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kotaroのブログ一覧

2013年07月22日 イイね!

書かれちゃった、

書かれちゃった、参院選挙も終わって、大阪は天神祭の
目前である。

そんな暑い日の続く中、先週は、京都に
3回行って来た。

それがこれから書く内容なのであるが、
その前にもう一つ
近況の中から面白いお話をしたい。

女性の話題じゃないよ(爆爆爆)。

私はインターネットのホームページを、1999年の6月に立ち上げた。
いわば基地である。
今から見ると、時代遅れなサイトなのであるが、やっぱり作っておいて
良かったと思う。

そこを媒介にいろんな人と知り合って、というほど電脳強者ではない。

ただ、その頃はso-netとniftyの二つのプロバイダに加入していた。
sonyのso-netは、ある年の暮れにいきなり、加入者急増で、
ホームページのアドレスを一方的に、二桁数字から三桁にあげるので
御家の住所も変えさせて頂きますと通告して来た。

年末のクソ忙しい時期で、せめてリンクやジャンプページで、新住所に
案内してくれるのかと思うと、全くそうでない。
その頃は出井CEOの時代だったから、sonyは版権ビジネスや金融商品へ
GEを参考にしたのか、ハードとソフトの電機エンタメ企業から、変貌
しようと、焦っていたのであろう。

私は丁寧に、かつ執拗に、しつこくやりとりした。
こちらは年賀状も印刷して、ホームページのアドレスも載せています。
それは当方に取り、損失になりますし、折角御社のファンであることを
アピールしているようなシンパを失うことになりませんか。

初めは担当者レベルであったが、次第に上司らしき人が出て来て、何度も
メールのやり取りをしたが、システム移行は決定したこと。
こちらからサポート出来ることは、ありませんという答えに終始した。
こちらもクレーマーではないので、最後の方は随分sony側が謝ってきていたが、
ホームページのアドレスが“勝手に”変わってしまったので、それを知人等に
周知連絡すべきか、よく考えて、私はso-netとの月3000円台の契約を打ち切った。

そのあとは困ったが、Hoopsという無料ホームページのサービス企業をみつけ
そこに移行した、
Hoopsは数年後にinfoseekに買収されたが、その際はアドレスの登録を
書き換えなくても、クリックでジャンプすることは難なく出来るように
なっていた。天下のsonyが「それはできません」と突っぱねた関門である。

結局sonyは、何がやりたかったのだろう。個人ユーザーや昔からの製品
ファンを失うようなことになっても、企業のメンツにこだわったのだろうか。
やがてsonyは凋落し始めたし、appleがi-podという「発明」を出した時に
感じた予感は、数年で世界図を書き換えるような、構造になった。

さて、infoseekも数年後に楽天に、「旅の窓」と前後して吸収されてしまった。
個人レベルで、ことの推移を見守るだけである。
5年ぐらいは、楽天も旧infoseekユーザーをそのままタダで養ってくれたが、
2009年頃に、「もう知りません」と期限終了通告を表示されるようになった。
その間にブログとブロガーの時代が来たもんなあ。ライブドアのホリエモンが
寵児になった頃である。

もうnetscape communicaterなんて使っているのは俺くらいだろうと、
firefoxを併用のメインに据えつつ、netscapeが最後に枯れ屍するまで使い続けた。
最後の方は日本語サポートのサイトが消滅して、フランス語の7.0などを
ダウンロードして「ウイ」なんて、言いながら気取った使い方してたんだよ(笑)。

私は死んでもmicrosoftとinternetexplorerは使いませんなんて、息巻いていた。
ビルゲイツ帝国もやがて弱って行ったけれど、windowsのブラウザって、こんな
名前で、あってましたっけ?
そのくらい偏屈だから、今のトヨタのハイブリッド車やレクサスは生理的に嫌い
なのである。ゴメンネ。

さてホームページを楽天の“お陰”で、一度は、捨てかけていたのだけれど
よく考えたら、これは大事にしないと、自力で立てた最初の家なんだから、
今のような既成のブログサービスなどの間借りは、いつ潰れることがあっても
おかしくないと、考えるべきではないかと、思った。

そこで2010年から使っているサーバーを調べると、ホームページサービスが
無料でついている。誰も使わないだろうけれど、私は元のホームページを、
そこに引っ越すことにした。
http://www2.gol.com/users/kotaro-h/


それと、大昔はホームページの容量も1MBくらいだったのではないか。
随分軽くして上げることに腐心した、JPEGの解像度を3以下にしたり、
写真サイズも長辺で300ピクセル以下にしたりと。
ところが今や大容量、大交通量の時代である。すっかり時代に乗り遅れている
オイラでも、ホームページ移行した後に、それに気が付いて、当時はページ制限
して、公開後半年でお蔵入りにしたページを、今なら全部オープンにできると
気が付いた。

そこでバックアップを取っていなかったものは、少しあったが、大方の
ページや作り掛けのページも見つけて、この際にリアップすることにした。
写真の不鮮明さや、ホームページ制作ソフトの古くささはご愛嬌。多少は
手直しもしてみた。

