年度末に続き新年度のスタートということで忙しい日々が
続く今日この頃。 ブログの方も思うように更新する時間
が取れない状況が続いております。
左のタイトル画像は遠州地方に春の訪れを告げる掛川市
横須賀の三熊野神社大祭の様子。
桜が満開のこの週末、あいにくの空模様でしたが今年も見学に行って参りました。
さて、今回は以前から一度は書いてみたかった 「無常観」 と 「もののあわれ」 についての話。
これは世界の中で特に日本人だけが持つ感性ともいわれているそうだ。
中々に小難しい話ではあるのだが、興味のある方、もしくは私のように既に片足を棺桶に突っ込
んでいるであろうそこの枯れた年寄りの方々、 宜しければしばしのあいだお付き合い頂き、語り
合おうではないですか (笑)
皆さん実感されていることと思いますが、我々のこの日本は昔から台風や洪水、更に地震とか、年
間を通じて自然災害というものが絶えない国でもある。
それが故に他の国よりも 「無常観」 というものを生みやすい風土であるといわれています。
ではその 「無常観」 とは何か ?
無常観とはもともとインドのお釈迦様が言ったことで、世の中の全てのものは常に変わって行き、
永遠に不変なものなど存在しない。 形あるものはいつかは壊れて朽ち果てるといったような当た
り前というべき哲学のことだそうだ。
と、ここまでは何処の国にもある無常観である。
しかし、インドから中国、更に朝鮮半島を経由して来たであろう無常観も次第に変わりゆき、やが
ては日本では独自の無常観に変質を遂げることになるわけである。
では日本独自の無常観とは何か ?
「平家物語」 の中に、特に武士道の典型として語られる有名な場面がある。
源氏と平氏の、いわゆる源平合戦における 「一の谷の合戦」 の際に、源氏方の武将・熊谷直実
が敵の平氏の武将を捕えるという場面である。
直実が殺そうと思って顔を覗くとまだ若い。
それはまだ十六歳の平敦盛でした。
自分の息子ぐらいの歳であるこの若者を殺してもいいものかどうか、熊谷直実は思わず躊躇する
わけだが、そこはさすが平敦盛、「もはやこれまで、首を討て ! 」 と直実に命令します。
直実はしかたなく敦盛の首を討つ。
しかしその後、手にかけてしまった若者を悼み、直実は刀を捨てて自ら出家してしまう ...
人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり
ひとたび生を受け、滅せぬ者のあるべきか ...
<大意>
人の一生は所詮五十年に過ぎない。 天上世界の時間の流れに比べたらまるで夢や幻の
ようなものであり、命あるものはすべて滅びてしまうものなのだ。
時代劇や大河ドラマなどで、「桶狭間」 や 「本能寺の変」 を描くと必ず出てくるシーンがある。
今川や明智の大軍に覚悟を決めた織田信長が 「能」 の 「敦盛」 を舞うシーンである。
正確には 「能」 ではなく、その原型となった 「幸若舞」 における 「敦盛」 の一節である。
余りにも多く取り上げられ、有名なシーンであるが故に、信長が語った言葉と勘違いされている方
が居られるかもしれないが、実はこれ源平合戦における熊谷直実の嘆きの言葉なのである。
熊谷直実像(JR埼玉熊谷駅)
私がまだ子供だった頃、当時六十~七十代だった明治生まれの祖父が、よくNHKの教育テレビな
どで 「能」 の番組をを観ていたものだ。 まだ幼かった私には何が良いのか、というより何を演じ
ているのかさっぱり解らなかったのだが、実はこういった内容だったわけだ。
日本人の無常観の特徴は弱者へのいたわりや敗者への涙があるということである。
敗者や弱者の死への共感の涙、それが日本の無常観にはあり、それが霊の鎮魂と重なる。
「敦盛」のような能が現在に至るまで延々と続くのは、こうした無常観が今も脈々と日本人の心の
中に流れていて心を動かされるからではないだろうか。
そしてこの無常観から更に発展したものが 「もののあわれ」 という情緒であるとされている。
簡単に言えば、物が朽ち果てていく姿を見れば誰でもこれを嘆くわけである。 これは外国でも変
わらない感性だそうだ。
が、しかし日本人の場合、その儚いものにすら美を感じてしまうのだ。 つまり儚く消えていくもの
の中にすら美的な情緒を見出してしまうということである。
実はこれは日本人に特有なもので、日本人だけが持つ感性といってもいいのだそうだ。
例えば今各地で満開を迎えている桜の花。
桜の花は知っての通り、綺麗に咲き誇るのは一年のうちのほんの四~五日である。
しかも季節の変わり目で時期的にも雨が多く風が吹きやすい。
折角一年もかけてやっと咲き誇ったのも束の間、春の嵐であっという間に散ってしまうことも度々
である。
しかしそれでも我々はほんの短い間でも、命をかけて咲き散っていく桜の花の儚さに共感し、己の
人生を重ね合わせ、そこに無上の価値を置き、更に美しさをも見出しているわけである。
因みに外国人が日本文学を学ぶうえで、一番難しいのがこの 「もののあわれ」 なのだそうだ。
という訳で、稚拙ではありましたが如何でしたか ? 「無常観」 と 「もののあわれ」 の話。
短い文章の中でうまく伝わったでしょうか。
儚いものに美を感ずるという世界でも日本人だけが持つ独特な感性。
外国では詩人と呼ばれる人だけに見られるであろう鋭い感性を、日本人はごく普通の一般の庶民
が持っているという。
長くなるのでここでは触れないが、私が思うに恐らくこういった感性が後に今ある神道、そして八百
万の神といったものに繋がっていった、又は土台になったのではないかという気がしております。
これは大切にし、是非子孫に伝えていきたいですね。
以上。