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小林あにのブログ一覧

2021年09月18日 イイね!

東海道本線 豊橋~愛知御津間の煉瓦アーチなどを巡る

2021年8月29日日曜日、JR東海道本線 豊橋~愛知御津間の煉瓦アーチや豊川橋梁、豊川河畔に残る旧橋梁の煉瓦橋台を見に行ってきました。

この日は早起きをして、最初に訪れたのは愛知御津駅の東側。この濃密な草むらの中に小さく無名の煉瓦アーチがあるのですが、ご覧のありさまなので、繰り返し草むらへと突入するもあと少しという所で接近できずあきらめました。



次の場所へと向かうため、愛知御津駅の東側を流れる音羽川を渡り、線路沿いを東へと歩いていきます。

朝日に照らされながら貨物列車が追い越していきます。



次にやって来たのは九作橋梁(上り線側)。「鉄道線路各種建造物明細録第一編」によると竣工は明治21年(1888年)5月で、1連6尺の煉瓦アーチ橋です。



九作橋梁もアーチ環に竪積み部分が挿入されています。



大回りをして下り線側へと回ってきました。



以前に来た時もそうでしたが、アーチ内を流れている用水路の水量が多いので、長靴でアーチ内へ入ることは無理。外観を眺めるのみです。



次は豊橋市内の豊川に架かる豊川橋梁へと移動します。

飯田線 船町駅の前に車を停めて、豊川まで歩いてきました。



河川敷に下りて、橋梁を眺めます。左側が東海道本線、中央が飯田線、右側が名鉄名古屋本線の豊川橋梁になります。



飯田線と名鉄名古屋本線の橋梁は、所有がJR東海と名鉄に分かれていますが、運用上は飯田線・名鉄名古屋本線が共用しており、複線として使用しています。

飯田線豊川橋梁の橋脚。豊川橋梁群の中で唯一の石積み・煉瓦積みの橋脚です。



元々は東海道本線の下り線用橋梁として明治41年(1908年)に開通したものですが、東海道本線が昭和49年(1974年)に現在の複線用橋梁へ架け替えられた際に、飯田線・名鉄名古屋本線の下り線用橋梁になりました。

対岸の飯田線下地駅側の川岸です。2つの煉瓦橋台が見えていますが、左側が旧東海道本線上り線用橋台で、右側が旧飯田線(と名鉄名古屋本線)下り線用の橋台です。



飯田線豊川橋梁を名古屋方面へ向かう名鉄2200系が渡っていきます。



飯田線豊川橋梁の橋脚のアップ。橋脚は、煉瓦積みのウェルに乗っているようです。



ウェルは井筒とも呼ばれ、橋脚を設置するための基礎部分と言ったらいいでしょうか。外周を煉瓦で積み上げて、内部はコンクリートが充填されていると思われます。

こちらの写真は、東海道本線 旧浜名第一橋梁の円形ウェルです。



名鉄名古屋本線豊川橋梁。当時の愛知電気鉄道が豊橋駅まで延長された昭和2年(1927年)に架橋されました。こちらはすでに普及が進んでいたコンクリート造りによる橋脚となっています。



飯田線豊川橋梁の橋脚。豊川は東三河第一の大河なので、増水時などに流れに負けないよう煉瓦を石積みでガードする堅牢な造りとなっています。



そろそろ車へと戻ることにします。



飯田線 船町駅へと戻ってきました。船町駅にはかつて豊川水運との結節点として貨物駅が設置されていたそうです。その名残りで、駅前には踏切と貨物駅跡へと分岐していくレールが残されています。





次は、豊川の対岸にある飯田線 下地駅へと移動します。



駅からやや離れた公園の路肩に車を停めて、下地駅へと歩いていきます。



下地駅の真下まで来ました。用があるのは、手前側の小さなガード。



封鎖された小さなガードを覗き込むと、奥に煉瓦アーチが見えます。横須賀橋梁です。「鉄道線路各種建造物明細録第一編」によると、1連6尺の煉瓦アーチで、竣功は明治20年(1887年)12月です。



せっかくなので、下地駅へ行ってみます。





豊橋方面を眺めます。



横須賀橋梁の反対側へと回ってきました。こちらも柵により封鎖されています。



こちら側から中を覗いてみると、3つの煉瓦アーチが接合していることに気が付きました。手前が飯田線(旧豊川鉄道)の煉瓦アーチ、中央が東海道本線開業時の煉瓦アーチ、奥側が複線化時の煉瓦アーチでしょう。



