2022年10月1日土曜日、滋賀県高島市マキノ町にある百瀬川隧道と同県長浜市高月町西野の西野水道へ行ってきました。
初めにやって来たのは百瀬川隧道。天井川である百瀬川の下をくぐるトンネルで、大正14年(1925年)7月16日に開通しました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
今回、なぜ百瀬川隧道へやって来たのかというと、9月25日にTGRラリーびわ湖高島戦に出ることになった際、「そう言えば、会場の近くに天井川トンネルの百瀬川隧道があったよなぁ。」と思い出し、何気にネットで検索したところ、トンネル撤去のための工事を開始している記事を見つけたからです。
「これはいかん!!」ともう少し記事を漁ってみたところ、トンネル本体の撤去は10月半ばから開始することがわかりました。TGRラリーびわ湖高島戦の帰りに国道161号バイパスから見た限りでは坑門は健在だったので、さっそく最後の姿を撮りに向かったわけです。
さて、この場所にトンネルが開通するまで、ここを通過する西近江路(現在の国道161号に相当。)の通行者は、百瀬川を渡るために天井川の高い堤防を急坂で上り下りする必要があり、交通上の支障となっていました。

※5万分の1地形図「竹生島」:明治26年(1893年)測図・大正9年(1920年)修正測図・昭和7年(1932年)鉄道補入・昭和8年(1933年)発行。
この状況を解消するためにトンネル建設の機運が高まり、大正13年(1924年)にトンネル建設を開始。大正14年に開通したわけです。そして最近まで、百瀬川隧道は滋賀県道287号のトンネルとして利用されていました。ただし、大正時代建設のためトンネルの規格が小さく、またしても交通上の隘路となってしまっていました。
話は変わりますが、天井川である百瀬川は、洪水対策として百瀬川隧道付近の幅の狭い流路を廃止して、百瀬川の北部を流れる生来川(こちらは天井川ではない。)へと流路を付け替えるための工事が行われていました。そして、百瀬川の流水を生来川へと落とすための落差工とその新流路は2005年頃には仮完成していたらしいです。
しかし、どういう理由なのか河川の切り替えがずっと行われていませんでした。約17年が経過し、ようやく新流路へと切り替えが行われたようで、百瀬川隧道の撤去が決定したわけです。
あらためて百瀬川隧道の坑門です。現在はピラスター(壁柱)から外側の部分だけが下見板張りの装飾が施されていますが、開通当時は全面が下見板張りの装飾でした。
高島市役所発行の「広報たかしま」平成25年3月号に、百瀬川隧道の歴史と開通式及び開通時のトンネルの写真が掲載されています。
百瀬川隧道の扁額。現在の扁額は左側から読むように彫られていますが、開通式の写真に写っている扁額を見ると右側から読むように彫られており、後年に取り替えられたものと考えられます。
トンネル内部です。アーチ環よりも内側に巻き立てのコンクリートが見えているので、こちらも後年補強されたのでしょう。
トンネル周辺の様子です。百瀬川が流れていた土手状の流路はすでに撤去されています。
撤去後のイメージを伝える案内板。
トンネル本体が土砂の隙間から見えています。
反対側へと回ってきました。トンネル坑門の右側にかつての流路が残されています。川を渡るたびにいちいちこの高さの土手を上り下りするのは大変ですよね。
反対側の坑門。
反対側の扁額。こちらも左側から読むタイプになっています。
トンネル内部。
百瀬川隧道は文化財に指定されているわけではありませんが、滋賀県内でよく見られる天井川トンネルの一つとして貴重な土木遺産ではありました。建物などと違ってトンネルは移築できませんし、大正末期だと文化財的な価値もまだ低いでしょうから、撤去されてしまうのもやむを得ないのかもしれませんね。
百瀬川隧道の見物を終えて、そのまま百瀬川の堤防道路を上流へと進んできました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
上流側を眺めます。流路にはまったく水が流れていません。
こちらは下流側。新しく建設された流路を眺めています。奥に見えている大きな水溜りの先に生来川への落差工があるはずです。
こちらは旧流路側。旧流路の入口は土砂で塞がれています。
ここでUターンせず、堤防道路をさらに先へと進んでいきます。
山が間近に迫る場所まで上がってくると百瀬川も普通に水が流れています。
百瀬川の谷あいまで進む気は無かったので、途中で左折して平野側へと下りてきました。出てきた場所に門扉があったので「川沿いは立入り不可だったのかな?」と思ったら、単なる獣害防止用に設置されたもので通行OKでした。
今津総合運動公園まで少し足を伸ばし、TGRラリーの際の駐車場所に車を停めて1枚。
