
何だかんだで、気付けば半月以上の日々が流れた。
今となってはもう存在しない場所だから、実名でまとめてみよう。
事の始まりは4月28日夕刻、いつも通りバイトに行った事まで遡る。
店頭は夕刻ラッシュを前に控えた静けさで、出勤している人員を持て余している時間帯であった。
『山田くん、ちょっといいかな?』
今日は何故か他店舗の店長さんが来ていて、俺に休憩室へ来る様促した。後から知ったのだが、この店長さんは数店舗を経営する当社の人事担当だそうだ。
中に呼ばれて、
『お疲れさん。いつも頑張ってるね!今日も忙しいのかな?』
というよそよそしい話が舞う。そして・・・・・
『うんとね、率直に言うと加木屋は5月末を以って閉店する事になりました』
オォォォォォ・・・キタぁ・・・・・
有り得ないハナシ。
いや、厳密には有り得なくも無い気はしてたのだが。
その後も、
『でもね、決して後ろ向きな閉店ではないんだ。加木屋って設備も古いだろ?そこで建て替えるにあたったとして・・・・』
それ以降の話なんか聞いちゃいなかった。
我がエネオスがこの半田街道こと県道55号の東海市末端の加木屋で営業を始めたのは1971年・・・約36年前の事になる。
36年続くスタンドの営業の中で、自分が最初に関わったのは1991年頃のこと。それも、関わると言っても母親が当時の車で給油する時に同乗していただけだけど。時に俺、5歳ぐらい。まだ三菱石油時代で、フィリップス君や『上』の字を大きく模した赤い『上カード』なる現金カードが出回っていて、『三菱プレミアムZ』っていうハイオクブランドや『三菱プレミアム軽油』なんてのもあったとか。当時の母親の車は世界初の無段変速機搭載量産車、スバル・ジャスティであった。ただ、世界初故かやたらに故障が多く、数年でスターレットに乗り換える事になった。しかも不人気車だったみたいw
まぁ、それは置いといて。
次に俺がこの店に関わるようになったのはその同乗給油体験から月日は流れ、2006年の7月の事である。
2006年2月、我が手元にスイフトがやってきた。あの頃、ハイオクは全開で値上げ真っ盛りで看板価格はどこも鰻上りだった。だから、何も知らなかった俺は地元のノーブランドのセルフで『マジ安いし!』とか言いながら喜んで給油していた。市内平均価格より10円ぐらい安かった。
でも、車を買ったはいいがノーメンテでは乗れない事くらいは考えていて、またスイフトを購入した資金源になっていた当時の居酒屋のバイトも、体力的にも時間的にも、まして勉学的にも限界を感じていて辞めようと考えていた。
今思えば、大学1年のクセに午後2時には居酒屋の厨房に立って、仕込みをやっていたな。『半年60万円貯金』なんてストイックな目標達成しながらよく生きてたよw
結局貯金を作った居酒屋を2006年5月で辞め、6月はプー太郎で過ごし『そろそろバイトせんと・・・』と思う様になった6月末、タウンワークで見つけたのがこのバイトだった。
①家から近い(歩いて8分・チャリで5分・車で3分)
②21時閉店。早く帰れる!(間もなくして21時でも遅く感じるようになるw)
③車イジリし放題じゃね??(コレは間違いありません。カーライフ的には相当美味しかったです)
時給は名古屋駅前でやっていた居酒屋に比べたらガクンと下がったけれど、それ以上に満足のいく事が多いバイトだったと思う。
友達が来てくれて、『おぉ!久しぶりじゃん☆』とか『キミアルバイトなんだ?しっかりしてるから社員かと思ったよ』って言ってくれたお客さんとか、嬉し楽し驚きアリのコミュニケーションがそこにはあった。
正直、置いてた商品や洗車メニューは決して安くはなかった。