豊川橋梁の下地駅側の橋台へやって来ました。



この階段は昔の下地駅の出入口でしょう。



昭和49年(1974年)に東海道本線の豊川橋梁が架け替えられたことに伴い、飯田線豊川橋梁が旧東海道本線の位置へとずれて、現在の下地駅の出入口と駅舎ができたので、それまでは利用されていたと思われます。

旧飯田線豊川橋梁の橋台。元々は、飯田線の前身である豊川鉄道が明治30年(1897年)に架橋しましたが、前述の東海道本線の豊川橋梁架け替えにより廃止されました。



旧東海道本線上り線用豊川橋梁の橋台。この橋台は豊川橋梁が明治21年(1888年)6月に竣工した当時のものです。



ただ、疑問なのが、橋台の上段と下段で使用されている煉瓦のサイズが違うこと。下段は明治20年~22年に開業した区間で見られる大型の煉瓦ですが、上段は複線化時に使用されたやや小ぶりなタイプ。わざわざ違うサイズを使用する意味は無いと思われ、大型の橋桁への架け替えか堤防のかさ上げに対応するために上段を増築したのかなと勝手に推測しています。

あと、旧東海道本線の橋台を正面から見ると、コンクリートでかさ上げした部分の上端は水平ですが、下段の煉瓦部分の横線の目地は水平よりもやや右側へと傾いています。これは昭和19年(1944年)の東南海地震の影響によるものらしいです。



旧東海道本線下り線用(現飯田線)豊川橋梁の橋台。



いろいろと想像も膨らみ、なかなか満喫できた煉瓦橋台見物でした。





下地駅から車へと戻る前に、もう一度横須賀橋梁を覗き見。中央部の東海道本線開通時の煉瓦アーチは、両端の煉瓦アーチよりも大きな煉瓦を使っているようです。



最後に立ち寄ったのは、飯田線と名鉄名古屋本線が分岐・合流する平井信号場。



JRと私鉄が相互乗り入れをすることはよくあることですが、線路施設そのものを共用しているのは他所にもあるのですかね?何にしても珍しい場所です。

2021年09月11日 イイね!

東海道本線 相見~西岡崎間の煉瓦アーチを巡る

2021年8月22日日曜日、JR東海道本線 相見~西岡崎間の煉瓦アーチを巡ってきました。

今回は、自宅から比較的近い場所にある目標物を巡るので、路地でも容易に入り込め、駐車場所を気にする必要がない自転車で出かけることにしました。

自宅を出発したのは14時20分過ぎ。自宅から安城市歴史博物館付近を通過し、愛知県道48号へ合流。岡崎市内方面へと向かいます。

最初にやって来たのは、東海道本線河原橋梁。住宅地の中にあり、水路も通っている低いガードです。この辺りでは一般的な石積み橋台に鉄桁の橋梁です。



近くを流れる鹿乗川の道路橋が工事中のため、少し離れた橋へと迂回して、工事中の橋まで戻ってきました。



私が岡崎市内の職場へ通勤していた2年間、電車の車窓から眺めていた橋の工事現場ですが、未だに道路橋は工事中のまま。見た限り完成しているように見えますが、どういう理由で供用開始しないのでしょうかね。

東海道本線に沿ってさらに東へと進みます。

荒井川橋梁。ここも石積み橋台で、桁はコンクリート製。



もう少しだけ東へと進むと次の橋梁が現れます。

愛宕橋梁(上り線側)。「鉄道線路各種建造物明細録第一編」には「愛宕川橋梁」とあります。



1連8尺の煉瓦アーチと記載されていますが、ご覧のとおりコンクリートで覆工されてしまい、煉瓦アーチだった名残りはどこにもありません…。



取り付けられていた銘板によると昭和39年(1964年)に施工されたようです。



水路自体が暗渠化されてしまい、アーチ部分も塗り込められてしまっているため、もはや確認のしようもありませんが、暗渠化される以前は中を覗き込めば煉瓦アーチが見えていたのかもしれません。

