2021年11月7日日曜日、長野県下伊那郡平谷村に残る国道153号 治部坂峠の旧道を歩いてきました。治部坂峠の旧道を歩くのは、2008年5月11日・12日以来なので、約13年6か月ぶりとなります。
治部坂峠の旧道の平谷村側ルートを記した地図です。青線が今回歩いた区間になります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
※その1からの続きです。
壊れた百葉箱がある短い廃道区間を通り過ぎて、現国道へと出てきました。
ここから現国道を横断して、右側にある山の斜面へ入り込みます。
2~3mほど斜面をよじ登ると旧道の小さな橋が残っています。
左側の親柱を見ると、陶器製の銘板は欠落しています。
右側の親柱にある銘板も欠けてしまい、「竣功」の文字だけが残されています。
前回に来た時はもう少し残っていたような気がしましたが、13年経過するうちに失われてしまったのでしょうか。
反対側の親柱の銘板もチェックします。
「〇太橋」だけが残っています。前回来た時は「栄太橋」とありました。
前回来た時も「栄」の文字の部分は割れていたので、親柱の辺りに転がっていないかと探したところ、すぐ近くの地面に裏向きになって埋もれていました。
泥を落として、割れた銘板を親柱へとはめ込み、もう一度写真を撮ります。
反対側の右側親柱の銘板の所在はわかりませんでした。一番下の文字が「澤」なので、多分「栄太澤」だったのではないでしょうか。
ということで、一つ目と二つ目に見た親柱の辺りの地面をよく探してみます。
竣功年月の銘板は、「昭和」と「二月」の部分を見つけましたが、肝心な「年」の部分が見当たりませんでした。
もう一つは、橋名のかな書き表記のものでした。ずっと「栄太」は「えいた」と読むものと思っていましたが、「えいだ」と濁るのが正しかったです。
栄太橋から平谷村方向を眺めると笹薮となっています。
橋梁に対する知識があるわけではないですが、橋の下側も眺めてみます。
この時、橋台の傍らの土の斜面に白い物が落ちているのを発見。竣功年月の銘板のかけらです。後で親柱に取り付けてみましょう。
橋台と橋桁が接する部分に薄い木の板が見えています。橋桁の表面に付けてあった板を剥がし忘れたものなのか…。ただ、橋桁の両端とも板が付いたままなので、わざと残したものかもしれません。
もう一度橋の上に上がり、先ほど見つけた銘板のかけらを親柱に取り付けて写真撮影。
栄太橋は昭和34年(1959年)12月に竣功したことがわかりました。少なくとも昭和34年頃、治部坂峠の平谷村側の峠道は自動車通行へ対応するために、橋梁の架け換えなどの改修工事が行われたようです。
割れていた銘板は、無くならないように親柱から外して、それぞれの親柱の傍らに置いておきました。
あとは大雨などに流されたり、誰かに持ち去られたりすることが無いことを祈るのみです。
さらに平谷村方向へと進みます。
次の廃道はほんのわずかに残っているだけでしたが、一応写真に撮っておきます。
次の旧道は、現国道の橋梁を迂回するように右側へと逸れていっています。現国道の橋名は、銘板が見当たらずわかりませんでした。
さっそく倒木が道を塞いでいます。
路肩にあった〇に「建」のマークがあるコンクリート製の標柱。建設省の境界杭のようです。
道路の両側から笹が繁殖して幅が一車線分ほどしか見えません。
橋が現れましたが、親柱も欄干もない簡易的な橋です。旧道の橋名から現橋名を推測しようと思っていましたが、これではわかりません。
橋を渡った先は酷い薮になっています。
谷積みで積まれた石積みの擁壁。緻密に石材を加工して積み上げていない様子から、昭和30年代の改修工事よりも古い時代のものと思われます(憶測ですが。)。
この辺りは現役時代の道幅を保持しているようです。
最後に薮を突き抜けて現国道へと出てきました。
現国道に出たところから100mほど進むと左側へと分岐していく道があります。
治部坂峠からここまでは、現国道と旧国道は並行したり交差したりしながら進んできましたが、ここからはそれぞれまったく別方向に分岐していきます(上下方向で重なる箇所はありますが。)。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
