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小林あにのブログ一覧

2022年07月17日 イイね!

旧伊勢本街道「飼坂峠」南方の廃道を探索する(2)

三重県津市美杉町奥津と上多気の間にある峠、旧伊勢本街道「飼坂峠」。その南方の山中にある廃道を2022年5月28日土曜日に探索してきました。

その(1)からの続きとなります。前回最後の地点はこちら。



※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

折り返しから進んでいきます。この付近は表土が薄いのか、杉の根っこが地面にもぐれずに地表を這っています。


崩落地の上部を廃道が通過する箇所へと来ました。


その(1)でこの崩落地を横断した時に見上げた様子がこちら。


廃道まで崩落の影響は無くて無事に通過。通り抜けた場所を振り返ります。


また廃道の路盤が崩落しています。踏み跡を頼りに通過していきます。


石積みの擁壁が残っています。


道幅がしっかり残っている部分も、斜面上部からの土砂が積もり、路盤は全体的に谷側へと傾斜しています。


また石積み擁壁が現れました。わずかに残っています。


ここから私レベルでは難所となる路盤の崩落箇所が連続して現れます。このような場所が現れるたびに横断ルートを考え込むため、ただ歩いて進むよりもおのずと時間が掛かることになります。




さらに状況のひどい崩落地。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

固い地盤に小石交じりの崩土が乗り、足元は切り立った急傾斜地。頼りとなる樹木などが無い場合、距離が短くても横断するのに非常に神経を使います。




一難去ってまた一難。次々に現れる崩落地を横断していきます。


ようやく廃道の路盤が復活しました。


と安心するとまたも崩落地。崩落地の上部に付いている靴の横幅ほどの踏み跡を慎重に進みます。


枯れ沢を横断。


岩の露出が目立つようになり、廃道が残っていても道幅が狭まってきています。


枯れ沢に残っていた石造暗渠。


長めの石積み擁壁が路肩に残っています。


蔓にぐるぐる巻きにされてしまった木。


山の突端部を巻いていきます。


沢に出てきましたが、立っている場所から沢を渡っていたと思われる場所までの路盤が跡形もなく消失しています。写真中央部にある石群が、橋台か擁壁の残骸だと考えられます。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

廃道が通過していた場所での横断はあきらめ、少し引き返して手がかりのある斜面を沢底まで下り、対岸の斜面を登り直して沢の先へと迂回しました。


この崩落地の横断も泣けてきました。石積み擁壁の一部が残っているので、元々の道幅が推測できます。




うっかり足を滑らせたら、何十mも下の谷へ向かって恐怖の滑り台を滑り落ちることになります。


崩落地を振り返って撮った写真。こちら側からの方がこの場所の危うさがわかりやすいかと思います。


ふたたび路盤が復活です。


道の折り返し。ヘアピンカーブの部分が埋もれてしまい、上下の道のつながりがわかりにくくなっています。


植林地から自然林へと樹相が変わります。




崩落地の最上部の一つを横断していきます。まだ幅に余裕があるのでいいですが、全体的に谷側へと傾斜しているので、やはり横断には気を遣います。


どんなに山の上であっても、水が湧く場所があるとぬた場ができますね。


細い道跡が奥へと続いてきます。


細い道跡すら消えかかってきたところで、ようやく峠に到着しました。事前情報どおり深い切り通しになっています。






場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

その(3)へ続きます。
Posted at 2022/07/17 21:51:47 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2022年07月10日 イイね!

旧伊勢本街道「飼坂峠」南方の廃道を探索する(1)

三重県津市美杉町奥津と上多気の間にある峠、旧伊勢本街道「飼坂峠」。その南方の山中にある廃道を2022年5月28日土曜日に探索してきました。

初めに前書きを少々。

そもそもこの廃道を知ったきっかけは、2022年5月22日にJR名松線「伊勢奥津駅」と旧伊勢本街道奥津宿、上多気の北畠氏館跡庭園を訪れたことです。奥津と上多気の間には、前述のとおり旧伊勢本街道の飼坂峠があり、現在、この地を通過する国道368・369号は「飼坂トンネル」で峠を越えています。

