【慰霊登山】
37年経ちました。歳をとり体力も落ちました。同期は既に、御巣鷹を共に経験した後輩達も次々と退官し自分と同じ民間で第二の人生を歩みはじめてます。
自分達の慰霊は派遣された13日ですが台風接近の為、今年は12日に登る事にしました。
人生の半分をストレス障害に悩まされ辛い時間を過ごしてきましたが、話し相手になってくれた仲間たちのおかげで、ようやく乗り越えられた気がします。
今回のブログは仲間と語り合って思い出した事などを時系列で書かせていただきます。
【臨時ニュース】
1985(昭和60)年8月12日
19時近くテレビの臨時ニュースで東京発大阪行きの日航機が行方不明との報道から一気に特別番組になりました。この時は「もし墜落なら海だよな」程度の認識で、自分は休暇を2日後に控えてたので都合のいい方に願ってました。
21時頃には山梨、埼玉、長野、群馬に墜落の情報が出てかなりまずい雰囲気に…
まだ派遣要請、準備命令は出てませんでした。
22時消灯。
自分はちょっと気になり深夜、当直室に行くと「12師団の担任区域で墜落事故。ヘリコプターからのリぺリング(ロープを使った垂直)降下による迅速な現場進出の必要性から空挺団に災害派遣命令が出る」と聞かされました。
【派遣命令 出動】
早朝4時過ぎに「命令受領ラッパ」が鳴り響き、営内者は即座に出動準備を整え(準備といっても装備を詰めた背のうは常に準備してるので出発前に水筒に水を入れ支給された乾パンを背のうに入れるくらいです)飛来した第一ヘリ団のV-107ヘリ6機に分乗し、
8時前に習志野を出発しました。
1〜3番機は直接御巣鷹山へ4〜6番機は相馬原で待機となりました(自分は後発のヘリに搭乗)。
先発部隊が現着の無線が入り同時に1番機に搭乗してた空挺団派遣部隊指揮官の普通科群長から「生存者の救出」の命令下達を受け後発隊も現地に向け離陸しました。
【降下】
リペリング ファストロープ降下
(画像は空挺団の訓練画像です。機材はCH-47チヌーク)

ファストロープとは綱引きの綱位の太さのロープを両手の握力と、つま先の挟む力だけでヘリから降りる方法です。素早く降下出来る方法ですが安全装具は無く、携行品が重かったりヘリが安定しないと本当に危険で難しい降下です。ファストロープ降下は一般部隊(レンジャー)ではやらないと思います。
参考までに…
https://youtube.com/watch?v=6STSoH3X5bo&feature=share
みなさん知ってるリペリング降下はこちらですね。

カラビナをロープに通して降下します。安全ですが降下速度が遅く着地後カラビナ抜いたりで離脱にも時間がかかるので実戦的ではありません。
先発隊降下から1時間後。
9時45分、後発隊降下!
空挺部隊には指揮官が“先頭降下”という伝統があり自分は…最後尾に近い方でした。
空挺隊員にとってリぺリング降下は日常茶飯事ですが、これほどの急峻な斜面に着地は初めてでした。

約30°の急斜面、降下後目にした惨状に「就職先を間違えた」と思いました。地獄絵図のような現場を目の当たりにして「戦場ってこういうものだろうな」と考えました。とても耐えられない「自分はこの仕事に向いていない」「山降りたら辞める」そう思いました。表情には出しませんがそれが本音でした。
降下した誰もが「こんな状況で生存者なんているわけがない」と感じていました。先発隊は降下地点から尾根を登り捜索。自分達、後発隊は谷に向かい捜索開始です。見れば見るほど見たく無いけど目に入るのは凄惨な光景でした。残骸下から伸びた手が動いた様に見え「生きてる!」と手を握りしめて引っ張ると肘から先だけ!自分の手が硬直して離せません。「離してくれ!」と半狂乱状態で手を振り回してると小隊長が「落ち着け!ほら、手を離してやれ」と自分の指を開いて手を外してくれました。首の無いご遺体に「すぐに探しますから」と辺りを見回しながら語りかける隊員や、子供のご遺体を抱き「怖かったね。もう大丈夫だよ」と話しかけ涙ぐむ隊員…