まだ11時過ぎだったので、「滋賀県内でどこかもう1か所くらい寄ろうかな。」と考え、長浜市高月町の西野水道へ行ってみることにしました。
高島市今津町から国道161号バイパスに乗り、高島市マキノ町海津からは海津大崎を通り抜けて琵琶湖に沿って進んでいきます。さらに長浜市西浅井町大浦・菅浦と湖岸沿いを通り、奥琵琶パークウェイに入って「つづら尾崎」展望台で小休止。
展望台からの眺めです。
この後は奥琵琶パークウェイから国道8号、湖岸道路と走行し、長浜市高月町西野の西野水道へとやって来ました。
西野水道は弘化2年(1845年)完成した排水路です。この排水路が造られた西野地区は江戸時代後期、当地を流れる余呉川の大洪水にたびたび見舞われていました。そのため、洪水被害を防ぐには地区の西側に立ちはだかる山にトンネルを掘り、余呉川の水を琵琶湖へ一直線に流すしかないとの考えに至りました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
天保11年(1840年)から工事は始められ、難工事と資金不足に苦しめられながらも、220mのトンネルを5年の工期で完成させたわけです。
さてさて、普通ですと江戸時代に造られた水路トンネルなんて、しっかり出入口を封鎖されて、外から眺めるのが関の山かと思っていましたが、なんとここは自己責任で水路トンネル内の見学が可能なのです。
場所が場所なので、ヘルメット・長靴・懐中電灯は必須ですが、それらも無人案内所にレンタル用のものが用意されているほどです。幸いにも私はすべて自前の物を持っていますので(笑)、それらを装備してまずは無人案内所へと赴きました。
無人案内所に掲示されている西野水道内部の案内図。
それでは排水路跡に下りて、西野水道のトンネル内部へと向かっていきます。
江戸時代なので当然手掘り。岩なので鑿でコツコツと掘り進めたようです。必要最小限の流路を掘り上げるだけでもとても大変な作業だったでしょう。
台状になっている部分は、サザエの貝殻を利用した明かりを置いていた場所だそうです。灯明皿の代わりにサザエを利用したのでしょう。
トンネル内部で一番天井高が高い場所。
比較的きれいに掘られている場所でも天井高が低いので、少し頭を動かすとすぐ壁にぶつかります。「これはヘルメット必須だわ。」と実感しました。
測量技術が未発達なので坑内は直線ではなく、上下左右にぶれながら進んでいきます。
断層の横断部分。案内板の左側が周囲の岩質と違う感じがするので、これが断層なのでしょうか?
坑内の中央地点です。
あと110m、狭く真っ暗闇な坑内を進みます。今さらですが、何匹かコウモリがいるので(狭いのでぶつかってくる(笑)。)、苦手な人は無理かもですね。
金属棒のアーチとフードが設置されている所へ来ました。ただでさえ前かがみ姿勢だったのが、この先は中腰に…。狭い・暗いよりも中腰で歩き続けることが辛いです。
無事に琵琶湖側の坑口へと出てきました。写真を撮りながらでしたが、通り抜けるのに約20分かかりました。出てきた時に親子連れの方と鉢合わせ。「何だあの人?」というような目で見られました(笑)。
現在使用されている西野放水路の河口の先に琵琶湖の湖面が見えています。
こちらが初代西野水道から三代目となる西野トンネル。扁額には「余呉川放水路」とありますが、地図には「西野放水路」とあります。
西野トンネルの注意看板。現役水路トンネルの中に入ろうとするもの好きは、さすがにいないとは思いますが。
帰りは、駐車場と琵琶湖を結ぶ通路となっている二代目の西野水道を歩いていきます。
駐車場側の坑口付近に取り付けられている銘板。昭和25年(1950年)3月竣工とあります。ということは、初代の西野水道は105年間利用されたわけですね。
二代目西野水道の駐車場側坑口です。戦後に造られた排水路トンネルがすでに利用されていないということは、このトンネルでは処理能力不足となる大きな災害があったのでしょうか。
西野トンネルの駐車場側です。
取り付けられている銘板によると、竣工は1980年(昭和55年)3月。銘板どおりなら、二代目の利用期間は30年間で終わったわけです。
今回は滋賀県内を2か所回りました。
予定どおりであれば、百瀬川隧道はすでに破壊・撤去されてしまったことでしょう。私が訪れていた時にもチラホラとトンネルを写真に収めている人がいました。長年地域に存在していたものですから、いざ無くなるとなれば名残惜しく思う方もいるでしょう。
西野水道については、江戸時代に掘られたトンネルを歩いたのはさすがに初めてなので、もう驚嘆しかないです。見た限り、コンクリート巻き立てなどの後年の補修も全然見当たらないので、当時そのままと言って差し支えないでしょう。いい体験でした。