
中学1年生の時、山から切り出した薪や炭を運ぶ為に、谷を越えてケーブルを渡し、そのケーブルを利用し動力にオートバイそのものを活用していた。その活用していたのが「メグロ500ccのオートバィ」であった。
そのオートバィは山中に破棄され、それを分解した時から始まるのである。もっとも3歳時の頃より乗り物には特別な思いがあり、近所の大工さんに木製の自動車を作って頂き、その自動車をいつも離すことなく持ち続けていた記憶がある。
5~6歳頃になるとブリキの自動車がおもちゃとして出回り、それを親から買ってもらい、本来の楽しみ方では無く、その構造が知りたくて「分解」するのが面白く、また分解した後に、組み立てる喜びが興味をより一層高め、楽しんで過ごした事が、機械を好きになる原点である。
破棄されていたオートバイはそれは梅雨の時期で、蚊に刺されながらバラバラに分解し、その分解したパーツを自宅に持ち帰って、メグロとは一切関係のない「汎用品のオートバイ構造図」を本屋で購入、その図を手本に組み立てた経験が、機械がそしてオートバイの仕組みを知る好奇心を増す切っ掛けであった。
当時、家にあったオートバイは2サイクルエンジン、構造は4サイクルよりズッと簡単でパーツの量も少なく、エンジン分解は朝飯前と言うほど簡単であった。
その様な事の繰り返し、星の数ほどとチョット大げさであるが、この機械に興味があることが30歳代後半時から40歳代時に人生を救う事になろうとは
1970年代前後の頃、アメリカ生まれのオートバィ「ハーレーダビットソン」はお金持ちの遊びの道具で、1ドル360円時代、当時は今の相場で換算すると1000万円以上の価格であった。しかし、その品質はとても良いと言なかった。しかし、威風堂々とその走りっぷりは地球上、最大の乗り物として、またお金持ちの誇示にはうってつけで、それは羨望の眼差しをまた多くの方の「憧れ」でもあった。
しかし、品質には難点が潜んで少し走らせただけでスグ故障、とても遠くに出かけて行くには勇気が必要で、お金持ちは購入してみたが一度、トラブルに巻き込まれると、一気にその熱は冷め物置の邪魔者扱いとなっていくのである。
そんな邪魔者が10数年も埃まみれに倉庫や物置に放置され、そこに目につけたのが私であった。10数年前にはあそこの家ではハーレーを持っていた!と情報を得てはその家へ伺い、交渉しては埃が2cm近く積もったハーレーを入手しまくったのである。
運良く、邪魔者扱いで何とかしようと言う矢先、スクラップ屋さんが来ては二束三文で引き取るという話が持ち上がっていた。
私が購入するに当たって決して高額ではないが、スクラップ屋より条件が良い、と言う理由でどの家も、容易に売却に応じて頂けた。
これは有難かった。ただ売却を決めて頂いた家には≪即ハーレーを引き取る≫と言う行動を取らないと必ず、横槍が入り、まづ購入が出来ないと言う事も何度か起きて、その経験を生かし、その日または交渉成立で即金支払いしその場でバイクを即引取る事がポイントであった。
購入時の金額はスクラップ屋の引き取り金額とは大きな差であった。しかしスクラップ屋の条件は「数千円」と言う、馬鹿にするのか!と言いたくなるほどひどい、ただ同然の提示であったことが交渉を進める上で、提示した条件は決して高額ではないが、ただ同然より益し!であったことが功を奏し、条件に少し上乗せで、全てが決まったのである。
これには私自身が驚きで、その背景にその家にとっては、いかに「邪魔もの扱い」で何とか始末してと、家族からブイーイングを受け、それが良かったと解釈した。
不思議な事にどの家もそれは「一律の条件」で交渉成立し購入できた事が嬉しく喜びに浸っていた。これは一挙に20数台集めたのではなく徐々にであつた。
その台数は累計で20数台もなってしまったが、この20数台が後に山を張った「相場物の商品取引」で大穴を開け、その一部であるが私の人生を救ってくれた。
悪い事に、ハーレーを整備中、電動工具の使い方を誤り右手の「親指のじん帯切断」と言う大怪我が待ち受けていた。
集めた20数台のハーレーはトラブルがありそれは分解してそのトラブルを解消しない限り、ただの鉄くず、路上に乗り出せる「代物」ではなかった。
過去の山中に破棄されていたエンジンを分解、組み立ての遊びが、大いに役に立ち、そのハーレーもエンジン分解、故障部分はすべて直しノントラブル車に仕立てたのである。勿論、ポルシェやF328の自己メンテも元を正せば、ここに行き着くと思っている。
睡眠時間が3~4時間で充分の日常生活はこの時にも如何なく発揮され、フルコミッション報酬の営業仕事も順調、そして家に戻ってはハーレーの修理、他にも数件の印刷屋の下請けレイアウト、雑誌社からの「レイアウト」の仕事と、時には一睡もしない事も度々、このパワーが他の人には無い要素、こんな事を何年も続けていたので家を数軒建てられた背景である。
1945年生まれのオヤジは今でも疲れを知らず、ウインタースポーツのスキーに行っても、開場時間9時から滑り出し、昼食1時間の休憩だけで、 5時まズッとすべり通しで、同年輩の方々とはまず行くことは無し。最近は20~30歳代の方々とのご同行ほとんどである。
しかし5年前の61歳の時、36年間連れ添った前妻に全ての財産を渡しスッカラカン人生。
「潔さが男の美学」と自認の人生、これまた楽しや。 (63歳で再婚、新しい世界を切り開き歩んでいる)
Posted at 2011/05/16 07:17:39 | |
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