偶然撮られてた画像です。自分より1期後輩の隊員で妻帯者で1児のパパです。
改めて「こんな事故で生きてるはずがない」と。
【生存者発見 救出】
麓から夜通し獣道を徒歩で登ってきた地元、上野村の消防団の方が「自衛隊さん!ここから声がします!」と言われ一気に駆け下ります。
"スゲノ沢"と呼ばれるあたりです。4名の生存者を発見しました。
消防団と一緒に登ってきた松本13普連の先遣隊とも合流し救出開始です。
数人で機体外壁を持ち上げましたが持ち上がりません。上官と目が合ってしまった自分に「〇〇志願ご苦労!」と言われ泣きたい気持ちで私物のフラッシュライトを持ち身体にロープを結び機体の下に潜り込み残骸とご遺体の上を匍匐前進。発見時に声をかけ名前を聞きましたがよく聞きとれず「生存者確認!中学生位の男の子!意識有り!」と間違った情報を報告してしまいました。「シートベルト外れません!」外から「落ち着け!ナイフで切れ!」「〇〇慌てるな!落ち着いて(要救助者の)身体とベルトの間に(自分の)手を入れて手に沿ってナイフいれろよ!」。私物のコンバットナイフでベルトを切断しましたが自力脱出は無理と判断し腰に巻いたロープを脇の下にずらし、添い寝する体制で抱き抱えてロープを引いてもらい引っ張り出してもらいました。
他の隊員が残骸の扉(トイレのドアだったと思います)で手際よく担架を作り、

(こちらは自分が救出した直後の画像ですね。
黄色の矢印辺りから救出しました。青丸は…)
生存者の方々を担架に載せて(大人の女性は背負って)ピックアップポイントへ…記憶が定かではありませんがピックアップポイントには日本赤十字(?)の医師、看護婦がいて生存者の診察をしてました。
この斜面にLZは無理です。ホバリングさえ困難な地形です。

ホイストでピックアップすることになりました。が、ヘリが来ません!上空を見上げると民間のヘリが地上管制を無視して好き放題飛んでます。報道のヘリがハエの様にです。自衛隊機は近づけません。管制官の無線交信で大声で「ブレイク!ブレイク!」と叫んでまさに戦場でした。
生存者をピックアップポイントに搬送してから1時間後ようやくバートルが来ました。
最初に小学生の女の子を抱き抱えてホイストし、
次に