そしたら何と、14年前の最初に作ったトピックスのイベントのページ
10年以上表に出していないページを見た人から、「私は参加していました」
と嬉しいメールが届いたのが、昨夜のことである。
写真をお借り出来ませんかと。

そうやって考えると、このみんカラのように、どんどん上書きするメディア
というのは、ストックは出来るが、余程のことが無い限り、過去のアーカイブ
は見てもらえないことに、気が付く。
きょうはそんなことが書きたかった。
一番上の写真の車に付いて書くには、紙面が尽きたようである。
それは明日以降にすることに(笑)。

ラテンでゴメンということで、お許しを〜。
ではまた明日。

Posted at 2013/07/22 08:27:02 | コメント(4) | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ
2013年07月07日 イイね!

海の道から山あいの道へ(完)

海の道から山あいの道へ(完)ウミガメのふるさとに別れを告げて
再び850を走らせ出す。

最後のシーンは浜木綿と、私のあとから
やって来たカップル。

こちらが目で挨拶したのに、返さなかったので、
当然イイ話は教えて上げない(笑)。




国道260に浜島の先からなるのだが、国道の一部は海の上を通り、志摩半島の
先端から渡って来るのである。




浜島町から旧南勢町までの区間は、入り組んだ入り江に沿った大変カーブの
多い難航ルートであったが、今はトンネルが多数掘られ、あっけなく通過する。





真昼の夢のようなドライブを続けているうちに、はや、昼時になった。
クルマのガソリンをこまめに補給して、東宮と言う地名のトンネルの
手前にある、豆賀太という和風の店を見つけたので自動車の速度を緩める。



クルマを停めた途端に携帯電話に、住居町の用事を頼んでいた人から
打合せの電話が入る。こんな所でオンビジネスな話も、あとで良かったのだが
とってしまったから、5分近く話す羽目になる。その間、店に入れず
開け放った店の人は、怪訝な気分であっただろう。

お昼は、まだ魚類が食べたかったので、カツオのタタキにした。
そこからしばらく車を走らせていると、こんな風景に遭遇した。





まずここは、旧南島町の、村山と言った地区で、紀勢本線の鉄道が海沿いに
出て来るのは、紀伊長島付近からで、本来は鉄道と全く縁の無い、海岸線の
風景なのである。



しかしここに、かつては貨物専用の鉱山鉄道があったのである。
昭和44年版の朝日新聞社「世界の鉄道」電気機関車特集にも載っているが
大阪セメント三重工場の専用線であったのである。



筆者は実は昭和60年7月に、この場所を探訪している。朧げな知識は
あったが、大学の先輩が新型ファミリア(FF2代目)XGの5ドア5速を
買った際に、あちこち遠出をしたいものだから、こんな近畿の裏側まで
連れ回されたことがある。流石に当時でも「こんな所に線路が!」と
腰を抜かした。あれから28年。





26才目前だった私も、今年の今月29日に54才になる。元気なうちに
28年ぶりの志摩半島裏側の旅が出来て良かったと、思う。
もう鉄道は廃止になり、ベルトコンベヤーで石灰石の砕石は、港まで数キロ
運ばれているようである。

この浮世離れした、鉱山の鉄道は、終わった幻であるが、鉱山は現役で
あるので、立ち入るのは気を配って欲しいと思う。たまたま昼休みで
ダンプなども稼働してなかったので、少し写真を撮り、すぐに引き返した。





最近は、サイトとかに「廃墟」とか、「秘境」といったものが、直ぐに
投載される。
僕らの頃は、知っている人しか知らない情報が、世の中の水面下に、ものすごく
あったと思う。

危険なことは、体で察知して、やって良いか悪いかは、自分の経験と
世の中の常識で判断する。僕も若い頃にある場所で不審尋問されたことがある。
そこは建設数年で放置された別荘地であった。それも交通の不便な所ではない。
たぶん、何かがあり、公に出来ないエリアなんだろう。



余計な話になったが、僕は牧歌的な旅ばかりしているのではない。

国道をそのまま走っていると、“イタい”ものを見つけてしまった。



騙し画オブジェだが、事故で廃車になったフィアットパンダ143の
後部なのだろう。えいっ。



付近は南紀と言うより熊野の山々が近く、緑の勢いに圧倒される。



紀伊長島まであと峠一つだ。



紀伊長島に着いた。南紀の特急停車駅の風格ある広い構内。



駅の一時駐車場で、プジョー1004を見かけたので、隣が空いており
並べて停めてみる。2004年のパリオートモビルで、一番早く実車を見て以来
結構惹かれる小型車である。



