
1年前の3月11日は休日出勤した帰り、白いSUVに左前から突っ込まれた日です。
事故で脊椎がずれて、1年も仕事を休む羽目に陥るとは思ってもいませんでした。
あの日は、翌週に2つのプロジェクトのCD(Construction Document)設計図面の100%提出が重なってあったので、ちょっと進めておいたら、翌週ちょっとは忙しさがましかなと、軽い気持ちで休日出勤しました。
納得できるところまでやったら、いつの間にか夜中近くなってたので、帰ることに。午後11時30分頃でした。
ちょっと肌寒い、小雨が降る夜。
会社から出て、すぐの大きな交差店を青信号で進むとき、左側の車線に大きな白いSUVがいるのは見えてました。でも、まさか、それが、わたしが近づいてから、アクセルを踏んで、左折しょうとわたしの車に向かって突っ込んでくるとは?
ぶつかってくる車や、はじけ散る車の部品、開くエアバック、締め付けるシートベルト、はねあがる身体や、撃たれたような身体への衝撃、すべてがスローモーションになり、走馬灯が本当にコマ送りで見えました。
エアバックから出る煙にげっほげっほ咳き込みながら、頭の中でこだましてたのは・・・・
Why?Why?Why?Why?Why?Why?Why?Why?Why?Why?(何故?)
図面に、物凄い量の英語の注意書きを書きまくった後だったので、まだ頭の中が英語でした。
明るい交差店。信号は直進優先の私が青。小雨は降ってたけど、視界が悪くなる程ではなく・・・・。ぶつかってきたのは、酔ってもいない、真面目そうなおじさんに見えた体格がいい21歳の青年。
ひたすらごめんなさい、ごめんなさいって謝ってくれてましたが、わたしは、痛い痛いとしか言えませんでした。
目撃者の女性が彼女の電話番号を渡してくれて、いつでも証言するからと言って、警察にも状況を話してくれてました。
迎えに来て貰える知り合いが近くにはいないと言うと、警察官も、レッカーのおじちゃんも、みんなが送ってあげると言うてくれました。
警察官、消防車、救急車、真夜中の事故に、集まってくれた人は30人超はいました。
1年経った今、私の何故?への答えは出てません。これからもたぶん出ないのだと思います。
痛い怖い面倒いことはたくさんありましたが、ありがとうもたくさんありました。
2年前の3月11日には、東日本大震災がありました。連絡が取れない家族や友人の安否を心配して、つながらない電話に、夜通し身体も心も震え続けました。
アメリカでみんなが私の家族や友人、日本の心配をして、祈ると言ってくれました。自家用ジェットでかけつけ、5億円日本に寄付してくれた知り合いもいます。ちゃんと正しく使われたのでしょうか?
何故?
この答えもたぶん出ないのでしょう。
そんな被災地で、家族を失いながら、自分は今も仮設住宅に住みながら、わたしの回復を祈願して、お札やお守り、なつかしい日本の品々などを送ってくれた大切な友人がいます。
人って本当に温かくて、優しいです。そして、そんな出会いに、その方に感謝です。
震災から2年。震災や原発事故に関するニュースが減りました。まだ2年。もう2年。なのに、まだ人材や資材が足りない。
命を失ったり、傷ついたり、家族や友人をなくしたり、危険にさらされた人たちの思いが忘れられていないか。それが心配です。
国全体や私達が今後、何事もなかったように進んで行くようであってはなりませんね。
心の傷もそうですが、そっとしておくと、触れないと、傷はいつまでも癒えません。
辛いことには触れない風潮が日本にはありますが、敢えて書いておくことにします。
震災も原発事故も終わっていないということを、忘れないように。
命を失ったり、傷ついたり、家族や友人をなくしたり、危険にさらされた人たちの思いを忘れないように。
Posted at 2013/03/11 07:31:10 | |
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