今まで点々と歩いてきた区間は廃道と化していますが、ここから峠の下にある靭(うつぼ)集落までは、一般車両が通行不可なだけで、一応自動車自体は通ることができます。
とは言え、日常的に通行する車両が無ければこんな状態になります。一応、路面に轍は付いています。
山側の路肩に残る石積み擁壁。先ほどの廃道にあった石積み擁壁と石材の形状や積み方が同じ雰囲気です。
旧道を跨いでいく現国道の第2上野橋。
古い時代の道路である旧道は地形に逆らわずに造られていますが、昭和末期から平成初期にかけて道路改良された現国道は、橋梁や高架橋を駆使し、できるだけ直線的な線形(その分、急坂が多いですが。)で造られています。
靭集落までの旧道区間で一番目立つのがこの廃タイヤの山。山の斜面を覆い尽くすように積み上げられています。
こんな奥深い山中で大量の産業廃棄物を目の当たりにすると気分が萎えてしまいますが、これだけ大量のタイヤをよくもまあきれいに積み上げたものだと感心する部分もあります(笑)。
笹に侵略されながらも何とか一車線分の道幅を維持しています。
ボロボロの「すべりやすい」の警戒標識。治部坂峠付近の標識の設置者は「建設省」でしたが、この標識の設置者は「長野県」とあります。
通常、国が指定した区間以外の国道の維持管理は、都道府県や政令指定都市が担っています。国道153号は、名古屋市天白区から長野県飯田市までの区間は国が指定する区間(いわゆる「直轄国道」。)になっていて、国土交通省(旧建設省)が維持管理を担っています。
いつ頃、国道153号の一部が直轄国道となったのかわかりませんが、この場所にある標識は直轄国道となる以前に設置されたと考えられます。
旧道の靭集落側の封鎖場所まで下ってきました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
振り返っての撮影。左側が旧国道。右側の門扉がある道は林道です。
これで今回歩こうと決めていた治部坂峠の旧道区間を踏破しました。あとは峠の駐車帯にある車まで戻るだけです。
治部坂峠のスノーシェルターの手前まで戻ってきました。スノーシェルターの中には歩道はないので、帰りも旧道を歩いていきます(笑)。
この写真の場所でふと反対側の斜面の中腹を眺めた時に問題が発生しました。何と道路と思われる平場が見えています(笑)。
しばらくこの場所で立ち止まり考えます。
「峠と麓を往復して疲れているから、今日のところはもう帰ればいいだろう。」
「いやいや、もしかしたら今まで自分が知らなかった治部坂峠の道跡かもしれない。そうだったらこのまま見過ごすわけにはいかないだろう。」
残念ながら、後者の意見が勝りました(笑)。
ここまで上ってきた旧道を引き返し、現国道の路肩を歩き、反対側の斜面をよじ登ります。
「ああ、これは間違いなく道跡だわ。」。道跡を辿ることにします。
路肩に低い石積み擁壁があります。やはり旧道に関連していそうな感じです。
はっきりとした道跡が一直線に続いています。
そして、現国道へ斜めにぶつかり、道跡は削られていました。
木々のすき間から現国道の反対側を覗くと、旧道が直角に曲がっている場所が見えています。
この道跡は何なのかと考えてみると、やはり現国道により切り離されてしまった治部坂峠の旧道の一部と思われます。
地形図に書き込んでみるとこんな感じ。赤線が切り離されてしまった旧道のルートです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
もともと、旧道は大きく蛇行するようなカーブを描きながら治部坂峠の頂上へと向かっていたのでしょう。それが、峠の頂上へと一直線に切り裂くように現国道が造られたため、残存した旧道と迂回路をくっつけたいびつな道が今に残る「旧道」となったのでしょう。
※このブログをアップしてから、あらためて国土地理院のホームページで航空写真を検索したところ、ちょうどバイパス建設中の頃に撮影したものがあり、旧道だと確認できました。
もう新しい発見はないかと思っていた治部坂峠の旧道歩きでしたが、思わぬ発見で(再発見ですかね。)満足度がアップしました。
国道153号 治部坂峠の旧道探索はこれにて終了。この時点で時刻は13時40分。
ちょっと欲が出てきて、旧道を歩いている最中に「見つけることができないかなぁ。」と考えていた別の物件を探索しに行ってみることにします。