
母のお腹の中で
ころは1945年3月、幼き2人の姉妹を連れて買い物に出かけた帰りの出来事、それは東京大空襲の夜でした。その空襲を受けた中心部より少し離れていた巡りに大きな腹を抱え、身重な母は7歳と9歳、2人の姉妹の手ををしっかりと握り締め逃げ惑う。
逃げ惑う最中、周りの人々の多くが風に乗って飛んでくる焼夷弾のかけらをまともに受け、衣服に火が付き地面を転げ回る人、そしてその近くの水場で、焼けてただれた体にそしてその火を消そうと水桶を必死に掛ける人と、そんな光景を後にしてその場から命からがら逃げ帰った話、その時に焼夷弾をまともに受けていてなら母共々、この世に存在していなかったと、その場の難を逃れた母の話を小さい時に何度も聞いた記憶が生々しく脳に焼き付いている。
身重であつた母は翌月に自宅が在った品川・立会い川駅付近で1945年4月に私をその防空壕で生んだのです。
当時、父は軍の物資を製造していた技術者で、身長180cm近くもありましたが、軍工場の重要な技術者と言う理由で出兵は免れました。しかし終戦と同時に足尾の山中に引きこもり、木炭製造業として生活を営む事になってしまいました。物語はこれから始まる。
(立会川駅周辺はかつて、旧・土佐高知藩 山内家の下屋敷があったことで知られる。土佐といえば、幕末の英雄・坂本龍馬抜きには語れない)
生まれて4ヶ月未満で死に直面
空を見上げると数機の攻撃機が低空で飛来し家の近くの工場らしき建物に突然、機銃照射を浴びせ襲い掛かってきた。それは夏の暑い日、終戦までアト僅か数週間足らずの出来事でした。
私は6歳年上の兄の背に、生まれて4ヶ月も満たない時であっただろうと兄は回想し語りました。
母から私の「子守」を頼まれた兄は家からそれほど遠くない立会い川駅付近に差し掛かった時、空襲警報のサイレンがけたたましく鳴り響き、兄が自分の身の置き所を考える暇もなく、攻撃機の轟音と共に「バリッバリッ」と言う機関銃の銃弾を発射する音を耳にするのです。
とっさに石垣と道路の四隅に身を潜め、背にしている私と兄はその銃弾から逃れるのに必死であったと、その様な死に物狂いの中に、一発の銃弾が私と兄の身体をかすめて、身を潜め、ジッとしているその道路上に「ビシッ」と言う不気味な音を発し叩きつけるのです。兄はこの時、まだ6歳そこそこの幼子でしたが春雄とここで一緒に死んでしまうのか!と覚悟を決めかけたと、私が60歳も過ぎた頃に話してくれました。
私を背負って子守をしながら遊んでいた場所は立会い川駅近くの兵器工場らしき建物で、その土台となっている石積み、高さが80~100㎝あったであろうか、石積みと道路の直角部分に身を潜め、ジッと身動きせず堪えていました。
その様に隠した身のつもりであったであろうか、低空で飛ぶ攻撃機からでは隠れる意味もなく、むしろ恰好の餌食で、空から見たら的の一つに過ぎなかったであろうと想像するのです。しかし、無防備で無抵抗な兄と私は、ただただ身動きせずジッとして時の過ぎるのを、機銃照射の雨を止むのを、待つ以外、手立てはありませんでした。
その時間はどれくらいであったであろうか、一瞬の時間ではあったと思いますが、しかし一歩間違えれば死に直結する瞬間で、死との紙一重でした。
兄曰く、随分と長く感じたと延べていましたが、幸いな事に運良くその攻撃機は、その場所に再飛来する事もなく、はるか遠くに飛び去り「ホッ」とするのです。
道路に叩きつけた飛来弾、兄と私の身体から僅か1cm程度の差で「体をかすめた」そして道路に着弾したと言うのです。その弾が私と兄の体に命中していたならば、恐らくこの世にはもう存在していなかったであろうと感慨深く、兄は語るのでした。
私にとっては、これから人生を歩む第一歩と言う、この世に生まれ4ヶ月そこそこの時、生死の境目に立たされていたとは知る由もありません。
記憶に残されている多くの物事は5~6歳以上になってのこと、頭部の毛が生える部分、半分以上が損傷し、火傷の後遺症として「ハゲ状態」を認識するのも5歳頃、この損傷は生まれつきと心得て、第三者が気遣うほど私は悩む事もなく深刻さは認識せず、天真爛漫にそして無邪気にその事については無頓着に時を過ごすのでした。
その火傷事件、終戦間も無く、都会から奥深い山村に住まいを移し、生活の営みを始めて、私が2歳未満の春先に生じた事件でした。
母の苦悩
1947年ごろ 火傷事件と母の苦しみ
終戦間もないこと、小さな村でも戦争の影響は計り知れない心の傷跡を残し、そこで営む人々の生活は苦しいものがありました。
都会から疎開しそのままその地に居座り、9歳と8歳の姉妹、6歳とまだ生まれて2歳未満の兄弟、そしてその父と母、6人家族のある日の出来事です。
まだ冬の気配から抜けきらない3月のその日はとても寒い日でした。母、千代は2歳未満の春雄が久しぶりに生まれた子供であることで、久しい母性本能の目覚めがそうさせたのだろうか、その子がとてもいとおしく、その子の可愛い眼差しは、もう眩しいくらいでした。
上の男の子と6歳、離れて生まれ、特別な思いを寄せ愛情を注いでいたのです。
近所の美代子ちゃんがハィハィする可愛い盛りの春雄を見にやって来ていたので「美代子ちゃん、一寸だけ春雄を見ててね」と、
まだ5歳そこそこの子は「ハィハィ行動」の乳飲み子と言え、5歳の子にはハィハィするスピードに追いつかないのは母として承知していましたが、
表の母屋から少し離れた水場で、一寸した用事を済ませる為、その美代子ちゃんに春雄の面倒をお願いしたのです。
「春ちゃんウンコして臭い!」と当然オムツをしているが五歳の幼子は正直に母にその事を告げに、春雄から離れ、こちらにやって来るではないか、、母はそれを見るなり、
ウワァー!大変と大声を叫びながらその水場に母を呼びに来た美代子ちゃんを見て青ざめた。
それは一瞬の出来事です。慌てて表の水場から母屋に一目散でつっ走り、駆け戻ったさなかに、「ギャァー」と叫びとも悲鳴ともつかない声がしたのです。
囲炉裏にはまだ寒さが残り、暖を取るために炭と蒔がこうこうと火を放ち、火の勢いも強くその火の威勢の中にすっぽりと、顔は上に向け後頭部が火の中に埋っているではないか!
