林業を営む会社にとって、山の恵みに感謝する山神祭(さんじんさい)はどこの会社でもやっていることであるが、職員Nの働くN組は山神祭のほかに山幸祭(さんこうさい)というのもやっている。それは宮崎県児湯郡川南町にある尾鈴山に墜落した航空自衛隊隊の戦闘機、F-86F 2機に搭乗しいていた2名の殉職パイロットのための慰霊祭である。
N組は平成2年某日に宮崎県内の林道工事を請け負い山を切り開いていた。
現場には5頭(大人3頭とウリボウ頭)のイノシシがいて、不思議と懐いてきた。あまりに懐いて遊びにくるので工事の邪魔になるほどだった。普通、野生のイノシシは人間に懐くことなど考えられないものだ。
工事は事故もなく順調に進んでいたが、林道全体の真ん中あたりにさしかかると、そこは高低差が50mほどありとても危険な工事になることが現場の職員によってNに知らされた。道筋を換えることはできないものかと相談されたが、元々の発注からの変更は困難だということをNはよく分かっていた。
だが不思議なことに今回はスムーズに話が通った。道筋を変更するなら自分たちで計測をやり直すことが条件だった。
Nは早速安全そうな道筋に目星をつけ計測を始めた。すると、何か光を反射するものが遠くに見えた。近くに行くとあちこちに大小様々な金属の機械の部品が散らばっていた。Nは航空機の部品じゃないかと思った。
その日の作業を終えたNは社長のKにそのことを報告した。
「山の中に航空機の部品らしきものが沢山落ちていました。」
Kは昭和37年11月14日に起きた航空自衛隊の戦闘機の墜落事故を覚えていた。確か現在の工事現場辺りだった。スクランブルのために離陸した2機のF-86F戦闘機が、尾鈴山の谷のあたりに墜落した。
K「それは墜落した自衛隊の戦闘機の部品だ。全部回収しろ!」
N「全部ですか。かなりの量がありますし、あんな残骸回収してどうするんです。」
K「残骸なんて言うな!あれは殉職したパイロットの遺品だ。遺品と言え!彼らは何十年も日本を守り続けているんだぞ!」
Kは予科練出身者で長崎で厳しい訓練を受けた元パイロットだった。そのため自衛隊に関してはとても厳格だった。
指示をうけたNと同僚達は、後日部品の回収を始めた。沢山の部品を全て集め、地面の上に敷いたブルーシートの上に並べた。
Kは事故機が所属していた新田原基地に連絡を入れていた。2名の自衛官が現場で部品を確認した。件の事故で墜落した2機だった。
2名の自衛官は部品を基地に持ち帰ると申し出たが、Kはそれを断った。
「これは防空の任にあたっていた2名の隊員の遺品だ。あなた達は何十年も回収に来ることなく放置していたのでしょう!渡すわけにはいきませんよ!」
部品が基地に回収されることはなかった。Kは沢山の部品一つ一つを白い木綿で包んで地中に埋め、慰霊碑を作るようNに指示した。墜落した場所は谷だが、太陽が当たり周囲を見下ろせるような場所でないといけないとKは言った。
慰霊碑を作る場所としてKが選んだ場所は国有地だった。だが国有地の木はただの1本も斬ることは許されなかった。それでは慰霊碑どころか部品を埋めることさえ出来なかった。
Kがいくら許可を得ようとしても断られた。Kは何日も通い続けて懇願した。ある日、よほど熱意が通じたのかある提案が成された。国有地を年度契約で貸し出すのであれば可能ということだった。
Kは早速契約を結んだが、その土地は十分な広さもなかったためNが考えていた立派な慰霊碑を作ることは出来なかった。
慰霊碑はドーム型のものを作った。Nはパイロットのヘルメットの形をドーム型で現した。その下に回収した部品が全て白い木綿で包まれ、その上に日章旗を被せ土を盛って埋められている。
慰霊碑が完成したのは平成3年だった。その年、慰霊碑のすぐ傍でN組は2名の殉職パイロットのための慰霊祭を行い新田原基地の隊員も呼ばれた。そこには殉職パイロットSの母と兄が、基地に呼ばれ参加していた。
Sの母は、部品が見つかったのはどの辺りだったのかとN組の職員に尋ねた。
「あの谷のあたりです。」
職員が指で示すとSの母は泣き出した。そしてその谷へどうしても行きたいと言った。しかし道は険しくそれは叶わなかった。
Sの母「息子の飛行機が墜落してから片時も息子のことを忘れたことはありません。いつか私が元気なうちに息子の墜落した現場に行きたいと思い、毎日神社にお願いしに通っていました。部品を回収して慰霊碑まで作っていただき、今日この場所に来られたことにとても感謝しています。」
そういうとSの母は1つの袋をNに渡した。これで皆様で何かお食事でもと。
慰霊祭が終わり、基地の隊員もSの母や兄も帰り、N組の職員だけが残っていた。NはSの母から戴いたお礼で皆を食事に行こうと言い、袋の中身を見た。
中には食事代と考えると1桁ほど多い額が入っており、驚いたNはKに相談した。Kはとても受け取ることは出来ないと、さっそく明くる日鹿児島にあるSの実家を訪ねた。
戴いたお金を返そうとするKだったがSの母は決して受け取らなかった。お礼を返すことは出来なかったが、その代わりにN組が続く限り毎年慰霊祭をすることとそのための献花の花を買うために使わせていただくことを約束した。
それ以来、墜落した11月14日に一番近い土曜日には、山深い場所にある林道を通った慰霊碑のある地で山幸祭を毎年行っている。山幸祭には基地の主要幹部も呼ばれている。
初代の社長だったKから2代目の社長に代わった現在でも山幸祭は行われている。
宮崎の神話とは違った伝説めいた話があった。
Posted at 2016/01/29 21:44:40 | |
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