。
現在も酒封じの神として断酒を願う人たちが数多く参拝しています。
墓碑周辺のシャモジは参拝者による酒封じ祈願であす。 墓碑は、元和2(1616)年に建立されたものです。
一心寺 (1)
一心寺 (1) posted by (C)pismo

茶臼山は大阪市内でも最大級の前方後円墳です。被葬者は不明ですが、付近の豪族の墓だと思われます。茶臼山の南側の河底池(かわぞこいけ、通称ちゃぶいけとも言う)は奈良時代に和気清麻呂が、大和川や河内湖の排水と水運のために上町台地を開削しようとして失敗した跡地といわれています。
大阪冬の陣の際、徳川家康の本陣であり、大坂夏の陣で真田軍が布陣した場所でもあります。
慶長20(1615)年5月7日、紅の旗・吹貫であたかもつつじの花盛りのように群れなびかせた真田の赤揃が陣を構える茶臼山の真田幸村隊三千五百は、この日の正午過ぎ、徳川方最強の松平忠直率いる越前勢一万五千と激突し、真田の赤揃ええと松平家の家紋のツマ黒が交互に入り乱れる大坂夏の陣の最大の激戦が茶臼山周辺で繰り広げられました。大坂夏の陣・天王寺口の戦いです。
数では劣る真田隊でしたが、高い戦意と捨て身の攻撃で越前勢を突き破り、徳川家康の本陣目掛けて一文字に三度の攻撃を仕掛け、あとわずかで家康の首に手が届くところまで攻めるも、数に優る越前勢が混乱から立ち反撃を開始、しばらく茶臼山に拠って抵抗を続けた真田隊も越前勢の猛攻によって奮戦むなしく壊滅し、真田幸村も激戦を戦い抜いて疲弊し茶臼山の北にある安居天神で休息しているところを越前兵により討ち取られました。
茶臼山
茶臼山 posted by (C)pismo

茶臼山 (1)
茶臼山 (1) posted by (C)pismo

茶臼山 (2)
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茶臼山 (3)
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茶臼山 (4)
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茶臼山 (5)
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茶臼山 (6)
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茶臼山 (7)
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Posted at 2016/04/30 21:45:31 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2016年03月16日 イイね!

九度山・かつらぎ・高野・野迫川(その3・野迫川村の平維盛歴史の里)

一ノ谷の合戦に敗れた平家は、屋島へと逃げのび、寿永3(1184)年宗盛(清盛の次男)の下命により、平維盛(26歳)は熊野水軍の援軍を求めるため熊野別当田辺湛増(現在の和歌山県田辺市)のもとへ使者として派遣されましたが天下の情勢はすでに源氏側にあったため、湛増は平家の恩恵は知りつつも、熊野一国の安泰を考慮し、援軍を断りました。
湛増は維盛公に姫を娶らせて、自分のもとへ匿い、源氏の追討から守りました。
しかし、源頼朝は文治5(1189)年維盛逮捕令を発令し、一大平家狩りを行いました。
湛増は配下豪族に命令し、維盛を守護させながら、奥熊野の山岳地帯に逃しました。
建久9(1199)年源頼朝の死により、平家狩りも休止しました。
維盛は京の妻子に再会するため、紀伊山岳路を北上、建保4(1216)年維盛(58歳)主従は、野迫川村平へ到着しました。
山岳流浪潜伏すること30余年におよび、源氏追討と山岳突破の疲労により、この地にとどまり承久元(1219)年61歳で終焉しました。
里人により手厚く葬られ「平維盛塚」として伝わります。「嗚呼 小松三位左中将 平朝臣維盛公、終焉の地」
周辺は「平維盛歴史の里」として整備され、無料で無人の資料館などがあります。平維盛伝説をジオラマ、レプリカ、映像などで再現しています。毎年7月の最終土曜日に「平維盛の大祭」が行われます。
(現地説明板などより)

平維盛歴史の里
平維盛歴史の里 posted by (C)pismo

平維盛歴史の里 (1)
平維盛歴史の里 (1) posted by (C)pismo

平維盛歴史の里・平維盛塚
平維盛歴史の里・平維盛塚 posted by (C)pismo

平維盛歴史の里・平維盛塚 (1)
平維盛歴史の里・平維盛塚 (1) posted by (C)pismo

平維盛歴史の里・平維盛塚 (2)
平維盛歴史の里・平維盛塚 (2) posted by (C)pismo

平維盛歴史の里・平維盛塚 (3)
平維盛歴史の里・平維盛塚 (3) posted by (C)pismo
Posted at 2016/04/26 23:21:05 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2016年03月16日 イイね!

