2014年09月21日
私は山海堂という出版社が出版していた『オートテクニック』の読者だった。12歳でレーシングカートのライセンスを取り、レーサー(当時はレーシングドライバーよりもレーサーという呼称が一般的だった)になる気十分の少年にとって、F1はもちろん国内のF2、富士GCの情報がふんだんに盛り込まれた『オートテクニック』は、競合誌となる『AUTO SPORT』に比べるとかなり重厚(そのままの意味でも……厚くて重たい)だった。クルマ好きの父が「マニアはオートテクニックを読んでいるだろうな」と言ったのも、的外れではなかった。この本は結構高かった。今、手元にないが確か650円くらいか? 中学生にはけっこう痛い。
ただ特別裕福な家ではなかったが、親も本を買うことに対しては寛容で小遣い以外に追加でお金を出してくれた。中学生の頃、『パンチドライビングテクニック(星島浩)』『モータースポーツ用語辞典』などを買って読んで、スーパーカーブームを引きずるクラスメイトに知識をひけらかせていたから、マセガキそのままだった。『オートテクニック』の別冊のレーシングカートの本などもあったと思う。綴じが悪くて、すぐにばらばらになってしまった記憶がある。
高校生になったら本格的にレーシングカートを始めようと思っていたが、ここで先出の「特別裕福な家ではなかった」ことの現実を見せつけられる。基本的にレース活動をしている少年は裕福な家柄なのだった。私と同世代でもすでに有名レーサーの二世が登場していた。こんなこともあり、なんとなくレースをやることを棚上げしてしまった。それでも「まずお金持ちになってからレーサー(その後、ラリードライバー)になろう」という気持ちは大学生になるくらいまでは持ち続けていた。それは現実の前にはあまりにも儚い夢だと思い知ることになる。
一方、私は文章を書くのが得意な少年だった。小学校二年生の時に『練馬の子ら』という区が発行している文集に作文(というより詩?)が掲載されたのを皮切りに、ほぼ国語だけはトップクラスの学力を維持していく。皆が嫌がる作文の授業も、そんなに苦はなく、先生に褒められることも多かった。もちろん学校優等生的な内容で、才能云々よりもお利口さん的文章テンプレートを書いていただけなのだろう。ただ、得意意識があったのは事実で、大学も文学部に入り「国語、日本史の先生」というのが現実的な路線だった。もちろんそれではお金持ちになれないからレーサーは無理。それに、その当時の大学はレジャーランドなどと揶揄されるくらいの緊張感のない時代(もちろん個人の向き合い方によるだろうが)でもあり、なんとなく大学に魅力を感じなくなってしまった。
そんなとき本屋で見つけた雑誌が幸か不幸か? 『スピードマインド』という見慣れない雑誌。創刊号だから当たり前といえば当たり前だ。しかし、かつて慣れ親しんだ山海堂の『オートテクニック』の別冊で、編集長は同誌の編集長として見覚えのある飯塚昭三氏だった。早速得意の課題作文を書いて面接にこぎつけ、私は『スピードマインド』の編集部に転がり込むことになった。
つまりヤクザな世界の第一歩を記したのである。続きは気が向いたときに。
Posted at 2014/09/21 22:30:41 | |
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道の途中で。 | 日記