トンネルの銘板によると竣工は1989年(平成元年)8月。ただし、トンネルを含む峠越え区間のバイパスが開通したのは1994年(平成6年)のことだそうです。それまでは、飼坂峠を越える自動車道は存在しておらず通行不能区間となっていました。

要するに飼坂トンネルには自動車が通行できる「旧道」は存在しないわけです。だとしても、「伊勢本街道というこの地域のメインルートの峠越えで、明治時代から現代に至るまで何の手立てもしていないものかな?明治時代に『荷車道』を峠へ通そうと試みたりしていないのかな?」と少々気になり、帰宅してからネットで検索してみたわけです。

飼坂峠の「車道改修」に関する直接的な記事はヒットしませんでしたが、今回の廃道を探索したという記事が2件ヒットしました。

記述が詳細なのは「日本の廃道」。有料でダウンロードできる廃道系の電子書籍といったところでしょうか。たまにお世話になっています(笑)。「日本の廃道 第66号」内に今回探索した廃道を踏査した記事が掲載されています。

筆者は、「地元の『一志郡郷土教育資料』に明治35~36年頃に伊勢本街道の飼坂峠から櫃坂峠までが改修されたとあるが、旧美杉村誌には飼坂峠の車道改修の記録が載っていないし、本廃道についての記載もない。よって本廃道が『資料』記載の改修道に当たるのか断定はできないが、峠越えをする『車道らしい』道という点で可能性はあるかもしれない。」という結論のようです(私の要約ですが。)。

もう一件も本廃道を踏査した内容ですが、こちらは写真を交えた簡単な訪問記録といった感じ。おそらく「日本の廃道」内の記事を基に歩いたと思われ、訪問時期は「日本の廃道」よりも新しいです。

まあ本廃道の建設背景などがはっきりしないのは残念ですが、歩きがいがあるのは間違いなさそうなので、さっそく探索してみることにしたわけです。


さて、5月28日当日。津市美杉村奥津の林道へとやって来ました。ここから林道を歩き、廃道へと取り付くことにします。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

私の車でも問題なく走行できるような整備された林道ですが、この先路面状況が酷くなるとも限らず、早めに下の方から徒歩で進むことにしました。


林道沿いにあるダム。名称は不明。


廃道にまつわる最初のポイント、不動滝に到着です。




場所はこちら。


不動滝へと向かうように廃道が残っています。


路肩を支える立派な石積み擁壁。


あらためて不動滝です。「日本の廃道」の記事では、この不動滝についてある見解を示しています。


滝の直前に一部だけ残る廃道。


その廃道の先端から滝口を眺めます。同記事の見解では、廃道はもともと不動滝がある場所を通っていたというものです。


うまく描けませんが、イメージはこんな感じです。


現在の不動滝の部分には元々段差は無くて廃道が通っていた。不動滝の左側にはV字にえぐれた溝があるが、これが本来の不動滝であった。というものです。

滝の上にも行ってみましたが(写真撮り忘れ…。)、岩を削ってできる限り平らに整形されており、なるほどと納得できる説でした。

こちらは不動滝の真横を通過する現在の林道です。山側の岩盤を高い所まで削り込んであり、昔の技術では道を通すのは困難そうです。説をより補強する状況証拠と言えます。


しばらく歩いていくと、対岸に道のような平場が現れました。廃道は川の左側の山へと登っていくルートなので、この道のようなものが関連あるかはわかりませんが、早めに対岸へと移動することにします。




程なく道のような平場は消えてしまいましたが、そのまま川岸や川の中を歩いて進みます。




そんなに急流には感じませんが、次々と床固工が現れます。






4つ目の床固工を通過したところで山の斜面に折り返していく道跡が現れました。これが今回の目的である廃道でしょう。


廃道が川沿いに降りてくる場所を確かめるため、そのまま川岸を進みます。

廃道が山へと取り付く折り返し地点を見つけました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

先ほど下から見上げた折り返しを通り過ぎ、さらに奥へと進んでいきます。


斜面が荒れてきて、廃道が判然としなくなってきました。ひとまず木々をかき分けて直進していきます。




廃道が復活しました。


次は倒木群です。廃道は直線に進んでいるようなので、倒木を跨ぎながら奥へと進んでいきます。


やや深い沢です。大雨などで抉れてしまったのでしょう。鋭く抉れているわけではないので、問題なく対岸へと進めます。


左側の岸壁は人為的に削られたものですね。


浅い枯れ沢です。沢の先に続く廃道の路肩には石積みの擁壁があります。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

