車に関連した心理機制のclevelar@的解説と解釈。
赤ん坊を見せられて、「可愛いでしょう!?」と言われても、正直者の私は返答に困ることがあります。
どう見ても、お世辞にも可愛いという感情が湧かない。親にしてみれば、目の中に入れても痛くない子供でも、他人の私にとっては、ただのうるさい生き物でしか無いのです。
赤ん坊を車に置き換えても、これと同じようなことが言えるのです。
自分の車をもっと格好良くしたい。他人と違う車に乗りたい。自分の車が一番よく思える。クルマに乗ると人が変わる。
車というものは、購入以前または購入後も内的、外的条件で色々な心理的葛藤が起こる、めんどくせー乗り物であります。
また、クルマは、こつこつ改善させる過程、またはその結果が楽しいという、不満足な点が趣味になってしまう面も持ち合わせています。
しかし、欲求が複雑多岐になると、欲求間の矛盾が多くなり、目標が高すぎると、外的環境要因がそれを許さなくなり満足が得られなくなります。
欲求不満が起きた場合、心理機制が働き心の平常を保つようになります。それは、意識的にも、または無意識的慢性的にも、人間の行動様式に影響を及ぼします。
心理機制には、いくつかの種類がありますが、車の不満足な点に関しては、主に合理化(rationalization)の心理機制が働いております。
合理化とは、欲求不満を理屈づけて正当化することによって、かりそめの満足を得ることです。やせ我慢、屁理屈、自己満足などもこれに当たります。
いろいろな車に試乗したけれど、自分の車が一番良い(不満な点もあるけど、すべて許せる範囲)と思えるのも、合理化の心理機制が働いて、妥協しているわけです。
それは、一瞬の間に決着することもあれば、しばらくの間、モヤモヤした感じで悩むこともあります。
他の車と、自分の車の違いを、一つ一つ検討して優劣をつけ、心のなかで整理していき、総合的に自分の車が優っていると思えた場合は問題はありません。
しかし、どうしても他の車のほうが、良く思えてしまった場合(浮気心)、自分の車に乗るたびに、劣等感に苛まれてしまいます。
それを完全に解決する手段は、良いと思う車に乗り換える以外にありません。しかも、それで内的葛藤を克服できたとしても、新しい車を購入するにあたっては、価格の問題などの外的環境条件で、再び葛藤がおこります。
私は、クルマ ≒ 人のようなものと考えます。
これは、車に限ったことではありませんが、行動を共にするモノに対し、人はその物的対象物を擬人化する事は普通に見られます。
車との付き合いは、
お見合い結婚した後に、愛を育むようなものでしょう。
日々、新しい発見をして、小さな欠点には目をつぶり、改善するべきところは改善し、理想的な関係を築こうと努力する。
ただ、クルマは機械ですから、決して車の方から歩み寄ってくれることはありません。
一方的に車のオーナーは、不都合の数々を甘受する。
結婚と違い、購入前に試乗することは可能だし、売却することにも、何ら社会的制約があるわけでもないので、人を相手にするより、はるかに恋愛の自由度が高く、相手に対して一方的に強い立場に居られるはずです。
しかし、一度惚れた弱みなのか、自分の車を盲目的に愛してしまうオーナーが非常に多いと思われます。
駆け抜ける悦びを味わうことで、すべてのことが許せてしまう。吹け上がるエンジンの音に、エクスタシーを感じる。
自分の車の何処が気に入っているのかを聞かれることは、自分の恋人の何処が好きなのかを聞かれることと同じようなもので、人それぞれ理由は千差万別でありましょう。
旧車のオーナーさんの中には、マゾか?とも思える程に、壊れ続ける車を愛している方もいます。
無償の愛もあれば、見返りを求める愛もある。
人は車に、多種多様なものを求めます。
格好良い=外見重視
性能が良い=機能重視
乗り心地が良い=快感重視
音がいい=官能的、感覚重視
メーカーが好き=家柄重視
安い=経済性重視
高い=社会的、経済的ヒエラルキー重視
珍しい=趣味性重視
1台で、自分の要求を全て満たしてくれる車は、まずありません。
足りないものを補うには、目的別に2号さん3号さんを囲うしかないのです。
当然なことですが、維持費がかかるのは、人の場合と同じです。
まあ、細かい事なんかどうでもよく、眺めているだけでもいい、ぶんぶん乗り回すと尚良いという車に巡り合えた場合、それが車と人間の蜜月関係なのだと思います。
人が車を愛する理由は、「好きだから」の一言に凝縮されてしまうのかもしれません。
従って、こんなブログを長々と書くこと自体、野暮なことなのかな?と思ってみたりもします。
Posted at 2013/03/21 21:39:29 | |
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