九度山・かつらぎ・高野・野迫川(その2・高野山)

高野山の大門は高野山の盆地の西端にあたり高野山の西の入口の正門です。重層の五間三戸、入母屋造、銅瓦葺の楼門です。
昔はここから天野、慈尊院に通ずる町石道と西高野街道が紀ノ川流域に向かいました。また有田川流域に向かう道もありました。
大門は元禄元(1688)年に炎上し、宝永2(1705)年に落慶しました。それが今の門です。
昭和57(1982)から昭和59(1984)年に解体修理されました。自動車道路の開通と共に高野山の入口として再び活気を取り戻しています。
昭和40(1965)年5月29日、国の重要文化財に指定されています。
(現地説明板などより)
高野山・大門 (1)
高野山・大門 (1) posted by (C)pismo

高野山・大門 (2)
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高野山・大門 (3)
高野山・大門 (3) posted by (C)pismo

壇上伽藍は、弘仁7(816)年から弘法大師が建立した高野高野山の真言密教の信仰の中心です。
壇上伽藍は、胎蔵曼荼羅の世界を表しているといわれており、金堂、根本大塔、西塔、御影堂などが立ち並んでいます。
平成27(2015)年、高野山開創1200年を記念して170年ぶりに中門が再建されています。
高野山壇上伽藍
高野山壇上伽藍 posted by (C)pismo

高野山壇上伽藍 (1)
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高野山壇上伽藍 (2)
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高野山壇上伽藍 (3)
高野山壇上伽藍 (3) posted by (C)pismo

高野山壇上伽藍 (4)
高野山壇上伽藍 (4) posted by (C)pismo

高野山壇上伽藍 (5)
高野山壇上伽藍 (5) posted by (C)pismo

高野山壇上伽藍 (6)
高野山壇上伽藍 (6) posted by (C)pismo

高野山壇上伽藍 (7)
高野山壇上伽藍 (7) posted by (C)pismo

高野山壇上伽藍 (8)
高野山壇上伽藍 (8) posted by (C)pismo

高野山壇上伽藍 (9)
高野山壇上伽藍 (9) posted by (C)pismo

高野山壇上伽藍 (9)
高野山壇上伽藍 (9) posted by (C)pismo

高野山壇上伽藍 (9)
高野山壇上伽藍 (9) posted by (C)pismo

金剛峯寺は高野山真言宗の総本山です。
金剛峯寺は明治以前は、高野山全体を指す名称でした。
この寺院は、元々青巖寺といい、文禄2(1593)年、豊臣秀吉が亡母の菩提を弔うために建立しました。文久3(1863)年再建されたのが現在の建物です。
大主殿の他、別殿、新別殿、奥殿、新書院、茶室、阿字観道場、経蔵、鐘楼、後庭に伝燈国師廟、護摩堂等が並んでいます。
明治2(1869)年、青巖寺と興山寺を合併し、真言宗の管長が住むこの総本山寺院のことを金剛峯寺としました。
狩野派の襖絵が多くあり、大広間には狩野探幽の襖絵「松に群鶴」が、また豊臣秀次が自刃したという柳の間には狩野探斉の襖絵「雪柳白鷺」が描かれています。
砂の波紋が美しい蟠龍庭もあります。
金剛峯寺 (2)
金剛峯寺 (2) posted by (C)pismo

金剛峯寺 (3)
金剛峯寺 (3) posted by (C)pismo

金剛峯寺 (4)
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金剛峯寺 (5)
金剛峯寺 (5) posted by (C)pismo

金剛峯寺 (6)
金剛峯寺 (6) posted by (C)pismo

金剛峯寺 (7)
金剛峯寺 (7) posted by (C)pismo

金剛峯寺 (8)
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金剛峯寺 (9)
金剛峯寺 (9) posted by (C)pismo
Posted at 2016/04/26 22:51:22 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2016年03月16日 イイね!