何気に沢を見上げると石組みの構造物が見えます。


石造暗渠です。廃道での石造物は気分を盛り上げてくれますが、石造暗渠は石仏と同じくらい盛り上がりますね(笑)。




穴があれば中を覗くもの。真っ暗なので、奥は土砂が詰まっているのかもしれません。


浅い沢の対岸にある石積み擁壁。


直線を進んでいくと突き当りになってしまいました。左側の炭焼き窯跡へ登ると折り返していく廃道がありますが、カーブ一つで高低差があり過ぎます。本来は真っ直ぐ道筋が続いていたのでは?


炭焼き窯跡から上流側を眺めると、こちらに向かってくる道跡が残っています。下段の道は川に削られてしまったのかもしれません。






杉林の中を廃道が縫っていきます。


また道跡が斜面に飲み込まれてしまいました。今まで歩いてきた高さと変わらないように気を付けて進んでいきます。


深い沢が現れました。ここも大雨で抉れたような形をしていますが、まだこの程度の深みなら渡れます。ここにもかつては築堤と石造暗渠があったのでしょう。石積み擁壁の一部が残っています。


長い年月を管理されることもなく風雨にさらされているので、斜面では廃道が残っていても狭い幅しかありません。


まだ越えていけます。


ついに躊躇するような崩落地に遭遇してしまいました…。


正直、1か月半前のことなので、ここをどのルートで渡ったのか思い出せません。でも思い出せないということは、案外すんなりと進めたのでしょう(笑)。


それでもこの幅の崩落地を渡るのに3分はかかっているようです。




この後、廃道の峠にたどり着くまでに、私レベルでは進退窮まるような崩落地が何か所も現れてきます…。

さらに上部を通過していく廃道を見上げています。


道幅が広くなってきました。


路肩は石垣で固められています。


ヘアピンカーブが現れました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

木々に遮られ、あまり眺めはよくありません。


ヘアピンカーブの部分も石積み擁壁が施されています。


崩落地を渡った時に見上げた場所へと進んでいきます。


その(2)へ続きます。
Posted at 2022/07/10 21:53:34 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2022年07月03日 イイね!

国道418号清水トンネルの旧道・旧旧道を歩く

2022年5月15日日曜日、長野県飯田市南信濃南和田と下伊那郡天龍村平岡の境にある国道418号清水トンネルの旧道と旧旧道を歩いてきました。

当日は、新東名豊田東ICから高速道路に乗り、東海環状道、中央道、三遠南信道、長野県道、三遠南信道矢筈トンネルと進み、まずは飯田市上村の国道152号へとやって来ました。

そこからちょっと寄り道をして国道152号地蔵峠方面へと進み、大島河原河川公園まで入り込みました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

寄り道した目的は、地蔵峠へと向かう国道152号の自動車通行不能区間の開始地点を見るためです。

車の駐車場所から上流へと進みます。2020年7月の豪雨でこの付近は被害を受けたそうで、川沿いの法面や橋は新たに修復・設置されたようです。河川工事自体は現在も続けられています。


自動車通行不能区間の開始地点へと来ました。正確にはまだ先へと進めますが、許可車両以外は通行止めとなるので、ここが開始地点と言えるでしょう。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

今回はこの先へと進むことが目的ではないので、このまま引き返すことにします。またいつか日を改めて訪れましょう。

国道152号としらびそ高原及び大鹿村方面へと向かう林道との分岐点まで戻ってきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ちなみに、地理院地図の表記は間違っていて、現在、しらびそ高原などへと向かう林道はループ橋で分岐しています。国土地理院撮影の航空写真にはきちんとループ橋が写っています。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こちらは三遠南信道「矢筈トンネル」。延長は4,176m。飯田の街と遠山谷を結ぶ交通路としては、小川路峠越え、赤石林道に続く三代目のルートになります。