一応、反対側(下り線側)へも回ってみますが、こちらもコンクリートで覆工されてました。



次は宮前橋梁(下り線側)。「鉄道線路各種建造物明細録第一編」によると1連6尺の煉瓦アーチですが、ぱっと見、ここもコンクリート造りになってしまっています。





しかし、ここは先ほどの愛宕橋梁と違い、中を覗き込んでみると煉瓦アーチが現存しているのが確認できます。



望遠で撮影して確認すると、手前側(下り線側)が複線化線増で追加された部分で、奥側(上り線側)が開業時の煉瓦アーチと判断できます。



反対側(上り線側)へと回ってきました。



ここに設置されている銘板も昭和39年(1964年)の年号が鋳込まれています。しゅん功欄の年数が削り取られているのは、昭和「40」年が正しいところ、誤って「39」で作ったためでしょう。



中を覗くと、こちらはコンクリート造のボックスカルバートになっています。一番奥で左側へと屈折して煉瓦アーチと接続されています。



この付近の煉瓦アーチがコンクリート覆工されているのは、昭和40年(1965年)に架け換えられた東海道本線矢作川橋梁の付帯工事によるものと思われます。現在の矢作川橋梁は、旧線の上流側へ架け換えられており、橋梁前後の築堤も上流側が増築され、線路も橋梁の前後でカーブして敷設されています。

県道48号の渡橋で矢作川を渡り、次の煉瓦アーチへとやって来ました。

池田橋梁(下り線側)です。「鉄道線路各種建造物明細録第一編」によると1連3尺の煉瓦アーチとあります。築堤は草ぼうぼうで、一見しただけではどこにあるかわかりません。



築堤へ近づいていくと草に埋もれた煉瓦アーチが見えてきます。初めてここへ来た時は、草の生え方がもっとひどく、本当に全然わかりませんでした。



ここは暗渠のようですが、ご覧のとおり入口に土が盛られて金網で塞がれており、すでに暗渠としての機能はしていません。



ここは矢作川橋梁の架け換え工事の影響はなかったようで、往時の煉瓦アーチのままになっています。



上り線側は旧岡多線建設の際の立体交差線の建設に伴い、コンクリート造で延長されているはずです(会社私有地に接しているため、確認できず。)。

JR岡崎駅を通過し、この先からは進路が南へと変わります。

次の煉瓦アーチへとやって来ました。山田下橋梁(下り線側)です。



ここのアーチ環は白ペンキで塗られています。以前は煉瓦の地肌のままでしたが、落書きがひどかったため、知らぬ間に白ペンキで塗られてしまいました。



ここは人道兼水路暗渠となっています。内高が低いので、身長174cmの私は少し屈まないと歩けません。



開業時の煉瓦アーチと線増時の煉瓦アーチの接合部分です。左側(上り線側)が開業時で、右側(下り線側)が線増時のものです。



右側は煉瓦と煉瓦の目地に塗られているモルタル(かセメント)が盛大にはみ出していて、とても丁寧な施工とは言えません。

上り線側に出てきました。





撮影している間にも、犬の散歩をする人や自転車で通行する人が通り抜けていて、現在も生活道路として機能しているようです。



上り線側のアーチ環には、「山田下(拱)」の名称と、点検年月がペイントされています。



山田下橋梁には2つ特徴があり、一つ目は煉瓦の小口面にアルファベットの刻印が押されているものがあること。



「B」「D」「I」の3種類が確認できます。「D」は蒲郡市内の硯川橋梁や宮川橋梁で、「D」「I」は浜松市内の旧半場川橋梁でも見られます。



2つ目の特徴は、アーチ環に補強のためと思われる煉瓦の竪積みが挿入されていること。これは東海道本線 愛知御津~三河三谷間の一部の煉瓦アーチにも見られました。







山田下橋梁は小さな煉瓦アーチですが、見どころのある場所と言えますね。



山田下橋梁のすぐ脇にある水路に落ちていた煉瓦の塊。アーチ環やアーチ内で特に欠落した場所は無いので、関連があるものかわかりませんが、もしかしたらアーチ同士の接合時に剥ぎ取った一部かもしれません。



今回の予定はこれにて終了。あとは県道78号へ出て、安城市まで一直線に帰るだけですが、帰りの道中で2か所寄り道しました。

土呂八幡宮。狛犬もマスクをつけてます(笑)。



国の重要文化財に指定されている本殿。



福岡町道路元標。





この後、西の空が段々と黒くなり始め、すぐにでも夕立が降りそうな空模様となったので、のんびり帰るつもりだったのが、自宅までの約8kmをハイアベレージで漕ぎ続ける羽目になりました(笑)。

さて、今回の走行距離を地形図で測定してみたら23.1kmとなりました。これだけ走ったのはいつ以来かなぁ。休み休みなので(最後の8kmはけっこう必死でしたが(笑)。)、思うほど疲労感はありませんでした。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こういうことをするなら、クロスバイクくらい買ってもいいかとも思いますが、めったにはしませんから、当面はママチャリで十分ですかね。
2021年08月22日 イイね!