駅舎は平凡な建物だが、夏でも注連縄が懸けられており、それも「笑う門」と
あるのには、目を細めてしまう。ここいらは伊勢神宮の神聖エリアであっても
少し楽しい。





駅前の食堂。「さんまずし」500円と書いてある。
新鮮な青魚の棒寿司が名物なのは、海南あたりから田辺、新宮とずっと紀勢線
エリアの特徴だ。



ここでも注連縄が懸けてあった。人気の無い引き戸を開けて、サンマ寿司を土産に
買おうと思ったら、売り切れであった。ちょうど遅い昼飯を一人でのんびり
食べていたおばちゃんが、ほんとうに済まなさそうに謝られたのには、こちらが
申し訳なく思ったほどである。



午後の2時を回り、灼け着くような南近畿の昼下がり。おばちゃんの冷やしうどん
らしきぶっかけを、掻き込むのを見てほんとうに、旨そうに見える暑い午後だった。



緩さがたまらない、紀伊長島の駅前風景。くどい商売っけもない、こんな駅前で
一泊したいなあ。もうそろそろ、帰ることばかり考えている自分に気が付いた。

旅情溢れる紀伊長島駅の、構内をトイレを借りたついでに写す。
これだけ風格のある非電化の幹線の駅風景も、21世紀の今では、かなり
貴重な鉄道遺産では無いだろうか。



紀勢本線は、昭和36年頃に尾鷲と熊野の間の難所が開通して、半島周回の鉄道が
全通した。間もなく特急「くろしお」が走り出し、南国ムードあふれる車窓に
新婚旅行客の人気を集めたこともある。



この最奥部の区間は特急含めて1時間に1本上り下りがあるのだろうか。
それだけに、この風景と旅情は、忘れられないシーンとなる。


紀伊長島から、淡々と国道42号線を走る。
昨日から走っている国道だが、渥美半島から鳥羽に渡り、熊野紀州を
ぐるりと一周して、和歌山に至る、グランドロードなのである。




しかし山間部中心のこの区間は、山の区間に入ると平均ペースが、ガラリと落ちる。
地元優先とはいえ、喘ぎながら登るトラックを追い越す区間も少なく、1台
抜いた所で、すぐにその前の遅いクルマに追い付く。



このあたりは、やがてハイウェイが出来ると思うが、それでも紀勢本線の特急
のペースの方が、格段に早い。紀伊長島ー尾鷲−熊野ー新宮を、1時間
ちょっとで駆け抜ける。

自動車だと尾鷲まで下手をすると30分以上かかるのでうんざりする。



やっと尾鷲に着いた。ここから奈良の北山に抜ける国道に向かうと、不通区間
の看板が出ていたので、またコースを変更して、熊野まで行き、そこから北上の
ルートを取ることにした。
尾鷲から熊野方面への高速道路が部分開通していたので、選択する。

運転に焦りは禁物であるが、案の定、途中までしか開通しておらず、紀勢本線の
三木里という海沿いの町で、下ろされる。ここから311号線を海に沿って隣の
賀田まで走り、そこから右折して、本来走るべきであった42号線の矢の川峠
方面に駆け上がる。



矢の川トンネルの出口付近で42号と再び合流。トンネルを抜けて熊野市に
入り、道の駅で再び休憩に入った。



見上げる山々の聳える巨木たち。日本で一年に一番降雨量が多いのが、尾鷲
熊野と呼ばれる。その雨は、杉などの針葉樹を、巨大に育て上げて、この辺り
一帯を、木材の集散地として有名にした。
漁業以上の富をもたらせたのが、熊野信仰の始まりなのかもしれない。



休憩中に、私の車に気付いて、プリウスから下りて来た男性が、質問する。

トリノにいたことがあり、フィアットは懐かしいと話す。
私は疲れていなければ、もう少し愛想よく応対出来たのに、少し無口に
なっていた。

道の駅で思い切った小休止を取り、地図を確認すると、この先で右に曲がる
309号線で、下北山村に向かえることが判った。



分岐して遅いトラックをまた追い抜く。交通量は少ないが限界より大きなトラックが
山中を走るのは、仕方ないことなのだろうか。
突然見つけたピックアップトラックは、多分パブリカだ。私の車に近い40年選手
だろうが、降雪や融雪剤の多い、山間部で、奇跡のような錆の少ないコンデ
ションを保っている。



169号線と合流。ダムサイトで車を停めて、静かな時間を眺める。



山あいに近年多いものはダム湖である。そしてダムに沈んだ道に代わり
当然トンネルが増えるのだが、この辺りのは、素堀に近い荒々しいもので
あった。



枝振りの美しい自然樹を見ることは、単調な山の旅の楽しみでもある。



しかし疲れは溜まる一方である。道の駅を4時近くに出て、これで今日は
奈良の奥山を超えて、大阪まで帰れるものであろうか。

下北山村の池原という何も無いところに、温泉休憩地があることに気付き
無駄時間になるかと思いつつ、再度車を停めて、疲れを取る為に今度は
風呂に入ることにした。



そこで30分以上休憩した。風呂も天然温泉で、施設も広くて気持ちが良い。
平日の午後4時台。浮世離れした人生を送っていることを、痛感する。

この日の朝にウミガメの産卵地に感動して、海と民族について考え、
夕暮れ迫る山の道に、行者が行き来したような、か細いルートを辿りながら
振り分け進む。



西原と言う所で、再び309号線に道を取り、天川の方に出ることにした。
この道が、マジかよと言うくらいに狭い。車幅ランプを点灯し、クラクション
併用しながら、峠を登って行く。この山が行者還しの難所で、峠の頂上に
照明も何も無いトンネルが無音で広がっている。

