今日は土曜日出勤の振替休日でお休み。母を岡崎市内の所用先へ送り届けたその足で旧宮崎街道明見坂へとやって来ました。戸倉峠の明治車道を歩いて、「久しぶりに近所(と言っても自宅から約30km。)の明治車道でも歩くか。」という気分になったので出かけてきた次第です。これで訪問は6回目ですけどね(笑)。
最寄りとなるいつもの路肩に駐車。
明見坂はこの県道37号の旧道にあたります。
これから右側の崖の上へと登っていくことになります。今は川沿いに2車線道路で難なく通過している場所ですが、昔々は急斜面が直接川へと落ち込む地形で道を通すのもままならなかったのでしょう。
明見坂への入口へとやって来ました。
ここの入口には小さな道標が立っています。
正面は「すぐ ほんぐう乃?」。
右側面は「願主 西尾 須田町 萬? 万屋?」。
左側面は「明見坂 登三町」。
願主に「西尾 須田町」とあるのは西尾市須田町のことと思われます。「ほんぐう~」とあるのは、三河国一ノ宮である砥鹿神社の奥宮がある本宮山をさしているのは間違いないでしょう。
道標に年号が無いので、設置されたのがいつなのかは全然わかりませんが、「明見坂 登三町」とあるので、峠を登っていた明治末期までには設置されたはずです(ちなみに、検索でヒットした「額田町のあゆみ(歴史年表)」には「1907年(明治40年)に明見坂改修」とあり、おそらくこの年に現在の川沿いの道が開通したと思われます。)。
それでは、道跡へと入っていきます。いつ来ても入口だけは薮が邪魔していますね。
まあ、10mほど歩けば薮は抜けてしまいます。
こんな廃道に太いゴムパイプが横たわっています。理由は後ほどわかります(推測ですが。)。
道跡の分岐点です。二股の右へと向かうのが明治車道である新の明見坂、左へと向かうのが明治車道ができる以前の旧の明見坂です。
この分岐点の路肩は石垣で補強されています。
そのまま新の明見坂を進んでいきます。
落石防止ネットが掛かっている所には高く石垣が積まれています。
この道跡では一番大きな落石です。2014年2月訪問時にはありませんでしたが、2017年7月訪問時にはありました。
山側の岩を削り取り、谷側には石垣を積んで道幅を確保しています。県道から地図読みで標高差70mほどを登るだけの峠道ですが、落ち込むような急斜面に道を切り開いていくのは相当難易度の高い工事だったでしょう。
この辺りの路肩も高く石垣が積まれています。当然ですが、石垣を積んである部分は地面が無かったわけで、足場とかどうやって組んでいたんでしょうかね。
県道の落石防止ネットのワイヤーに挟まれた石。なぜ石を挟んだままネットを設置してしまったのか…。
このカーブでひとまず急峻な地形から離れます。
この道の石垣に使われている石は「片麻岩」のようです。整形加工に適さない石なのか、いかにも割ったままの状態で積み上げています。それでも目立って崩れた個所がないというのが凄いことです。この周辺の寺院や神社、民家の石垣にも同じ石がよく使われています。
峠までの区間で唯一大きく崩れている所。地形が緩くなったのに崩れている不思議。
奥に切り通しの入口が見えてきました。
右側を向くと石碑が立っています。
「宮崎街道之碑」。いわゆる開通記念碑です。
小さな文字でびっしりと整然かつ丁寧に彫られています。
碑文を写真に撮って書き起こしてみました。漢文かつ旧字体(当然ですが。)で彫られていますが、大まかな意味は読み取れると思います。
「宮崎街道之碑」
額田郡東北多山其竒而嶮者可以十數崛起騰躍蜿蜒北□□□□□□□
數里是以若宮﨑村則少旱魃之患然而運輸不得其便商旅苦於□□□□
不免也夙本郡六道改修之議興焉而懸崖絶谷不可勝數也其最者有明□
田原之峻嶮改修之事亦甚不易矣雖然沿道之諸村自投其私錢且盡心力
徐徐循序既尤五道之成功宮﨑街道則其一也宮﨑街道者自宮﨑西達于
岡﨑北達于作手故又稱作手街道其分支數條一支自龜穴達于赤坂一支
自中金經大代達于千兩一支自龜穴達于千万町改修之路程合算之則殆