東海道本線 愛知御津~三河三谷間の煉瓦アーチを巡る(2)

2021年8月8日日曜日、東海道本線の愛知御津~三河三谷間に存在する煉瓦アーチを巡ってきました。(1)からのつづきとなります。

さて、神田川橋梁をあとにして、次の煉瓦アーチへと向かいます。次に向かう煉瓦アーチは、三河大塚駅の東側にあります。



こちらは、東海道新幹線と東海道本線が交差する地点からほど近くにある、新幹線用の変電・き電施設。要は新幹線へ電力を供給する施設の一つです。



新幹線の上に架かる人道用跨線橋を渡っていきます。



三河大塚駅を通り過ぎ、次の煉瓦アーチがある川へとやって来ました。上流側から下流側を眺めています。正面奥の木々の下に目標物があります。



谷川橋梁です。明治21年(1888年)6月の竣工になります。写真では明るく見えますが、実際は覆いかぶさって生い茂る木々のために薄暗いです。



ご覧のとおり両岸の護岸が高いため、近づくのに一苦労です。特に護岸の上に登り直す時は腕力頼みになるので、自信の無い方は護岸の上から眺めるだけがいいでしょう(わざわざ訪れる人はいないと思いますが(笑)。)。



内部は煉瓦のアーチと石積みの側壁で構成されています。流路部分は煉瓦積みのインバートですが、ほとんどの部分はコンクリートで覆工されてしまっています。



複線化工事による継ぎ目部分です。手前側が延長部分で奥側が開通時の部分になります。この煉瓦アーチも、開通時部分と延長部分では異なるサイズの煉瓦を使用していることがわかります。



開通時部分の煉瓦アーチの様子。



下流側へと出てきました。煉瓦アーチに密着して道路用の橋が設置されているため、下流側からも容易に煉瓦アーチを見ることはできません。





それでは護岸をよじ登り、次の煉瓦アーチへと向かいます。



次にあるのは広畑橋梁と呼ばれる煉瓦アーチですが、ここも近づくのが容易ではないので一旦パスし、もう一つ先にある半合橋梁を目指します。

快晴の日射しの下、飲み物をがぶ飲みしながら歩いていきます。ちなみにこの写真に写っている道路、単なる狭い路地にしか見えませんが、実は県道です。



証拠となるのが「愛知県」のラベルが貼付されたデリネーター(視線誘導標)。路線名は愛知県道372号大塚国府線になります。



県道から離れ、東海道本線の半合踏切を渡り、上り線側へと移動します。



渡ったところで休憩していたら、岐阜行きの普通電車が通過していきました。



この路地を進み、右側へと大回りしてふたたび東海道本線へとUターンしてきた場所に半合橋梁はあります。



到着しました。ここも木々が覆いかぶさっているので、直接煉瓦アーチを眺めることができません。



川へと下りてようやく姿を拝めました。半合橋梁です。ここも竣工は明治21年(1888年)6月です。上流側(上り線側)になります。



煉瓦アーチの開通時部分と延長部分の継ぎ目部分は、上り線寄りにあります。今までの神田川橋梁も谷川橋梁も上り線寄りにあるので、この辺りは既存線の山側(太平洋から見て。)に線増したことがわかります。



噛み合わせパターンは、だいたいが古い煉瓦4個に対して新しい煉瓦5個の噛み合わせですが、半合橋梁はそのパターンになっておらず、個数がバラバラの噛み合わせです。



ここの煉瓦アーチも、長手積みの中に小口面が並ぶ列が存在しています。



下流側へ出てきました。こちら側が開通時からあるスパンドレルになります。



先ほど、煉瓦アーチに小口面の列があると述べましたが、ここの煉瓦アーチにも煉瓦を竪積みしている箇所があるわけです。



上流側を眺めます。やはりここの煉瓦アーチに使われている煉瓦も、基本は赤煉瓦ですが、色合いにしっかりとした統一性はなくまちまちですね。



側壁の石積みにくっついていたピンク色のつぶつぶのもの。調べてみたら、ジャンボタニシの卵らしいです。あちらこちらにたくさんくっついていました。



噛み合わせ部分のアップ。開通時部分の煉瓦は、焼成時の焼け方が均一でないのでしょうね。1個の煉瓦でも色合いがまだら模様になっています。延長部分に使用されている煉瓦の方がまだ均一な品質になっている感じがします。