真っ暗なトンネルを行けども遠くに見える出口に辿り着けない。その間
何分くらい走ったのだろう。流石にタフな単独行の私も、背筋に寒い物が
走った。



あれは山の鬼気と言う物だと思う。
自然を舐めてかかると、よく遭難する。自然災害というものに有理はなく
人間の心の中にある恐怖心と言う物が飛び出して来る。私のような車好きは
42年も走っているこの車にある、悪魔力を信じて走っている。悪魔と言うのは
悪でなく、いや、悪と言うのは元々が、「強い」と言う意味なのである。

人間はなぜ悪に魅せられるのか。こんな自然の恐ろしさを感じながら走る時間は
もう、私の力だけでは手に負えないから、クルマと一体に化身して不動の形相で
魔界を駆け抜けるしか無い。

それが山岳ルートの恐さでもあり、機械文明だけでは、合理出来ない。
だから山岳ラリーというスポーツに、人は魅せられるのであろう。




険しい山道から下りて来ると、流石に全身から「気」が抜け落ちてしまった。
それで、気を取り直して走り直そう。この川の砕石のような白い砂利は何
だろうか。



天川に出た。道が途端に良くなる。緊張感がほぐれて、お腹が空く。
コンビニは無いが、アマゴや天然の鮎を売っている商店があったので
お菓子でも買おうと車を停めることにした。




車を停めるなり、男性が近寄って来て、「こりゃ、フィアットかい?」と
尋ねて来る。ええそうですけど。
ここから実は30分くらいこの店のオヤジに捕まってしまった。苦笑ものだが
天川村の国道と洞川温泉、天川弁財天から来る道が合流する所にある
ご覧の商店の主人は、かなりのクルマニアで、道路脇の納屋に連れて行かれ
レストア途中のマツダK360を見る羽目になった。

私がこういうクルマに乗っているので、他にこんな体験は無いか、と聞かれる。
思いつくままに、みんカラを書き始めた3年前に遭遇した、ケンメリスカイラインの
ワンオーナーに乗る写真館主の話、今年の冬に能勢の野間の大ケヤキの根本
で自動車工場を経営する男性から話しかけられバーハンドルミゼットを見たこと
などを、披露する。



話しているうちに、いつの間にか午後6時近い時間になった。
また天川に来たら寄りますよ、と言い残し、走り出す。

世の中には、何世紀もの間に、数え切れない探訪記や綺譚が書かれて来た。

それは、やっぱり不思議なものを見たり訪ねたり、人間の好奇心には終わりが
無いからであって、近代社会は、合理に合わないものは排除して来たので
いつしか伝奇物は、メルヘンのように分類されるように扱われてしまった。

僕の様に、不合理なクルマに乗ることで、不思議な体験はどんどん起きる。
この歳になってくると、いつかは命も尽きることも考えるが、反対にタブーや
していけないことを前提するより、よし、行ってみようという気持ちの方が
強くなってくる。



民俗学の巨人、柳田国男も、最初から周囲が理解して、道具を整えて
探訪の旅を用意してくれたのでは無いだろう。やはり、やりたいことを、説明
出来るまでに通すことで、人類は知ることが増えてくる。

こんな旅の記事でも、ほんとうに読んで頂いて感謝している。
長くなったが、この後は、吉野下市から、御所の尺度に出て、羽曳野まで
高速に乗り、妻の実家に立ち寄ってから、北摂の我家に戻った。

長旅で酷使した850クーペは錆びて開いた車体の補修の為に、夏期は
修理工場に預けて来た。
しばらくの間は、ダイハツミラで動くことにしよう。それでは長い記事を読んで
頂き有り難うございました。
Posted at 2013/07/07 15:27:29 | コメント(7) | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ
2013年07月03日 イイね!

ミラフィオーリへの道

ミラフィオーリへの道今年の梅雨は、雨が少ない。
その原因を、思い当るに、4月が寒かったこと、
5月も陽気が短かったことがある。
梅雨の入りは、5月後半と例年無く早い時期であった。
それから1ヶ月と少し経ったが、今の時期の水不足の感は否めない。
8月に日照りになるか、台風のような豪雨が
どの時期に到来するか、そのくらいの予測はしている。

名古屋まで、また走って来た。
京都から150キロ圏。大阪からだと片道200キロ弱になる。
現代の車なら、ベンツBMWでなくても、あの面白くないプリウスでも
短時間に行けて、日帰りも普通の人でも疲労が無く翌朝に出勤可能だ。