九度山・かつらぎ・高野・野迫川(その1・九度山・かつらぎ町)

九度山・真田ミュージアムは、真田昌幸、幸村、大助の真田三代の物語を長く後世へと語り継ぐことを目的とした施設です。
14年間という幸村の生涯で一番長い時間を過ごした九度山での生活をパネル展示とドラマ仕立ての映像により紹介します。
平成28(2016)年のNHK大河ドラマ「真田丸」を記念し、真田幸村が一番長く住んだといわれる九度山に平成28年3月13日にオープンしました。
九度山・真田ミュージアム
九度山・真田ミュージアム posted by (C)pismo

九度山・真田ミュージアム (1)
九度山・真田ミュージアム (1) posted by (C)pismo

九度山・真田ミュージアム (4)
九度山・真田ミュージアム (4) posted by (C)pismo

信州上田城主、真田昌幸・真田信繁(幸村)父子は慶長5(1600)年関ヶ原の戦で西軍に味方して敗れ、高野山に配流の身となり、九度山のこの地で蟄居生活をしました。
昌幸は、慶長6(1611)年再起を願いながらこの地で65歳の生涯を閉じました。
信繁は慶長18(1614)年、子大助ら一族と共に九度山のこの地を出て立ち、大阪城に入城、大阪冬の陣、夏の陣で奮戦、元和元(1615)年茶臼山付近で壮烈な最後をとげました。その後、江戸中期の寛保元(1741)年大安上人によって善名称院(真田庵)が創建され現在に至っています。
毎年5月5日の子供の日に真田祭大法会が行われます。
境内には、真田宝物資料館があります。入館料は200円で、受付は無人ですがお金を入れるところがあります。
真田庵〔善名称院〕
真田庵〔善名称院〕 posted by (C)pismo

真田庵〔善名称院〕 (1)
真田庵〔善名称院〕 (1) posted by (C)pismo

真田庵〔善名称院〕 (2)
真田庵〔善名称院〕 (2) posted by (C)pismo

真田庵〔善名称院〕 (3)
真田庵〔善名称院〕 (3) posted by (C)pismo

真田庵〔善名称院〕 (4)
真田庵〔善名称院〕 (4) posted by (C)pismo

真田庵〔善名称院〕 (5)
真田庵〔善名称院〕 (5) posted by (C)pismo

真田庵〔善名称院〕 (6)
真田庵〔善名称院〕 (6) posted by (C)pismo

真田庵〔善名称院〕 (7)
真田庵〔善名称院〕 (7) posted by (C)pismo

真田庵〔善名称院〕 (8)
真田庵〔善名称院〕 (8) posted by (C)pismo

真田庵〔善名称院〕 (9)
真田庵〔善名称院〕 (9) posted by (C)pismo

真田庵〔善名称院〕 (10)
真田庵〔善名称院〕 (10) posted by (C)pismo

真田庵〔善名称院〕 (11)
真田庵〔善名称院〕 (11) posted by (C)pismo

真田古墳は、紀ノ川と丹生川によって開削された段丘状台地の南斜面中腹に立地しています。大坂夏の陣に六文銭の旗印をはせた、かつての勇将真田幸村が草庵を結んだゆかりの地であり、実はこの古墳も久しく「真田の抜け穴」と伝承されていました。
現今では、墳丘が削られており、石室天井部が地表面と同高位にあって、いわゆる地下式石室と呼ばれるものです。石室は南向きの横穴式で、割石積みの側壁と平石を用いた奥壁及び天井とをもって構成されています。
羨道は長さ1.4m、幅1.7m、高さ1.2m、玄室は長さ3m、幅1.8m、高さ1.7mを図ることができます。羨道と玄室との境界に柱石を設け、玄室の扉石として使用されたと思われ、平石も認められます。
古墳時代後期(6世紀)の横穴式石室を持つ円墳です。
発掘調査の結果、古墳時代後期の横穴式石室を持つ円墳であるということが明らかにされました。
(現地説明板などより)
真田古墳
真田古墳 posted by (C)pismo