次に来たのは広畑橋梁ですが、ここも橋梁前後の護岸の高さが私の身長以上あり、なかなか接近できません。

下流側の護岸にはしごが付いているのを見つけて、そこから川の中を歩いてきましたが、あともう少しという所で淵に当たってしまい、長靴では越えられず引き返します。



結局、線路沿いに建つアパートと築堤の隙間を歩いて、橋梁の直前で川へと飛び下りました。どうやって登り直すかはまた後で考えます。



ようやく広畑橋梁です。ここも明治21年6月の竣工です。こちらは下流側(下り線側)になります。周辺の他の煉瓦アーチと同じくこちら側が開通時のスパンドレルになります。



広畑橋梁は、煉瓦アーチに竪積み箇所はありません。



この橋梁は、周辺の煉瓦アーチ群の中で、一番きれいに流路部分の煉瓦積みインバートが残っています。





開通時部分と延長部分の継ぎ目部分です。ここも噛み合わせに規則性が有るような無いような…。「しっかり噛み合わせてあればいいだろう。」ということなんでしょうね。







上流側(上り線側)へ出てきました。こちら側もうっそうとしています。



橋梁の上流側の流路には石畳も少し残っていて、全体的に昔の状態が残されていると言えるでしょう。



そのまま上流側の岸へと這い上がりました。川岸に密生していた矢竹を何本か束にして掴んで、力業でよじ登りました(笑)。



これで一度車へと戻ることにします。ただ、まだ1.7kmほど歩かないといけません…。

三河大塚駅を通過する貨物列車。貨物列車の今の主力はEF210形電気機関車ですが、EF66形100番台電気機関車がけん引しています。



熱気でむせ返る線路沿いの路地を歩いていきます。車まではあともう少しです。



神田川橋梁近くの路地に停めておいた車にようやく戻ってきました。今回予定していたうちの最後の煉瓦アーチへと移動します。



東海道本線愛知御津駅から西側へ1kmほどの場所へとやって来ました。



雑草に覆われてわかりにくいですが、大森橋梁です。竣工は明治21年(1888年)5月。下り線側からの眺めです。



足元が確認できない雑草の中を直接下りるわけにもいかないので、線路とは反対側にある田んぼのあぜ道から水路へと入り、道路の橋の下をくぐって正面へ来ました。今までのものと違い、小さな煉瓦アーチなのでアーチ環も3重です。



通常、築堤と水路の高低差がこの程度だと、桁橋の場合が多いですが、ここは開通当時から煉瓦アーチが設置されていたようです。

内部もオーソドックスなもので、煉瓦アーチに石積みの側壁です。ただ、側壁部分は一部がコンクリートで覆工されています。



上り線側も雑草で覆われています。





ここの煉瓦アーチには、複線化工事に伴う継ぎ目部分が見い出せません。最初から複線用の幅で造られていたのかどうかは不明です。



アーチ内を往復して、下り線側から外へと出ます。雑草の中に茨が混じっていたのには参りました…。



今回は、愛知御津~三河三谷間にある6か所の煉瓦アーチを回りました。この区間は2016年2月に一度チェックして回っているので、訪れたのは5年半ぶりになります。特に大きな変化は見られなかったので、今後も当面は煉瓦アーチのまま維持されていくと思われます。

また訪れる機会はあるのか。もう訪れないのか。気分次第なので、何とも言えませんね。あとは愛知御津駅から東方に2か所残っているので、そちらは折を見て再チェックする予定です。

2021年08月15日 イイね!