また囲炉裏に付き物の「自在鉤」には煮い立ったお湯をいっぱい入れた鉄瓶がその我が子の顔の上に掛かっているではないか!
その母の動転ぶりは想像を絶するものがあったに違いない。後頭部が火の中に落ちてる我が子、手と足をばたばたさせながら断末魔の悲鳴をあげ、もがき苦しんでいるその様子を目にし、母はパニック状態ですぐさまその火中から我が子を救い上げたが、時すでに遅しでした。
春雄のハイハイは予想をはるかに超えるスピードで畳の上を進み、美代子ちゃんが母親を呼びに行っている隙に、囲炉裏に落ちたのです。
畳の間と囲炉裏には段差があり、その段差から落下、後頭部だけがコウコウと放つ炭火の中に入っていた!と母の言葉でした。
目に入れても痛く無い、愛する我が子が、火で皮膚が焼ける独特の臭いを放ち、そして焼けただれたしまった後頭部は真っ赤に火となっている炭が付着し、それを手で払い退け、
必死でその後頭部を撫でるのでした。この撫でてしまった行為が後日、思いも寄らぬ事を引き起こすとは・・・・・
母は自分の不注意で、また5歳も満たない近所の美代子ちゃんに我が子を見てて欲しいと安易に頼んだのが、どれほど後々まで悔やむか、その時はまだ気が回りませんでした。
焼け爛れたしまった我が子の後頭部を見て、悲しみに暮れ、そして遊びから戻った2人の姉妹と兄は母の泣き姿と悲しみくれる容易ならぬ現状を見、「春ちゃんが死んじゃう」と一緒に泣け叫ぶのです。
母、2人の姉妹、そして6歳の兄、起きてしまった事はどうにもならず、しかし幼児期の中でも一番かわいらしく愛くるしい時期、母は3人の子供を育てた経験から「ハィハィのスピードが早く目が離せない」と知り尽くしていたはずが、自分の不注意でもたらした責任に苦しむのです。
後日、母の言葉は、余りにも春雄が可愛そうなのでいっそのこと一緒に死んでしまおと、何度も考えたと述べていました。
それは春雄が治癒する段階に於いて、後頭部の火傷が「やけど跡」として毛髪が生える見込みが無く、後遺症とし「ハゲ状態」は避けられないと医者に告げられていたからです。
火傷は本人に知る由もない、本来あるべきツムジを中心に後頭部2分の1は焼けただれ、親は何とか治そうとあらゆる手段を講じ、最後は祈祷師にと、その親の対処の努力にはすごく感謝するのみである。
しかしそれは組織が破壊され傷が治癒した時は、火傷独特の光を放ち、どう見ても「頭にお皿」が載った状態と、まるでカッパであった。
幼少期を知る多くの近所の方々は、その傷跡のお皿状態を見て、余りの気の毒さに同情し、母と一緒に泣いていたと聞かされました。
この傷は春雄に一生、付きまとい離れない!と思うと、我が子が成人しその時の悩みを察しそのつらい母の心、それは言葉では表せないほどの我が子に対して、申し訳なさと、自分の責任を感じるのです。
幸いな事に、その我が子は天真爛漫に育ち、そんな傷、何処吹く風かと、気にすることも無く、元気に健全に育ち、それが母にとってどれだけ救われたか、これは後日、母の談でした。
20歳頃からはこの傷に悩み、治そうとパワーを全開し、傷の修復に取り組むのだが、大変、お金のかかる事で、この治す裏にも秘めたドラマが・・・
現在までにその悩みでつぎ込んだ累積は3000万円以上ほど、数回の手術、その後の経過が気に入らないと、カツラだ!何だかんだ!と丁度、家一軒分に相当するくらいお金がかかってしまったが、今思うと「アホな事にお金を費やしたなぁ~」とその思いだけしか残っていません。
現在は超越の心境で、そんなハゲどうでもいいことで、何でそんな事に悩んでいたのだろうとその悩みもアホらしい、と思うのです。
昨年2010年11月、96歳で大往生を遂げた母に「俺を生んでくれてありがとう」とその死に顔に接吻をして、サラバ!と別れた。
更には、現在まで棺桶に足を突っ込み、何度も三途の川を渡り、あわてて途中で引き返し、難を逃れた事は続く・・・・後日へ綴る
読んで頂いた方へ!
長文、お付き合い頂きありがとうございました。コメントも記していただきますと嬉しいです。
手術痕の坊主頭、綺麗に修復されていますが、ツムジがありません。