「坂本龍馬&中岡慎太郎暗殺地(近江屋跡)」-京都市
ご存知!幕末ファン有名スポット
2006年11月26日

慶応3年(1867)11月15日夜、京都河原町蛸薬師下ル、商家近江屋の2階で坂本は数名の刺客により、中岡と山田藤吉とともに暗殺されました。
犯人については事件直後から話題となり現在にまで至る謎です。
大正4年(1915)、一人の老剣客、元見廻組の渡辺篤が臨終におよび「自分は坂本龍馬襲撃に参加した」と言い残して息を引き取る。
龍馬暗殺から48年後のことでした。
渡辺は西岡是心流の名手であり、龍馬襲撃の際に使用した刀として出羽大掾藤原国路が残っています。
もう一人犯人として実名が挙がっているのが同じく元見廻組隊士・今井信郎です。
他に薩摩藩、土佐藩犯行説などがありますが、今となっては真相が判るすべはありません!
事件後2日間生きた中岡が瀕死の中で語った記録によると、刺客は計3人。まず2人の刺客が2階奥の八畳間に疾風の如く斬りこんできた。1人は「こなくそ!」と叫びながら中岡の後頭部を斬り、もう一人は龍馬の前額部を横に払った。
龍馬は床の間に置いてあった佩刀(吉行・長2尺5寸)を取ろうと、身をひねったところを、さらに右の肩先より左の背骨にかけて大袈裟に斬られた。それでも龍馬は刀を取り立ち上がるが、三の太刀は刀を抜く暇なく、鞘のままで受け止めた。しかしこの時、龍馬の鞘のコジリは低い天井を突き破り、敵の刀は鞘を割って刀身を削り、さらにその余勢をもって、またもや龍馬の前頭を鉢巻なりに横に払ったという。
すでに初太刀で脳漿が噴き出すほどの致命傷を受けていた龍馬は、「石川(中岡慎太郎の変名)、刀はないか?、刀はないか?」と叫びながらその場に斃れ伏したらしい。
この期に及んでも中岡の名を変名で呼ぶ龍馬の気づかいの凄さが伝えられています。
中岡も佩刀を屏風の後ろに置いていたので、それを取る間がなく短刀(銘・信国)を取って立ち上がり鞘のまま応戦したらしい。しかし初太刀の深手で思うように動けず、左右の手と両足とを斬られ気絶した。刺客は念のため二太刀までも中岡の腰を骨に達するまで深く斬りつけ、「もうよい、もうよい」と言って立ち去ったともいう。
中岡は腰に二太刀を受けた痛みで蘇生したが、わざと死んだふりをしていたと語ったそうだ。
この間わずか数分。
戸外の見張りも含めて数人の刺客団は、近江屋の潜り戸から表に出る。首領格の男は小謡を唄いながら悠然と去っていったという。
しばらくして龍馬が正気を取り戻し「残念、残念」と刀を抜いて灯下に照らし出したらしい。つまり自分の傷を刀身に映し出したという。
さらに中岡をかえりみて「慎太、慎太、どうした、手が利くか」と尋ね、中岡は「手は利く」と答えたという。
龍馬は次の六畳間へ這って行き、階段の手すりの所から家人に医者を求めたが、すでに虚脱していた。
かすかな声で「慎太、自分は脳をやられたからもう駄目だ」と言い、うつ伏せたまま絶命した。
中岡も苦痛を圧して裏の物干しに出て家人を呼んだが返事がない。北隣の道具屋井筒屋の屋根まで至り救いを求めたがここでも応答はなかった。引き返そうとしたが両足の重傷のため、ついに動けなくなったという。
現在この地は京阪旅行社になり、京都市内でも一番の人通りの中に埋もれています。当時を偲ぶものは事件を記す石碑のみとなっています。
※画像左上:現況
画像中上:坂本龍馬
画像右上:中岡慎太郎
画像下 :近江屋内部古写真
住所: 京都市中京区河原町通り蛸薬師下ル
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