東海道本線 愛知御津~三河三谷間の煉瓦アーチを巡る(1)

2021年8月8日日曜日、東海道本線の愛知御津~三河三谷間に存在する煉瓦アーチを巡ってきました。

最初にやって来たのは、三河三谷駅近くにある硯川橋梁。三谷駅南公共駐車場から道路を挟んで南側にあります。ここは駅前であり、周囲も住宅地に囲まれているので、まだ人通りの少ない朝6時半前に訪れました。



夏真っ盛りなので、大量の雑草に覆われていますね。





さっそく水路へと下ります。



アーチ環にある煉瓦の中には、〇の囲みの中にアルファベットの刻印が押されたものがあります。他の場所では東海道本線旧石部隧道や梶田避溢橋で見ることができます。



内部へと入っていきます。側壁は石積みで、水路部分は煉瓦によるインバート(逆アーチ)となっています。



煉瓦アーチ部分の奥には、ボックスカルバートと放物線型のコンクリート造アーチが連結されています。その先は暗闇なので暗渠が続いていると思われますが、暗渠を探索することが目的ではないので、ここで引き返します。



水路の吐口へと戻ってきました。



さて、ここ硯川橋梁の煉瓦アーチは、東海道本線の真下ではなく、なぜか駅前を通る道路の真下にあります。単純に理由として考えられるのは、東海道本線はかつては現行線の場所ではなく、硯川橋梁の真上を通っていたということ。

では、線路の位置がなぜずらされたのか。三河三谷駅は、開通当初から存在する駅ではなく、地元からの請願により昭和4年(1929年)に設置された駅です。この駅を建設する際に用地を確保するため線路を現行線の位置へとずらしたのではないかということです。

硯川橋梁の1枚目の写真を見てもらうと、橋梁が台地の端部に設置されていることがわかります。線路がこの位置のままでは、駅構内用の広い土地を確保するのはままなりません。

そのために線路を現行線の位置へとずらし、その際に川には新たに放物線アーチ型の橋梁を架けたという見解です。放物線型アーチ橋梁は昭和戦前期のものをしばしば見かけます。ボックスカルバートについては真上が公共駐車場なので、駅前周辺を整備する際に設置されたものと考えられます。

以上、裏付けのない憶測ですが、まんざらハズレでもないと思っています。硯川橋梁の真上に立って駅から東方向にある星越山隧道方面を眺めると、ちゃんと鉄道用地の端が一直線に見えています。

こちらは地形図に書き込みをしたものです。かつては東側から一直線に硯川橋梁へと線路はやって来て、その先でややカーブする線形だったのでしょう。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

※9月16日木曜日に安城市図書情報館に所蔵されていない地誌を見るため、岡崎市立中央図書館へ行ってきましたが、その際に「正式二万分一地形図集成」という明治時代に作成された地形図の復刻版をまとめた巨大な冊子を見つけました。

その中に明治23年(1890年)測量・明治26年(1893年)発行の「蒲郡」があり、現在の三河三谷駅の位置を確認したら、東海道本線はその位置でちゃんと「くの字」に曲がっていました。これで確定です。

ちなみにこの冊子がいくらするのか発行元のホームページで調べたら、定価10万円でした(笑)。1万円くらいなら買ってもいいかなと思いますが、さすがにこの金額では手が出せません。

それでは2か所目の煉瓦アーチです。宮川橋梁といいます。



ガードレールがある場所を覗き込むと煉瓦アーチが見えます。これは上り線側の写真ですが、ここから川へは下りられないので、下り線側へと回ります。



下り線側へと回る前に、次の煉瓦アーチへと向かうための道が車の通行できる幅か確認するため、ちょっと寄り道します。

通行するのに問題ない事がわかったので、もう1か所寄り道して、新幹線を越える跨線橋へと来ました。右側が東海道新幹線。左側遠方に東海道本線が見えています。正面の山を新幹線は星越トンネル、東海道本線は星越山トンネルで越えています。



ちょっと眺めている間に何本もの新幹線が通過していきます。



ようやく宮川橋梁の下り線側へとやって来ました。こちらが下流側になりますので、吐口ということになります。





上部に笠石が並び、スパンドレルは石積みとなっています。



水路の真ん中には人道用と思われる通路が設けられています。その下部は煉瓦敷きによるインバートとなっています。



内部は側壁が石積みです。内部の煉瓦アーチを見ている限りでは、複線化に伴う増築の跡は見られないので、最初から築堤が現存するサイズで建設されたのか、もしくは何らかの事情で煉瓦を巻き直しているのだと思われます。