それを名神・東名開通の数年後のクルマで、走る。
私の旅の組み立て方は、頭の中に1969年の脳内ナビをインプットして、
どう攻略しようかと言うところから始まる。

古いカーナビで走ると、新東名や新名神が出て来ない。
軽いギャグを逆手に取り、コンピューターの無い時代の−2.0くらいの
OSを考えながら、さあこのクルマで行ってみるか。
旧車に乗り旅をする楽しみは、落差の感覚を失望でなく、
好奇心に昇華することで感じる、リバースの喜びだと答えておこう。

それも近年、私の愛車は、心臓部であるエンジンに思い切って手を入れた。
普通の人なら、大ショックを受けるエンジンブローで数百キロ走り
満身創痍で帰還するところから、生き返ったことによる。
それでエンジン状態が以前より遥かに向上したので、今は年に数回、
東京まで走って行ったり、以前のような悲壮感のある旅が減少した。
車は年々古くなるのにである。



C571号機という蒸気機関車のことを、ご存じであろうか。
SL列車「やまぐち号」の先頭に立つこと30年。全国の保存蒸気の運転の
始まりとなったSLのトップランナーである。

このC57型という蒸気機関車は、均整の取れたスタイルと、性能の良さで
長く日本中を走っていたSLだが、とりわけ1号機には秘密の歴史がある。
C57型は、戦前から戦後にかけて200数台が造られたので、年次により
改良が入っている。ところが一番最初に造られた1号機がなぜ、好調なのか。
実は1号機は一度死んで生き返った過去がある。

昭和30年代前半に、北陸路の運用に就いていた頃に、親不知付近の地滑り
災害に、看板列車「日本海」(のちの最近まで残っていた急行「きたぐに」
トレインコード501、2列車)を引いていた1号機は遭遇し、大破した。

通常なら当然、車でいう全損で、廃車である。
ところが、当時はSLブームは遥か以前であるが、鉄道関係者とくに
技術関係の人や、車両運用や現場系の偉い方々、日本海縦貫線(北陸本線、
信越本線、羽越本線)に携わり、交通網を死守する人たちが事故の復旧と
ともに、人気の高いC57型の“長男”を死なしてしまうのは、あまりにも不覚
痛恨の出来事にならないか、という意見が多数出て、再生させようという
判断になり、この機関車は土中から掘り出されて、1年以上の年月をかけて、
奇跡の現役復活した。

ボイラー新製の上、台枠と呼ばれる下回りのシャーシーもやり直して
生まれ変わったのである。人によっては1号機は、ラストナンバー201号の
次の「202号機」と親しみ込めた敬称で呼ぶ人もいるくらいなのである。

これは長男自身の幸運もある。事故が起きた時はSL新製を打ち切って
まだ数年後の技術と製造装置が、残っていた時代であったからである。
もう数年遅ければ、全国のSLを追放して、電化を急ぎ、国鉄近代化の
荒波に当然残れなかったであろうと推測される。
機械にも幸運を持ったものは。確実に居て、それを保守して愛用して信頼
する。それが正しい機械と人間の関係なのであろう。

話が長くなったが、私の機械に対する考え方の一端である。



8時に大阪を出て、名古屋には11時過ぎに入った。
齢42年の車で、地図に無い新名神と伊勢湾岸を、飛行機のように飛んで
走って、このパフォーマンスなら、本当にノープレブレムだ。
カーナビを装着して来なかったので、2005年に行った「愛地球博」の記憶
を辿り、長久手と言う地名を思い出して、地図頼りに公園の横に到着。
南駐車場は迷ったが、何とか大会関係者の誘導で、展示場所まで徐行しつつ
10分ほど広い園内を進んで行く。

せっかちの人なら我慢が出来るかな?の時間を反対に、これこそスペシャルタイム
と楽しもう。さあ着いた。随分後ろの方だが、本物の緑の上にクルマを置くのは、
このカークル系イベントの美点である。



懐かしいアルピナのC1。当時はニコルが扱っていた。私が新人サラリーマンのときに
同じフロアの関テレの契約会社のカメラマンがこれに乗っていた。
マスコミと言う業界だけで、すでにバブルは萌芽しかけていたのかも、しれないが、
当時はクルマ社会版「坂の上の雲」だったと記憶する。サッカーユニホームのような
派手なブルーストライプのシートに、褪せた80年代を感じて胸が疼いた。



親近感を覚える、フィアット・ディーノと、フェラーリ製ディーノの揃い踏み。
60年代から70年に向かう頃の、このラインを近年真似る車も多いが再現し
きれていない。



異端、ポルシェ914系。しかしこのスピリットは911系列に抗えなかったが、
試行錯誤はスポーツカーの最も面白い、過程である。924以降の乗り易くなった
乗用車型ポルシェに比べると、この割切り方が好きだし、ドイツ人の遊びは
真面目だから、つい好きになってしまう。



