「寺田屋」-京都市

寺田屋事件の舞台です。
江戸時代末期の京都郊外の伏見(現在の京都府京都市伏見区)の旅館・寺田屋で発生した事件でした。
文久2年4月23日(1862年5月29日)に薩摩藩尊王派が、薩摩藩主の父で事実上の指導者島津久光によって粛清された事件がありました。
藩兵千名を率いて上洛した島津久光は、日本中の尊王派のカリスマ的存在となったが、久光にはこの当時は倒幕の意志はなく、公武合体路線でした。 このことに不満を持った薩摩藩の有馬新七等は、同じく薩摩藩の尊王派の志士、真木和泉・田中河内介らと共謀して関白九条尚忠・京都所司代酒井忠義邸を襲撃する事を決定し、伏見の船宿寺田屋に集まりました。この当時寺田屋は薩摩藩の定宿だったので、ちょうどこういうことに関しての集結場所としては格好の場所となっていたようです。
しかし久光は4月16日に近衛忠房らに公武合体を説いた意見書を提出し、朝廷から浪士鎮撫の勅命を受けていました。よって巷間言われている「薩摩藩の内輪もめ」という説は疑問が出ています。
久光は大久保利通等を遣わしこの騒ぎを抑えようと試みたが失敗したので、彼らの同志である尊王派藩士を派遣して藩邸に呼び戻し、自ら説得しようとしました。ただし、万が一を考え、鎮撫使には特に剣術に優れた藩士を選んばれました。(奈良原繁、大山綱良、道島五郎兵衛、鈴木昌右衛門、鈴木昌之助、山口金之進、江夏沖左衛門、森岡善助。さらに上床源助が志願して加わり合計9名。)
奈良原等は有馬に「藩邸に同行するように」と求めたが、有馬はこれを拒否し、激しい斬りあいが始またそうです。この戦闘によって討手1人(道島五郎兵衛)と、有馬ら6名が死亡(有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮介、西田直五郎、弟子丸龍助、橋口伝蔵)、2名が重傷(田中謙助、森山新五左衛門)を負ったと言われています。また2階には多数の尊王派(大山巌、西郷従道、三島通庸、篠原国幹、永山弥一郎など)がいて、奈良原等が刀を捨てて飛び込み、説得した末に残りの尊王派志士たちは投降しました。
負傷者2名は切腹させられ、尊王派の諸藩浪士は諸藩に引き渡されました。引き取り手のない田中河内介らは、「薩摩藩に引き取る」と称して船に連れ込み、斬殺されたようです。
この事件によって朝廷の久光に対する信望は大いに高まり、久光は公武合体政策の実現(文久の改革)のため、江戸へと向かいました。
慶応2年1月23日(1866年3月8日)に宿泊していた坂本龍馬を、伏見奉行配下の捕り方が捕縛・暗殺しようとした事件で龍馬は、同宿の養女お龍の機転と護衛の三吉慎蔵の働きにより、危うく回避し、しばらくの間、西郷隆盛の斡旋により鹿児島に潜伏しました。
このように歴史上重要で凄惨な現場となった名所ですが、今でも宿泊は可能とのことらしいです。
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