真田古墳 (1)
真田古墳 (1) posted by (C)pismo


弘法大師が弁財天と対面したと伝えられている対面石です。
槙尾山由来記によると、空海(弘法大師)は童形のころ、槙尾山(和泉国)におられ、弁財天を信仰されていました。
高野山開創後も、その信仰は固く、毎月九度は和泉の槙尾山に参詣されていました。
ある時、紀の川の水が増水し、大師が渡りかねていると、「御対面石」に弁財天が姿を現され「和泉まで参詣するのが大儀であるから、この九度山の地に移してよかろう」とのお告げにより、この尊を勧請して槙尾山明神社に祀ったと言われています。
この対面石は、現在でもこの地にあり、「紀伊続風土記」にも、「弘法大師槙尾明神と対面せし処といひ伝へたり」とあります。
今では弘法大師が母公と対面した所と説明されていますが、これは明治時代以後のことです。
ここは、槙尾に登る口あたりにあり、神聖な石も祀る大切な場であったと考えられます。
(現地説明板などより)
対面石
対面石 posted by (C)pismo

道の駅柿の郷くどやまは、和歌山県九度山町にある道の駅です。平成26(2014)年4月16日にオープンしました。
農産物販売所「よってって」、ベーカリーカフェ「パーシモン」、体験・研修施設、世界遺産情報センター、情報コーナーを兼ね備えています。
世界遺産情報センター、情報コーナーでは、来場者に「世界遺産の町と真田ゆかりの郷・九度山町」と「高野山」をPRすべく、パネル展示などが行われています。
道の駅柿の郷くどやま (2)
道の駅柿の郷くどやま (2) posted by (C)pismo

道の駅柿の郷くどやま (3)
道の駅柿の郷くどやま (3) posted by (C)pismo

丹生官省符神社(にうかんしょうぶじんじゃ)は、慈尊院の隣接地にあり、119段の石段を登っていったところにあります。
丹生都比売大神、高野御子大神、大食都比売大神、市杵島比売大神を主祭神とする神社です。
弘仁7(816)年に空海によって創建されたといわれており、高野山の領する官省符荘の鎮守とされました。
平成16(2004)年7月に、『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界遺産に登録されました。
丹生官省符神社 (2)
丹生官省符神社 (2) posted by (C)pismo

丹生官省符神社 (3)
丹生官省符神社 (3) posted by (C)pismo

丹生官省符神社 (4)
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丹生官省符神社 (5)
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慈尊院は、弘仁7(816)年、空海(弘法大師)が嵯峨天皇から高野山の地を賜った際に、高野山参詣の要所に当たるこの九度山の雨引山麓に、高野山への表玄関として伽藍を創建し、高野山一山の庶務を司る政所(寺務所)を置いて、高野山への宿所ならびに冬期避寒修行の場としました。
空海の母は、高野山を一目見ようとやって来たが、高野山は女人禁制のため、麓にあるこの政所に滞在しました。
空海は一月に9度、母を訪ねてきたので、この辺りに「九度山」という地名がついたといわれています。
空海の母は承和2(835)年に亡くなりましたが、その際空海が弥勒菩薩の霊夢を見たので、廟堂を建立し自作の弥勒菩薩像と母公の霊を祀ったといわれています。慈尊院の名は弥勒菩薩の別名を「慈尊」と呼ぶことからきています。
慈尊院は女人結縁の寺として知られるようになり、女人の高野山参りはここということで「女人高野」とも呼ばれています。平成16(2004)年7月に、高野山や高野山町石道とともに『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界遺産に登録されました。
慈尊院
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慈尊院 (1)
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慈尊院 (2)
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慈尊院 (3)
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慈尊院 (4)
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勝利寺は、山号は万年山、別称は世尊院、真言宗の寺院です。
弘法大師空海が高野山開創より以前に創建したと伝えられる寺院です。
空海は弘仁6(815)年、42歳の厄年に、厄除けのために十一面観音を奉納しました
後に平清盛や、紀伊湯浅領主湯浅景平が病の平癒祈願を行いました。平清盛は法華経典、景平は感謝して二体の観音像を寄進したといわれています。
山門、本堂は江戸時代のもので、九度山町指定文化財になっています。
境内には紙遊苑があり、弘法大師ゆかりの高野紙(古沢紙)の製紙について紹介がされています。
勝利寺 (2)
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勝利寺 (3)
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勝利寺 (5)
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丹生都比売神社は、紀伊国一宮の神社です。全国にある丹生神社は、八十八社、丹生都比売大神を祀る神社は百八社、摂末社を入れると百八十社余を数え、丹生都比売神社はその総本社です。
創建の年代は不詳です。神功皇后の三韓征伐の際、爾保都比売命が国造の石坂比売命に憑いて神託し、赤土を授けて勝利が得られたため、「管川の藤代の峯」にこの神を祀ったといわれています。
空海が金剛峯寺を建立するにあたって丹生都比売神社が神領を寄進したと伝えられ、古くより高野山と深い関係にある神社です。丹生都比売大神の御子、高野御子大神は、密教の根本道場の地を求めていた弘法大師の前に、黒と白の犬を連れた狩人に化身して現れ、高野山へと導きました。弘法大師は、丹生都比売大神よりご神領である高野山を借受け、山上大伽藍に大神の御社を建て守護神として祀り、真言密教の総本山高野山を開きました。鎌倉時代には、行勝上人により気比神宮から大食都比売大神、厳島神社から市杵島比売大神が勧請され、社殿が北条政子により寄進され、本殿が四殿となりました。
現在の本殿は、室町時代に復興され、一間社春日造では日本一の規模を誇り、楼門と共に重要文化財に指定されています。
平成16(2004)年「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されています。
丹生都比売神社 (2)
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丹生都比売神社 (3)
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丹生都比売神社 (4)
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丹生都比売神社 (5)
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丹生都比売神社 (6)
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丹生都比売神社 (7)
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丹生都比売神社 (8)
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丹生都比売神社 (9)
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丹生都比売神社 (10)
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丹生都比売神社 (11)
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Posted at 2016/04/25 23:37:26 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2016年03月06日 イイね!