作間2曹のホイストです。
サバイバースリングを自分の身体に通し彼女を両腕で抱き抱えて吊り上げです。挟み込んだ両脚でバランス取ってます。機内に消えるまで見上げてました。この時もマスコミ絡みの事件が起きました。1人目の女の子と同じように毛布で包んで準備をしている時、写真撮りたかったんでしょう。毛布を剥ぎ取ったんです。「何をするんだ!」と怒号が聞こえましたがヘリは真上にいてワイヤが下りて来てたので仕方なく毛布無しで彼女を抱えて吊り上げられました。
3人目と4人目の成人女性は担架に乗せて吊り上げました。抱えて吊り上げるには脱力した大人は非常に重く危険との判断です。先の2名は赤十字の医師(?)から「直接抱えて上げたほうがいい」との助言があったそうです。
3人目の女性を乗せた担架がヘリから吹き下ろされる風を受けて凄い速度でグルグルと回転してしまいました。本来、担架の把手にロープを付けて担架が回らない様に地上の隊員がロープを保持すべき基本的な作業ですが、経験した事の無い地獄絵図の中で誰も気付かず吊り上げてしまったのです。今にも担架から落ちてしまうのではないかと気が気ではありませんでした。皆、真下で両手を広げて「万が一の時は絶対に受け止めなくては」と覚悟していました。
結果的には無事に収容できたのですが落下事故でも起こしたら現場に居たマスコミに最高のネタを提供するところでした。
4人目の成人女性を収容する際は補助ロープを付けました(こちらの女性は非番で搭乗してたJALの客室乗務員だと後日知りました)。
生存者の救出が終わったのが13時過ぎだったと記憶してます。
次の任務が命じられました。大型ヘリ(V-107)用と中型ヘリ(HU-1)用2つのヘリポートを構築するよう命じられました。事故なので検証の為、現場保存が必要なので警察とかなり調整した様で理想とは程遠い急斜面に周辺の木を切り倒して斜面を掘削し削った岩石や土を下側に盛る方法で中型用ヘリポートのみを作ることになりました。ヘリポートを作っている間にも続々とご遺体が運ばれてきます。
深夜にはヘリポートの大枠が完成し、仮眠の許可が出ましたが寝袋はもちろん、毛布も無しの野宿です。野宿は慣れてますが毛布はご遺体用で、その毛布に包まれたご遺体の横で仮眠でした。真夏の暑さでご遺体が発する死臭や救出時に自分の作業服に染み込んだ血液等からも臭い出し3〜4時間程の仮眠の間に何度も目を覚まし辛い仮眠でした。
翌14日の朝3時頃から作業を再開し7時頃にヘリポートが完成しました。

完成直後のヘリポートです。V107バートルは着陸出来ず後輪だけ着地し、ホバリング状態で物資を搬出、ご遺体を収容。14日だけで100体以上のご遺体を搬送しました。後方で膝を着いてる隊員はパイロットに指示してます。

最終的に完成したヘリポートです(写ってる隊員が一般部隊の隊員なので空挺団が撤収した後だと思います)。HU-1でもやっと着陸出来るスペースです。自衛隊、警察、消防のヘリが次々に飛来して来ます。
自衛隊のヘリが運んでくるのはツルハシ、スコップなどの作業用資機材、ご遺体収容のための毛布等任務に直結するものばかり。ところが警察のヘリは、弁当、飲み物、タバコ、寝袋等たくさん運んで来ます。同じ公務員でも日陰者の自衛隊とは天と地以上の待遇差も感じました。
無援孤立に慣れてる空挺隊員の空腹を満たしたのは…

出発時に支給された乾パンです。金平糖とオレンジスプレットが付いてます。スプレットつけて食べると美味しいんですが喉が渇いてしまいます。水は水筒に約1ℓしか無いので貴重です。
レンジャー課程で覚えた食べ方です。乾パンを半分に割って葉っぱに着いた夜露でふやかして食べます。さすがに現地で夜露は色んな意味で無理なので水筒の蓋に水を注いで乾パンを浸して空腹を満たしました。
13日早朝から15日の朝までの約48時間…
生存者を救出を終え、ヘリポート構築と同時にご遺体の搬送に任務が変わりました。最初の頃に収容したご遺体は何とか五体揃った状態でしたが徐々に収納した毛布が軽くなり同時に小さくなってきました。二日目からはビニール袋に入れられた部分遺体が増え三日目からは殆どが部分遺体になりました。
また、今回の慰霊登山で仲間と語り合った1番辛かった話し「モミジ」です。ご遺体の搬送準備中、ビニール袋の中に赤く小さい「モミジ」の葉の様な物が目に入りました。目を凝らすと…血に染まった幼児の掌でした。悲惨なご遺体を見ることに慣れていたのですが衝撃的でした。本当に可哀想で周りの隊員と共に涙してしまいました。
15時過ぎ頃から天候が悪化し、ご遺体の搬送作業は中断しました。雨が降る中その夜もご遺体の隣で仮眠し、
翌15日の朝、空挺団は任務を終えてヘリで習志野に帰投しました。
次回、その後の人生を左右する経験を語らせてください。