ランチアと言う好物に群がる好き者たちに、最高のドルチェは、ザガートボディの
フラミニアシリーズであろう。徳島より参戦か。



見直して良い、FR時代後期のアルファスパイダー。
まさにプアマンズフェラーリとして、この時代を担ったのは、彼女たちだろう。
今ほど通俗的でないアルファは、見ていて実に気持ちが良いし、今より潔癖である。



AXのいる風景。5ドアハッチバックの最小ボイチュアは、プジョー104であり、後跡
を温めたのは、このシートの柔らかい、ノンハイドロシトロエン。
使い方としては、このようにファミリーで出掛けるのが理想的だが、写真のご夫婦は
我家の様に子供たちが、イベント同行から「卒業」されたように思われて、20年前の
クルマなんだなあと、思わず古いアルバムを見るようであった。



フォードシエラ・コースワース。80年代にグラナダやコルチナといったオールド
ネームを廃止させて登場した、英国フォードのニューウエポン。
このスタイリング変更で、内実もメカは全面変更かと思ったら、FRだった。
英国流の保守性に驚いた記憶がある。



2台のベンツ190シリーズ。
片や190エボと呼ばれた、これもツインカム16バルブを積むコースワース
チューン。右はボアアップで3ナンバーになった2.3である。



中京圏のアルフィスタたち。
真ん中のジュリアスーパーの男性は、後でお話しする機会に恵まれた。



創業75周年を記念して作られた、アルファロメオ75のサイドビュー。
直線的なデザインだが、リアのドアの後ろで、サイドラインが跳ね上がる
独特の美学に、このクルマの印象は深い。デザイナーという者はこれくらい
やらないと、名を残せない。


さて、緑の上で、くつろいでいると、話しかけられたので、応対すると
「kotaroさんですね?」と聞かれたので、「はい」と答えた。

その男性は、このブログを時々読んでくれているという。
ブログは思った以上に、いろんな方に読まれているのだなと、感心すると共に、
クルマという話題から、広い範囲で、世の中を見渡していくという書き方に、
共感を憶えて頂けるなら、これほど有り難い読者はいない。

書き手冥利というのは、こういう時に実感する。
ガソリンと高速代を使い、愛知県まで旅に出る目的って、単にこのイベントを
見て、レアなクルマの話題だけでは、勿体ないと思っている。
旅の道中やプロセスで出会う、人やクルマ含めて、全てが旅を構成する
要素だと思う。

こういう初対面の人と出会い、既に書き記したもので、私の主張に共感して
いただける。そういう偶然ががあるというのは、すごく書くことに励みになる
のである。


さて、イベントは蒸し暑かったが、日照で酷暑というほどでなくちょうど良く
思われる6月最後の日曜日となった。
3時半に大会終了、4時過ぎに退出となった。

これから無理して大阪に帰る気持ちもなかったので、どこかに泊まろうと考える。
よく使う、岐阜の中津川の宿も、泊まり易いが、地図を見ているうちに久しぶりに
南三河の蒲郡方面に行きたくなった。

手持ちの宿ガイドで、渥美半島の先端の伊良湖岬まで行ってみよう。
蒲郡クラシックホテルは、一人で泊まるには、もったいない。豊橋市内のビジネス
ホテルも考えたが、ざわざわしていそうで、きょうの気分でない。
会場をやっとでて、高速で岡崎まで走り、蒲郡を通って渥美半島の42号線に辿り
着いた頃には、もう夏の長い一日も黄昏を迎えていた。





ここから長い長い半島の先端まで、小一時間以上かかったが、宵闇のなか、
何とか宿に到着出来た。
遅い食事もとれて、明日の朝からの旅の続きが楽しみである。
フェリ−で海を渡ってみよう。




Posted at 2013/07/03 03:26:12 | コメント(6) | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ
2013年06月11日 イイね!

フィアットフェスタ20年

フィアットフェスタ20年長い旅から帰って来て、無事を喜ぶ今日の暮らしです。

20年前に始まったフィアットの祭典、ゆっくり旅の
感想を書いて行こうと思いますが、あまり高揚もなく
旅を終えました。

初っぱなからこう書くのも何だけど、下火だなあと
思いました。
その代わり124ツーリングと、その前後の旅は非常に
楽しかった。

毎回旅をすることは、自己の目的と、車と私自身の命のアライブの確認で、
今年も1200キロ無事に走り終えたことに、高く感謝しております。



新旧のフィアット車が、集う祭典。このコンセプトは、20年間不変です。

そして外国車として、メジャーでもないフィアットには、幸運の女神が
ついているのか、90−00年代の国際再編のなかで、奇跡の単独生き残りが
出来ています。

私も27年乗って、思うのは、幸運ばかりです。

新しい500の成功で、フィアットは20年先も、残りそうな自動車会社に
なったと思いました。
フィアットフェスタには、新500も旧旧500もたくさん来ていました。

初代パンダは、減ったとは言え、まだ一大勢力でしょう。5月末にあった
パンダリーノは200台以上が集まったと聞きます。

しかしフィアットフェスタは、その所期目的を果たしたのでしょうか。
熱気も水上に来て、最初の年より下がってきており、私は感慨に耽っておりました。



一時期のプントはめっきり姿を消して、熱心に旧い車を維持している、
124スパイダー倶楽部の面々の皆さん。付随して850や131といった
「数字系フィアット」と最近呼ばれる、70年代以前の人たちは、たぶん
この先も私を含めてずっと乗り続けるでしょう。