伊豆の桜・滝・史跡紀行(3日目その4・伊豆長浜城)

長浜城は北条水軍の城です。戦国時代の水軍の拠点の多くは、陸地から離れた島に築かれていますが、この長浜城は全国的にも珍しい山城の特徴を持つ水軍の城です。
長浜城が城として使われたのは、戦国時代の終わりの天正7(1579)年~天正18(1590)年頃と考えられています。
氏直の時代に、甲斐の武田氏が駿河へ攻め狩野川河口に三枚橋城を築いて水軍を配置しました。そして黄瀬川に出陣し、北条氏政と戦うなどこの地を巡り争いを繰り広げたため、北条氏の城として武田氏に対抗するために長浜城は築かれました。
北条水軍は武田氏に対抗するため、梶原備前守景宗を大将として、ここ長浜城に特別な軍船隊を置きました。梶原景宗は伊勢の出身で、当時西国で発達していた「安宅船」と呼ばれる大型軍船の運用を得意としていました。長浜城は梶原景宗の指揮する「安宅船」船隊の基地として整備され、武田水軍に対して有利に戦いを進めるための足場になったのです。天正8(1580)年には武田・北条両氏水軍による駿河湾海戦が行われました。
一方、天正18(1590)年の記録からは、最終的にこの地の土豪(有力者)が、武将として城に立てこもり、敵に備えたことがわかっています。
しかし、豊臣秀吉の攻撃によって、三島市にある山中城が落城するなど、その影響で長浜城も廃城になったと考えられます。
昭和63(1988)年、国の史跡に指定され、平成3(1991)年度から平成16(2004)年度にかけて沼津市が土地を取得し、平成13(2001)年度から平成26(2014)年度にかけて史跡整備を行いました。
(現地説明板などより)
長浜城
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長浜城 (1)
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長浜城 (2)
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長浜城 (3)
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長浜城 (4)
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長浜城 (5)
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長浜城 (6)
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長浜城 (7)
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長浜城 (8)
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長浜城 (9)
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長浜城 (10)
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長浜城 (11)
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長浜城 (12)
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長浜城 (13)
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長浜城 (14)
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長浜城 (15)
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長浜城 (16)
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長浜城 (17)
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長浜城 (18)
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長浜城 (19)
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長浜城 (20)
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Posted at 2016/04/18 23:27:08 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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