通路ですが、途中で水没してしまいます。流路に土砂が溜まっているためです。



アーチを一周する亀裂がありました。点検はされているようですが、補修の跡は特にありません。現時点では問題視されていないのでしょう。



上流側の吞口が見えてきました。すぐ先は、道路をくぐるボックスカルバートの暗渠になっています。



スペースが無いので、道路下の暗渠に入り込んで上流側の吞口を撮りました。



下流側へと戻ってきました。



ちなみに、ここもアーチ環にアルファベットの刻印入りの煉瓦があります。この辺りの煉瓦アーチで使用された煉瓦の供給元が同じ会社であることが推察できます。



ここでまた寄り道をすることにします。星越山トンネルまで、大築堤に沿いながら歩いていきます。見落とした構造物がないかのチェックも兼ねています。



線路沿いを通ってきた道路が線路と分かれていく場所へと来ました。線路越しに三河湾が見えています。



豊橋方面へと向かう電車が通過していきます。



これ以上は星越山トンネルへと近づくことはできないので、望遠で撮ってみます。

こちらは下り線用トンネルにある銘板。



こちらは上り線用トンネルの坑門の一部。



余談。ここ星越山トンネルは、開通から現在の供用状況に至るまで、少々複雑な経緯があります。

このトンネルは単線並列型に設置されていますが、まず現行下り線用が明治21年(1888年)6月竣工。つづいて複線化に際して現行上り線用が明治41年(1908年)に開通しています。

その後、現行下り線用トンネルの老朽化と電化工事の進展により、戦前の弾丸列車計画で用地買収済みの場所を活用して、現在の東海道新幹線星越トンネルの位置に上り線用のトンネルを新たに掘削して、昭和27年(1952年)に切り替え。現行上り線用トンネルを電化用に改修工事をしたのち、下り線用トンネルへと切り替えて供用開始します。この時点で、現行下り線用トンネルは一旦放棄となりました。

さらにその後、今度は東海道新幹線の建設計画が持ち上がり、新上り線用として供用していたトンネルを新幹線へと明け渡すことになり、急きょ、放棄していた現行下り線用トンネルを電化用トンネルへと改修工事。昭和37年(1962年)にようやく現在の形へと落ち着きました。

下り線用トンネルの三河大塚駅側手前付近の築堤の斜面には、改修工事の際に破壊され取り除かれたものと思われる煉瓦の塊が敷き詰められている場所があります(今回は草茫々で近寄れませんでしたが。)。

それでは、3か所目の煉瓦アーチへと向かいます。やって来たのは、神田川橋梁。川沿いの草むらの海をかき分けて近づきます。



川の護岸の上からの撮影。こちらは上り線側になります。頂上部に笠石、スパンドレルは石積み、アーチ環は4重です。



内部へと入っていきます。側壁部は石積みです。



ここはアーチ部分に複線化増築の痕跡が明瞭に残っています。写真左側が増築された煉瓦アーチ、右側が開通時からの煉瓦アーチです。開通時の煉瓦4段に対して、増築時の煉瓦5段で噛み合わせてあります。



アーチ部分は、基本的には煉瓦の長手部分が表面に見えていますが、よく見てみると、煉瓦の小口面が並んでいる列があります。これについては、反対側からアーチ環を見ると理由がわかります。





この橋梁も、流路部分は煉瓦積みのインバートになっています。



下り線側へと出てきました。目の前には住宅があるので、家人が現れないか少々気になりますね(笑)。





先ほどのアーチ部分に小口面の列ができている理由ですが、アーチ環に煉瓦を竪積みしている箇所があるためです。竪積みを挟むのは、アーチをしっかり支えるためだと考えられています。



下り線側から上り線側を見ています。アーチ部分の煉瓦は基本赤レンガで構成されていますが、焦げ茶色の煉瓦も多く混ざっています。中には半分だけ焦げ茶色になった煉瓦も使われています。



上り線側へと戻ってきました。



右側の石積みをよじ登って、川から上がります。



ちょうど、豊橋方面の電車が通過していきました。



また草むらの海へと分け入り、次の煉瓦アーチへと向かいます。



※その2へつづく。
2021年08月09日 イイね!

東海道本線 小田原川橋梁・穿屋川橋梁・梨子谷橋梁

2021年7月31日土曜日、JR東海道本線 関ヶ原駅の東方にある3つの煉瓦アーチを見に行ってきました。東京駅方からの順番だと梨子谷橋梁・小田原川橋梁・穿屋川(うやがわ)橋梁の順ですが、表題は見て回った順番になっています。

やって来たのは、岐阜県不破郡関ケ原町野上にある旧中山道を散策する人向けの公共駐車場。ここに車を停めて、歩いて向かいます。



駐車場近くを流れる川を辿り、まず訪れたのは小田原川橋梁。竣工は明治17年(1884年)5月とあります。東京~大阪間の鉄道建設を、東海道ルートではなく中山道ルートで推進しようとしていた時期に竣工したものです。



