2020年7月12日日曜日、今回は、豊川市と岡崎市の境にある県道334号千万町豊川線の峠「杣坂峠」の旧道を歩いてきました。
現在の地形図はこちら。
※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
現在の県道(黄色の線)は西側へと迂回して距離を稼ぎ、勾配を緩和するルートを取っています。一方、旧道はおおよそ赤線のごとく、2か所のヘアピンカーブで一気に峠と麓をつないでいました。
戦前の地形図はこちら。赤線の部分が今回探索した区間になります。
※5万分の1地形図「御油」(明治23年(1890年)測図、大正7年(1918年)修正測図、昭和2年(1927年)鉄道補入、昭和4年(1929年)発行。)。
戦前の地形図には「杣坂峠」ではなく「駒坂峠」とありますが、間違いではありません。現在は「杣坂峠」で統一されていますが、かつてはどちらの名称も使われていたようです。
少し杣坂峠の道について説明すると、「新訂三河国宝飯郡誌」には、「杣坂往還。里道。嶮坂屈曲、俗に千両杣坂七曲がりと云う。字杣坂下迄は車馬を通ず。長さ六十町、巾二間。」とあります。「千両」は、現在の豊川市千両(ちぎり)町のこと。60町≒6.545km、2間≒3.6mになります。
「角川日本地名大辞典」では、「杣坂峠またの名を駒坂峠。大正12年(1923年)に郡道から県道へ昇格したが、牛馬車の通行には特殊な車止めの装置(どのような装置かは記述が無い。)を施したもの以外は通行困難であった。昭和12年(1937年)に新道が開通し、自動車の通行が可能になった。」とあります。
ウィキペディアにも同様の内容が掲載されていますが、さらに「特に「大曲り」や「肘曲り」などと名称のついたカーブは難所であった。」と追記されています。
峠越しに隣接する豊川市の「豊川市史」と旧額田町の「額田町誌」には、峠や峠道について目を引くような記述は見つけられませんでした。
さらに余談として、旧音羽町の「音羽町誌」に掲載されていた、明治21年(1889年)3月7日付け赤坂村会議事録にある「里道改修建議」の文中に間接的に杣坂往還が登場します。
申請理由の一つとして、「千両村より宮崎村に通じる道路(杣坂往還のこと。)を改修して、自由に車馬が通れるよう企てていて、これが先に完成してしまうと宮崎村・大代村・雨山村(いずれも旧額田郡で現岡崎市。)から発出し、赤坂(宝飯郡赤坂村。旧東海道の宿場町。)を経由して豊橋へと至っていた荷物が、みんな千両村を経由して豊橋へと至ることになり、これは赤坂村の衰微と言わざるを得ない。一年も猶予できない工事と思って議員の皆さんには熟議していただき、(この建議を)採用してもらえれば幸いである。」とありました。
能書きはこれくらいにして、本題に入っていきます。
県道334号の杣坂峠へとやって来ました。峠から豊川市方面が通行止めになっていて、準備している間にも何台か車やバイクが引き返していきました。
こちらは岡崎市側。杣坂峠は、豊川市側が急峻で岡崎市側はなだらかな地形になっているいわゆる「片峠」です。
出発する前に、峠から分岐する林道を歩いて、旧道がどこから分岐しているのか探してみましたが、これと思わせるような場所はありませんでした。
結局、車を停めた辺りまで戻って谷側をよく見てみたところ、下の方に道跡を見つけました。ここから斜面を降りていくことにします。
ちゃんと道跡が残っていました。この旧道についても全然情報が得られなかったので、まずは一安心。ちなみに、逆方向は県道に潰されてしまっています。
それでは、麓へ向かって歩いていくことにします。
まだすぐ上を林道が通っているためか、最初に入り込んだ地点も含めて、投棄されたいろんなゴミが散らばっています。こういうのは本当に気が滅入ります…。
ちょっとは荷車道の廃道らしく見えますね。
しかし、この廃道、最初から常緑樹の薮に覆われています。常緑樹なので、たとえ冬に来ても同じ目に遭うということですね。
そんな木々の中に棘のある木も混ざっているのが何とも嫌味です…。図鑑で見ると「サンショウ」の木かな。
少々、先が思いやられる展開になってきました…。
木の枝からオレンジ色のテープがぶら下がっています。この廃道も国土調査などのために誰か歩いたんでしょうかね。
道幅が広くなってきました。雑草や雑木も生えていません。
大きなヘアピンカーブです。これが「大曲り」なのでしょうか。
ヘアピンカーブの先は、また密生した低木や雑草を掻き分けていきます…。
続いては倒木を跨いでいきます。地面に石ころが多いので、変なふうに踏んで足を捻らないよう確認しながら進みます。
倒木地帯を過ぎたら、また低木の集団…。倒木も絡んでるよ…。少しでも歩きやすい所を探して進んでいきます。
沢へと出てきました。この雰囲気は砂防ダムで土砂が溜まっている場所のようです。
沢が土砂で埋まってしまうと、旧道がどこを通っていたのかわからなくなってしまいます。谷底の真ん中あたりを歩きながら左右の山際を確認していきます。