そろそろ「趣味のフィアット」と普通のフィアットの棲み分けの時代になったの
でないかと思うのです。

たとえばトヨタ車のイベントに2000GTとヨタハチ、それにダルマセリカが
来ていたとします。そこにハリアー(現レクサスRX450h他)やプリウスで
乗って行ったって、楽しいでしょうか?。
コミュニケーションをとろうと、「私も同じクルマに乗っています」と話しかけ
られても、例え相手が青い目の外人さんでも戸惑うのではないでしょうか。

今回ボクが感じたのは、数年前から思っていた温度差と、イベントの行く
末に対する一抹の不安感でした。

こうじゃなかったんだけど、という参加者も戸惑いつつ来ている。
フィアットは、ウーノやパンダの時代だったら、850やX1/9もお友達
感覚で一緒に走れたのに。
今のニュ−500は空冷2気筒や、アバルト、トリビュート“フェラーリ”など
ハリヤーやプリウスとは違う「遊び心」は、持っています。

ただし、その遊び心の方向性が少し変わって来て、お金を使えばもっと
楽しいオプション世界に連れて行ってあげるよ、そんな風に思うのは
ボクの僻目でしょうか。





今年も昨年に引き続き、水上に行こうと思ったのは、124クラブの
ツーリングと、この近年、毎年顔を合わせる人たちとの懇親です。

こればかりは、説明不要の付き合いで、一番長い人とは、1995年に
私が始めたヴィエーニフィアットの、第一回の時よりの付き合いです。

主催者の124乗り、T3さんとのお付き合いも、1999年の富士高原
最後のフィアットフェスタ以来。

今回の前夜宴会で、飲み交わす人の中にも、あの時が一番楽しかった。
去り往く1990年代への、追慕の気持ちを伺うことが出来ました。

僕らは30代から50代以上へ。
近年身体の調子と向かい合う、筑波の友人とは、お互い子供も成人して
後の人生をいかに味わいながら、クルマ趣味を続けることの喜び、
そんな感慨も含まれた、再会の酒の味であったと思います。

フェスタ自体の楽しみは薄れても、ここにくれば、日本中でフィアットに
乗っている誰かに遭える。そんな感想でしょうか。




私も、1月のニューイヤーミーティングと共に、先頭斬ってイベントに行く、
取り柄もない人生の日々で、あの人もまだ頑張っているんだな、そう思って
もらえれば、賞や記念品をもらうより、誇りに思える何かがあるのだろう。

そう思って、1000キロ以上の陸路を、風のように参上して、風のように
走り去って行くのではないか、と自分の行動分析をしています。

この20年を主催でもない僕が、総括する必要はありません。
自動車趣味の世界は、長年欧米のクルマの趣味が目標でありました。
個体としての、趣味車を手に入れて、乗り続け、そのクルマが映える
場面を探して、カーライフをする。

日常と非日常の設定と、日常使用に於ける喜び。満足感。
そんな、ちょっと先にある「嬉しいこと」を、どう具現するか。

さらにその喜びを高める為に、同好の仲間、友人らを見つけて、
グループや集まりを作ったりして、楽しみ方を、環にする。
その中で、啓蒙や教育に近いこと。情報を交換したり、スマートな
生き方の見本を探して、働く人生の目標にする。

そんな所であったのでは、ないでしょうか。

行きも帰りも単独であった今年のフェスタ参加は、終わりました。
道中の旅や、前日に泊まった軽井沢は、31年ぶりの探訪という
こともあり、日本の30年間を見るようでした。

明日以降に、旅日記を書いて行きたいと思います。
本日は、ここまでの感想にしたいと思います。
Posted at 2013/06/11 14:28:01 | コメント(6) | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ
2013年06月05日 イイね!

軽井沢と水上(W杯出場とフィアットフェスタに寄せて)

軽井沢と水上(W杯出場とフィアットフェスタに寄せて)サッカージャパンがW杯進出を決めた夜、
今年のフィアットフェスタに向けて、
出かけることをほぼ決めました。

今回で5大会連続出場。サッカーは1998年の
フランス大会からで、その前が1994年のアメリカ
大会で、日本が初出場かけて最終のイラク戦、ロス
タイムに同点ゴールを入れられて出場を逃すと言う
「ドーハの悲劇」は93年の10月28日夜のことであった。

あの落胆の瞬間は深夜の0時頃で、スポーツ新聞は全部1面やり直しになった。
もう20年前のことになる。

今年のフィアットフェスタは20回目である。
ということは2013で20thだからアメリカ大会の94年に始まった記憶は正しい。

サッカーは2002年の韓日大会で大きく盛り上がる。
ドーハの奇跡で出場権を得たのは韓国だったから、やっと気分を直して
共同開催にこぎつけた。
それにしても、クルマ社会の変容も、クラシックカーといえば戦前車だった
イメージが1960年代の車が主役のイベントが増え、外車から輸入車になり、
生産国別やメーカーを絞ったこういうイベントの気運が高まったのは、やはり
90年代からではないか。