川へ飛び降り、中へと向かいます。





この暗渠、内部が「ねじりまんぽ」になっています。線路に対して斜めに川が流れているからです。



真ん中あたりに複線化工事の際に煉瓦アーチを増築した名残りが見て取れます。



よく見ると煉瓦の継ぎ目に段差があり、ここで噛み合わせたのだとわかります。





継ぎ目よりも奥側の煉瓦アーチの方がモルタルの浸み出しが少なくきれいです。



反対側へと出てきました。すぐ目の前を道路が通っています。



こちら側のスパンドレルは、コンクリートで覆工されています。



アーチ環は4重積みですが、一番外側はコンクリートで塗られてしまい、露出しているのは3重分です。





内部を振り返っての眺め。



道路に上がりました。今度は関ヶ原駅方面へと進み、穿屋川橋梁を目指します。



穿屋川橋梁に着きました。竣工は小田原川橋梁と同じく明治17年(1884年)5月です。繁茂した植物で完全に目隠しされていますね。



川床に降り、のれんのように掛かった薮をかき分けて近づきます。中からうっすらと靄が流れ出ています。



写真を撮るのに靄がかかっているのは困りものですが、さらに中へと踏み込んでいきます。



中へ入ると靄は晴れてきました。猛暑の屋外と水が流れている暗渠の中では気温差も激しいでしょうから、開口部付近は靄が立ちやすいのでしょうね。



さて、ここ穿屋川橋梁の核心部分が見えてきました。



どういう理由でこうなったのか不明ですが、穿屋川橋梁は中央部分だけが「ねじりまんぽ」という、非常に珍しい煉瓦暗渠です。





入ってきた方角を振り返ってみるとこんな感じ。中央部分の内高の高い煉瓦アーチに一回り小さい煉瓦アーチを突っ込んだような形状をしています。





穿屋川橋梁にも複線化工事に伴う増築の際の継ぎ目が見て取れます。手前側の長さが短いので増築部分、奥側が開通当時からあった部分でしょう。



あとは煉瓦積みのねじれ度合いがなかなか強烈なことです。線路に対して川の流路の斜め度合いが先ほどの小田原川橋梁よりもきついためです。









なぜこんな積み方になるのか。現物や図面を見ながら説明してもらうと理解できるのですが、言葉だけで説明を受けて理解するのは難しいですね。

反対側も、一回り小さくて通常の積み方をした煉瓦アーチがつながっています。



この先は水深がやや深くて長靴では進めないので、反対側へと出るのはあきらめました。



振り返っての内部の様子です。



これだけ癖のある煉瓦暗渠だと飽きがこないですが、いつまでもいるわけにはいかないので、いい加減外へ出ることにします(笑)。





さらに関ヶ原駅方面へと歩いてみましたが、ボックスカルバートの架道橋があっただけだったので、引き返しました。



次は、梨子谷橋梁へと向かいます。



穿屋川橋梁、小田原川橋梁と通り過ぎ、梨子谷橋梁へとやって来ました。こちらも竣工は明治17年(1884年)5月です。鉄道線路各種建造物明細録第一編には「梨子谷川」と記載されています。





ここは小さいですし、流れもあまりきれいではないので、ちょっと覗いただけで終了。



この後の行動は、結果的には余談の範疇になります。

あと1か所だけ、垂井駅寄りの煉瓦アーチを探しに、もうしばらく歩き進めることにします。









この先の左手側に小川が流れているのを見つけ、「小さな煉瓦アーチがあるかも。」と進んでいきましたが、軽トラックを停めて作業をしている方があり、いちいち話しかけられるのも面倒だと引き返しました。



もうしばらく付近を探索。この茶畑の細い道は地形図にちゃんと載っている道です。



踏切が見えたので渡ることにします。



伊吹道踏切。



踏切脇に20パーミルの勾配標が立っていました。この急勾配を回避するために、大垣~関ケ原間で登りとなる下り線側には貨物列車などが迂回する別線が存在します。



旧中山道まで戻ってきました。これは、交差点に立つ伊富岐神社の鳥居。神社はこの先700~800mの場所にあります。



この時点で時刻は15時10分。「もういい時間だし、飲み物も無いし(自販機も見当たらないし…。)帰るか。」と、ここで探索は打ち切り。このまま旧中山道を歩いて駐車場まで戻りました。

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何シテル?   10/21 19:30
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