左岸側に道跡と思われる直線が現れました。水流もわざわざ下へとくぐらせているので、ひとまず問題ないでしょう。
砂防ダムです。普通は堰堤まで土砂で埋まっているものですが、ここはまだ隙間が空いていますね。
笹薮。足元に気を付けつつ、どんどん踏み込んでいきますよ。
沢を渡る築堤のようですね。
石積みの擁壁もあります。石の大きさや積み方は不揃いですが。
下へと降りて、全景を眺めてみます。規則性が全くない乱積みです。
暗渠はちゃんと流れを通しているので、先は見えませんが潰れてはいないのでしょう。
結局、ここが道中で一番の石造構造物でした。
「もう!どうやって通り抜けるんだよ!」と思いながら、頭や腕を突っ込んで何とか掻き分けていきます。
段々と道跡の状態が良くなってきましたね(巨大な倒木は普通にくぐれるからまだいいのです。)。
川へと突き当たりました。かつてはここに橋があったのでしょう。
橋台の痕跡と思われるもの。白い物はトイレのような気が(笑)。
対岸へと渡ったら、ちょっとした廃棄場になってました…。
ようやく麓側の県道へと合流しました。峠から1時間強といったところです。
合流地点から振り返ってみた光景。左側の道が旧道。右側の道は杣坂峠まで別ルートで登っていく林道です。
県道に出て、豊川市千両町方面を眺めます。通行止めのためか、車は1台も通りませんでした。
路傍の石仏。右側の石仏はけっこう新しい感じでした。
県道を合流地点から杣坂峠側へ歩いたすぐの所に橋が架かっています。
「昭和七年(1932年)三月架設」とあるようです。ドライブで何度も通っていますが、昭和20年代から30年代くらいの橋だと思っていました。
「角川日本地名大辞典」では、新道(現在の県道ルート)は昭和12年に開通したとありましたが、この5年の差は一体何なのでしょうか?新道の工事のために橋だけ先に架けた可能性もあり得そうですね。
親柱のデザインは、簡素ですが戦前の愛知県が架橋したものに雰囲気が似ています。橋の名前は「兎渡橋」のようです。
この「鏡餅」は、ただ乗せてあるだけのようですね。ほとんどは無くなっています。
橋名がひらがなで彫られていて、「〇たん〇はし」と読み取れます。
「兎渡」を「とど」と読む地名があるようですが、全然違いますね。かえって「兎渡橋」を一体どのように読むのか謎が深まってしまいました…。「うたんどはし」、こじつけ過ぎか…。
さて、杣坂峠へと戻ることにします。
途中にあった砂防ダムへ立ち寄ります。建設時期を確認したかったからです。
昭和47年度(1972年度)とあります。
これならば、途中の石積み擁壁はこの旧道が使われていた頃のものとみて良いでしょう(昭和47年度に完成した砂防ダムの建設工事に合わせて築堤を造ったのであれば、擁壁をコンクリート造にしたほうが合理的な気がするため。)。
沢を離れて山の斜面を登っていきます。斜面に進む先の道筋が見て取れますが、やはりここの峠道は荷車道の割に急坂ですよ。
「牛馬車の通行には特殊な車止めの装置を施したもの以外は通行困難であった。」というのも当然でしょう(「特殊な車止めの装置」、本当に気になりますね(笑)。)。
「大曲り」ヘアピンカーブを登ります。
廃道で見かける「リボン」は、ヤバい所へ人を誘い込むのが目的なのではないかと時々思っちゃいますね(笑)。
これは石畳なのか?落石が埋まったものだと思いますが、それにしてはきれいに填まっているんですよね。
木々の間から見える新東名高速道路と豊川市街地。「こんな所から眺めている者がいるなんて誰も思わないだろうな…。」と思いつつ眺めていました。
杣坂峠の真下まで戻ってきました。ここからは、右側の斜面を登って林道へと出ます。しかし、正面のゴミの山が酷い…。
行きに降りた場所とはちょっと違う所から登ったら石垣がありました。多分、これも旧道の遺構でしょう。
旧道は、おそらく県道の下敷きになった辺りでヘアピンカーブで登り、次に今の石垣の場所でもう一つのヘアピンカーブを通り、峠へと出ていたのでしょう。
車の所へ出てきました。「兎渡橋」からは50分ほど。しかし、一旦このまま素通りします。
最後におまけで、県道の切通しの上に少しだけ残る昔の杣坂峠の道を確認。
昔は峠にも馬頭観音があったそうですが、盗難に遭ってしまったそうです。
今回は、おまけの分も含めて全行程2時間30分強というところでした。
今回も距離的には短い廃道でしたが、急坂と密生した低木プラス大量の倒木に悩まされた行程でした。廃道の前後が現道につながっていないという、これもよくあるパターンでしたが、初めから「麓側よりも峠側の方が進入時に的を絞りやすいだろう。」と峠から下る方向で探索したのは結果的に良い判断でした。
まあ、これで現存確認ができたので、この廃道に再び来ることはまずないでしょうね。散策気分で気軽に踏破できる廃道ではないですし(道跡の崩落とかは少ないですが、薮が酷い…。)、私好みの石造構造物もあまり無いですから…。