將十餘里而况有明見之嶮田原之峻乎以明治二十四年一月起工至二十
五年一月成夫其為役■大矣費額金三千五百餘圓亦可謂大矣此役也當
計畫勉勵従事者郡吏田中菊造也山本源吉河合和助等甞為村長能辨地
形因督此事以告成其勞又可紀也頃者村人相謀將鐫其功■石屬文於余
余日明見田原之峻嶮昔時群雄割■之際以為要害之地今則不然郡縣之
制洪恩浹洽四海一家冝夷其嶮阨以闢車馬絡繹之路且若宮﨑則出良材
製芳茗運輸不得其便則安得■其利凡土地之貧冨盛衰未甞不基于道路
往来之便與■便古人曰架橋梁修道路者仁之最大者也此役葢可謂得古
人之深■也矣
明治二十五年十一月上澣
愛知縣額田郡長従七位針谷重懋撰併題額 奥平鐵門書
岡﨑 嶺田久七鐫
□:欠損
■:当該漢字が私のパソコンで検索不能かつ現代で該当する漢字がわからない
碑文の中ほどに、明治24年(1891年)1月に起工して明治25年(1892年)1月に完成、工事費用は3,500余円とあります。
裏面は以下の関係者の氏名が彫られています。
「建設発起者□□」
村長、役場員3名、道路改修委員6名、村会議員10名、賛成者19名、特別□1名
石碑と切り通し。
切り通しを通り抜けていきます。周辺の山の中で尾根が薄くなっている地点を狙って掘り下げてあります。
切り通しは、長年の風化により相当埋まっていると思われます。本来はこの写真くらいの道幅はあったでしょう。
ここからは薮が濃くなってきます。日が当たる側が薮が少なくて、日陰側が薮が濃いのはなぜでしょう?
まだ春先ですし、今のところは背の高い笹だけなので、押し広げて通り抜けていけます。
道跡はここで下を通る舗装道に切り取られてしまい終了です。
ここから道路には降りられないので少し登り直し、坂の途中で分岐する道跡へと入ります。この道自体も薮がひどいですが、気にせずどんどん進んでいきます。
真ん中に建つ白い標識の右側から道路へと出てきました。通ってきた道跡は、旧の明見坂からの道の一部ではないかと想像しています。
ということで、これから旧の明見坂へと向かいます。出てすぐ左側の坂道を登っていきます。
でっかい檻があります。熊でも捕まえられそうです(笑)。
坂の頂上、峠に来ました。左側は岡崎市の明見配水場です。
ここを通り抜けます。
そして、左に曲がると旧の明見坂の道跡が始まります。
道跡を辿る目印は黒いゴムパイプ。これは多分配水場からの送水管なのでしょう。
坂を下ります。
右へとヘアピンカーブ。
その先の路肩には石垣があります。
下から峠を見上げます。石垣の角度から急坂であるのがわかります。
パイプを辿って進みます。
小さな切り通しのヘアピンカーブ。
ここにもちょったした石垣。
パイプもカーブを描いて下っていきます。
新の明見坂との分岐点に着きました。
県道37号へと戻ってきました。
車に戻る前に横を流れる男川(おとがわ)の堰堤へ立ち寄りました。何年か前までは堰堤の上段側が格好の水遊び場で夏は賑わっていましたが、真横の駐車場(空き地?)が閉鎖されたためか、今では誰も来なくなりました。
今回も明見坂は大きな崩れもなく、そのままひっそりと残っていました。距離は短いですが、これだけ遺構がしっかり残っている明治車道の廃道(しかも街から近くて、来歴がわかる開通記念碑付き。)は愛知県内ではあまり無いと思うのですが、インターネットで見かけることがほとんどないですね。「まあ、あまり知られてもねぇ…。」という気持ちもあるので、見つけた人だけ楽しんでくださいねといったところですか。
※2020年9月3日追記
何気にネットを検索していたところ、ヤフオクに「宮崎尋常高等小学校 明見坂道路改修実況」という題名の絵葉書が出品されていて、そこには現在の男川沿いの道路(現在の愛知県道37号)を開削する風景の写真が載せられていました。
説明文には、「明見坂ハ宮崎村ノ關門二當リ險峻ヲ極ム 明治四十年十月之レガ改修二着手シ翌年五月竣工セリ 幅員二間延長九百八十七間工費金壱万八百圓餘」とあり、額田町誌などではわからなかった明見坂区間の現県道ルートの明確な建設時期が判明しました。