むしろ他店より燃料もサービスメニューも高い店だった。でも、俺はそれに見合うだけの接客をしてきた自信があるし、お客さんにとっての最善策を提案してきたつもりだ。また、アルバイトという立場を逆手にとって自分の店の商品でも無理には勧めず、違う商品や購入方法を勧める事もしばしば。だって俺、新日本石油の回し者じゃないもんw
豊浜・ゼネラル・独自ブランド・エネオス・コスモ・ジョモ・モービル・・・という様に同じ街道の数キロの間にこれだけの石油ブランドが集結しているスタンド街道であるこの場所では、ウチの店が生き残る為の大きなウリが発揮できなかったのも事実。乱立しつつある24時間セルフには値段でも利便性でも勝てない。それでいて、店頭業務と整備・洗車作業が同時進行となるウチみたいな店では店頭・作業どちらのお客さんも待たせてしまう危険性を孕んでいたし、そういう意味でも作業に専念できるセルフに負けていた気がする。。。つまりフルサービスのウリが全然発揮できなかったと俺は思う。もっと人がいれば。。。
40年弱に及ぶ営業期間内で、建て替えは一度も行われていない。何度も改装・改築でリニューアルを図って来た訳だが、ガタが来ている事もまた、周知の事実であった。お客さんの車のガラスを拭いていて、自分の頭に錆びた屋根の破片が降って来た時はマジでキレそうになった。本社に苦情を送った。もしお客さんの車に当たったらどうすんだ?と─。
そんなボロボロの加木屋を建て替える費用と、その建て替え費用の回収見込みが本社の中で疑問視され、結局閉店が決まった様だ。
でも、閉店してこの店が残したものは本当に大きいと改めて俺は思う。
まず、この地域にとって。
2、30年来のお客さん。もうお年を召したおじいちゃんなんだけど、車検のオススメをすれば『心配するな。俺は全部ここに任せてあるから』って言ってくれたり。他にも、コーティングメニューをやった時『店がヒマだったんで、採算度外視で全力尽くしましたよ!ウチは仕上がり重視のカタギなスタッフばかりなんで。』とお伝えしたら『すごい!キレイになったね!・・・じゃあ、これみんなで飲んで』と言ってネスカフェのギフトセットをくれたおばちゃんもいた。俺ん家の近所にも常連さんがいっぱい住んでることも知った。
そして俺にとって。
車をイジる環境を手に入れ、手洗いとかボディーケアは本当妥協したくなかったから、他の従業員が洗車機で洗ってても手洗い洗車をし続けたし自分なりの洗車ポイントを考えたりした。他にも、バッテリー繋いだまま電装系の作業したために、夜帰る時にヒューズがアレコレ飛んじゃっててライト点かなかったり大変な目にあった事もあった。コレによって車をイジる事にはリスクや責任が付きまとう事を覚えた。車って、難しい様で思いの外簡単だったりするけど実は・・・っていう意外性を知った。社員の人やOBの人々との関わりの中でほんの一部だけど自動車業界というモノを知った。そして、自分なんか加木屋のメンバーの中では空気みたいな存在だと思っていたのに、進退を気にしてくれるお客さんがたくさん居たこと。
地域のお客さん、それも常連さんには衝撃が走った事だろう。
でも、俺の中ではもっと大きな事だったと思う。
ピットが使えなくなるとか、洗車できなくなるとかそういう事じゃない。
『俺と言えばココ!』というぐらい、俺の中でお祭り会場の様な存在だった。活きている店の片隅で車をイジり、常連のお客さんと本当にくだらない話をする。そんな日々が好きだったんだよな。加木屋の36年の歴史の中で、俺が関わった期間は1年にも満たない。なのに、前の居酒屋とは比にならないくらい濃かった。不思議な時間だった。
でも、それは二度とは帰らない時間なんだな。
現時点で次期バイトは決まっていない。
このログを書き始めて1時間半が経過。
とりあえず、今日は寝よう。
Posted at 2007/06/17 02:12:17 | |
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