時代は変わり、一身上の都合でお金が必要になり、黒いコルベットは自分の元を去る事になってしまった。そしてやってきた車が米国では超極マイナーなローバー社 スターリング825という、これぞセダンという四角い銀色の車でした。
このライセンスプレート、1987年の1年のみの発行だったような気がします。
取っておけばよかった!
この車、プラットフォームや動力系統はホンダ(彼の地ではアキュラブランド。米国でのレクサス誕生で一気に窮地へと追い込まれていました)レジェンドと同じで、ガワをローバーが仕立てたっていう変な経緯がありました。その当時、西海岸ではレジェンドは結構な人気だったのだけれど、その姉妹車のローバーはさっぱりで、この会社名を知っているアメリカ人は殆どいなかったという非常に寂しい状況でした。
横から見ると、曲線というのを忘れてしまっているデザイン。でもこういう形、実は大好きです。
いかにも西海岸という1ショット?
ローバーはコルベットを売ったお金の半分を注ぎ込んで入手する事が出来ました。値段は半分、でもドアと椅子は倍の数が付いていて、おまけに皮内装に本物の木がインパネ周りに付いていた。運転者には関係ないけど、後席にもパワーリクライニングが付いていたし、当然前席も10ウェイパワーシート(運転席はメモリ付き。でも壊れてた)。サンルーフだって開口部が大きく、西海岸の太陽をサンサンと浴びる事が出来た。窓は全てブロンズガラス(懐かしー)が入っていたので紫外線対策はバッチリねってホントか?
言ってみればいたせりつくせりの車でお値段控えめという超お買い得車なのでありました。まぁ排気量は片や5.7L、この車はホンダ製V6 2.5Lだったので、半分以下という事になりますが。
この車には4年位乗ったか、それも超オンボロの状態で。多分LAで一番ボロいスターリングだったのでしょう。ボロ過ぎて、数少ない歩行者(LAでは皆車で移動するからほとんど通行人がいない)が自分の愛車を眺めてくれた。ある意味、フェラーリよりも注目度が高かったと信じているくらい。
リアショックを交換したら後ろ下がりになってしまい、その影響で段差でマフラー出口を擦るようになり、これが原因でマフラーに穴が開き、ボーボーと排気が漏れまくり、何の変哲も無い4ドアセダンなのにこんなイカしたいい音がするの?って感じでした。
ATだってリバースに入らなくなった。いくら駐車場が広いとは言え、大学周辺での駐車場争奪戦は凄まじく、リバースに入らないという事はハナから負けという事なので、トランスミッションをなけなしのお金を叩いて載せ変えた。載せ変えたATもしばらくすると、4速から3速へのシフトダウンはシフトレバーを手の平で思い切りバコンと叩かないと入らなくなった。まぁ結局、これもその後昇天することになったのだけど。。。
自宅のパーキングで窓も破られ、授業のための道具を全部かっぱらわれた。お金が無くて窓ガラスを入れる事が出来ず、半年位そのままで走り続けた。雨が降らない西海岸だったから出来た芸当かな。日本から来た友人達とLAからサンディエゴまで高速道路をゴーゴー風を切りながら走ったもんです。
スピードメーターは途中で動かなくなった。タコメーターは動いていたので、大体の速度は分かったから無問題。問題はこの車の走行距離がどれくらい?って事。米国には日本みたいな殆ど無意味な車検がないので、メーターが動かなくてもこれまた無問題。面白いのは通学途中の朝の高速道路で、突然ピョコンとスピードメーターが60マイル(100Km/h位)に跳ね上がり、20秒程でパタリと0に戻るなんて事があった日には、何か良い事が起きたという事かな。
走行距離が分からないので、メンテナンスなんてのも一切ナシ。入れるのはガソリンだけという今からでは考えられない位の無頓着ぶりでした。
それでもたまにはオイル交換でもしてやるかと思い、作業を始めてみると、どうにもオイルフィルターの蓋に付いてるナットが回らない。力任せに回してみると、メガネレンチが折れてしまった。もう嫌。それからこの車のオイル交換は放棄し、結局オイル無交換で少なくとも5万キロは乗ったけど、エンジンはいつも一発始動、快調そのものでした。流石、日本のエンジンは凄いと思いました。
事故も経験した。直進する自分に対して路地からインフィニティQ45(日本で言うシーマか?)が突っ込んできた。その時、自分はライターが点かず、下を向いている時にぶつかったので、全くノーブレーキ、30km/h位のスピードで衝突したと記憶している。見ると右前のフェンダーがコブラが敵を威嚇する時のようにめくり上がっていた。フェンダーの隙間からエンジンルームの補機類が覗けてる。ヘッドライトはボロんと落ちていたけど、針金とテープで元の位置に戻した。光軸なんてもんは完全に無視って事に。この時の写真が無いのが非常に残念なんです。自走出来たことが本当にラッキーでした。
いくらなんでもコブラ状態のフェンダーでは恥ずかしいので、自分で折れ曲がっている部分を力技で逆に折り込み、少なくとも人を串刺しにするような状態からは脱する事が出来た。ある日、走っていると、隣の車から中米系のオヤジが何やら叫んでる。訳を聞くと、イカれたフェンダーを直してやるというのだ。それも100ドルで。何を勘違いしたのか、100ドルで直るんならいいやという事で、そのオヤジに頼んだ。すると、なんとオヤジはその場で特攻野郎Aチームみたいなバンから色々な器具を取り出し、イカれたフェンダーに取り付け、力一杯引っ張ったりハンマーで叩いたりと、直してるんだか壊してるんだか分からん作業を始めてくれた。道端でこんな作業をしているのはやっぱり誰が見ても怪しい。
何故か1時間程して、オヤジが「OK, it's fixed」と言い放った。??全然直ってねーじゃんか。まぁでもこれ以上道端に居るのは嫌だったので、素直に70ドル払って(持ち合わせが無いと言ったらマケてくれた)、その場を去った。何かキツネに摘まれたような1時間だったなぁ。
そんなこんなでこの車には沢山のよろしくない思い出が沢山詰まっていたのでした。最後は友人がバックしてきたパジェロにフロントを潰され廃車になりました。
1991年2月~1994年4月までの乗車だったと記憶しています。
Posted at 2007/01/20 08:36:18 | |
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