こうやってよく「失われた20年」というが、下がったのは実体経済の中で
なんだったのか。サッカーのW杯定着、フィアットフェスタや、長く続く
NYMのような自動車イベントが普及したのは、その期間なのである。
不幸を売りにするのはマスコミの常套手段などと思わないで欲しいが、社会
基盤の中で情報通信の主役にネットが「取って代わった」ことであろう。
これも論評するというか、空気みたいな物である。

私はこうやって、25年以上1台の車に乗り続ける傍ら、記憶もしている。
いろんなことを思い出しつつ回顧録を早くも書き始めながら、歴史に
ついては、自分なりの解釈や見方を加えている。「正しい歴史」なんて
ものはないが、若い20歳前後の読者や、20代の自動車乗りたちにとり、
面白いおじさんがいるくらいで良い。

私は産經新聞が「新しい歴史教科書をつくる会」のときの騒動も覚えている。
ああいうのは、今思えば自信過剰と我が身の体(てい)や身の程知らずだった
なあと思うが、ひとをインスパイアするのは、メディアではない。丁寧に事実
を積み重ねて行くことである。

ところでいまNHKの朝ドラが「あまちゃん」と言って1983年の世相が話題らしい。
小泉今日子がデビューしたのが1982年、私が初めて軽井沢に行ったのが、この年の
5月の連休翌週で、大学4年目の気楽な旅で、清里と軽井沢を訪ねたのである。

もちろん硬派の鉄道サークル員だったので、女っけ無しである。清里のペンション
では、少しモテたような記憶もあるが、碓氷ー軽井沢越えのEF63は粘着方式の
車軸駆動で66パーミルをEF62と組んでアブト式に代わって越えて行くのだよ、
なんて野暮な説明を、日本橋の百貨店から来ていた同世代のOLたちに、粘着質に
吹聴したことは無いと思うのだが、こういう時に記憶は曖昧になるものだ。




それにしても「峠のシェルパ」と粋なニックネームを付けられていた碓軽用の山岳
区間用の機関車が使われていたのは1963年のアブト式廃線から1997年の長野新幹
線までの35年足らず。
私は今回のフィアットフェスタの前々日に、軽井沢を31年ぶりに訪ねる予定である
が峠を巡る交通網も大きく変わったことを感じる。

82年に軽井沢に泊まった時は一部上場企業に勤めていた父の会社の保養所に泊めて
もらった。
たかが会社の従業員の子供一人、平日に泊まりに来るだけで、保養所の管理人夫婦は
高崎から車で軽井沢まで、出向いてくれたのである。申し訳ないような気持ちで
いっぱいだった私は、それでも人生には体験が必要と思い、軽井沢宿泊を選んだこと
に感動しこの出来事を理解しようとした。帰宅後さっそく、私の為にこういうことが
あったとエピソードを家族や友人に報告した。清里のペンションの甘い思い出以上に
22歳の青年には、よい人生体験となったのである。

31年ぶりの軽井沢行きは、現地に居る知人の124スパイダーオーナーの写真家を
訪ねて、油やという古い旅籠で開催中の写真展を見るのと、親交のためである。
目的に歴史的普遍性は薄いが、軽井沢の30年間の変遷、私の乗る愛車は40年物の
骨董品だが、その間の道路網の発達や高速ETCなどの収受システムの発展が、この
旧い車で現在、大阪ー軽井沢の旅を可能にしたとも言える。

宇宙戦艦ヤマトで「ワープ」という時空間を破って航行する概念を知った昔の子供
たちも、今は良い年のおじさんだが、私の愛車はSFではない。
ちゃんと地に足の付いたリアエンジンの小型スポーツ車だが、この30年間企業等で
働いて来て、知識と経験で航行するのである。そこんとこ判るかな。

旧車趣味について、いっときは、自虐史観のように壊れ自慢というのがあった。
そりゃあ私の車だって何回もトラブルに遭っています。それを大人の知恵で乗り越えて
苦しい旅を楽しい思い出に変える。それが長く生きる(乗る)知恵ではないのか。
きょうのお話は水上(フィアットフェスタ)まで辿り着けなかったけれど、なんとか
いってきます。
それでは。





Posted at 2013/06/05 07:51:03 | コメント(1) | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ

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「やっぱり。言わんこっちゃない。「トヨタ、センチュリーを独立ブランドに クーペ開発でラグジュアリー市場拡大」https://x.com/i/trending/1977788758218219921
何シテル?   10/14 09:32
車は殆ど処分して、1971年登録のフィアット850クーペに 1987年以来、乗り続けています。 住居は昭和4年築の、古い日本家屋に、現状で住んでいます。
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