この後は国道152号で遠山谷を南下。飯田市南信濃和田で国道418号に入り、今回の目的地である清水トンネル前の旧道分岐点へと到着です。


周辺の地図はこちら。ちなみに現行の地形図では、旧道も国道表記の赤線で示されたままになっています。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

さっそく旧道へと進んでいきます。初めのうちはほぼ2車線幅のままの空間が残されています。




道幅が狭まって下り坂となる場所で、一気に薮に覆われ始めました。


国道標識が撤去されないまま残されています。


たいていの場合、その他の標識がたくさん残されていても、国道標識だけは撤去されているものなので、これは珍しいですね。


ちなみに反対側の路肩にも残されていました。


坂を下っていくと右カーブ。すれ違いのためか、道路幅には余裕を持たせてあります。




川側の路肩にカーブミラーがあおむけに倒れていました。


ふたたび薮に覆われた狭い道になります。


橋が現れました。境界を表す「天龍村」の標識が残っています。


橋の名前は「布滝橋」。


橋のすぐ横には橋名の由来となった「布滝」があります。ただし、路上に滝の水や落石が降り注ぐことを防止するためか、鉄板で覆われてしまっています。




布滝橋から上流を振り返った風景。谷底一杯に遠山川が流れ、両岸は切り立った崖。間違いなく難所です。


別の親柱を見ると、銘板に「昭和三十六年三月竣功」とありました。


さらに先へと進んでいきます。この旧道は何度も車で通ったことがありますが、旧トンネルの方の印象が強くて、切り立った崖の下をこんなに狭い道で通り抜けていたとは全然忘れていました。






ようやく旧トンネルが見えてきました。


旧トンネル「清水隧道」です。「全国道路トンネルリスト(平成16年度道路施設現況調査)」によると延長は38m。竣工年は昭和7年(1932年)とされていますが、これについては旧トンネル前後の橋梁の竣工年や、旧旧道のルートなどから疑義が持たれています。


「清水隧道」の扁額。


ご覧のとおりトンネル内部は素掘り。さらに加えて急カーブとなっています。


天井部には照明器具が残されたままです。


旧トンネルが現役時代に通った時は、見えにくい対向車に注意して慎重に走ったものです。


反対側の坑口です。




旧トンネルの先には旧清水橋が架かっていましたが、バイパス開通後撤去され、跡形もありません。土木学会「歴史的鋼橋一覧」によると、旧橋の延長は75.5m。昭和33年(1958年)竣工で、ポニートラス橋という形式の橋梁でした。橋の写真は「歴史的鋼橋一覧」で見ることができます。

さて、遠山川の河原へと下りてみます。


河原からの旧清水隧道の眺め。


対岸に残る旧清水橋の橋台。


旧トンネルから河原を上流側へ歩くと、吊り橋であった旧旧橋のアンカーが残っています。以前はこのアンカーの前に旧旧橋の主塔が残っていましたが、バイパス開通後、知らぬうちに消えてしまいました。旧清水橋の撤去に合わせて、主塔も撤去されたようです。


アンカーには橋を吊っていたと思われるワイヤーの断片が残っています。


旧道、旧清水隧道、旧旧橋と確認できたので、車へと戻ることにします。


車へと戻る前に、旧旧道の道跡が確認できるか、旧トンネル前からちょっとだけ覗いてみます。


まだ残っていますね。明らかに人為的に削り込まれた岩場が旧旧橋方向へと続いています。






遠山川の水量が多いので、旧旧道跡は川面へと沈んでいました。渇水期だと旧旧橋跡まで進めるようです。






水没している場所にピンクリボンがくくり付けられていました。国土調査や地籍調査に関連して、かつての街道や里道に沿って点々と付けられているのを見かけることがあります。時には「どうやってあんな場所に付けたんだ!?」ということも(笑)。ここは川の水が少ない時に付けたものでしょう。


旧旧道跡を振り返ります。こうやって眺めると、旧道に向かって緩やかに登り、ごく自然につながっています。実際には旧道と旧旧道の間には段差がありますが。


旧旧道のルートはこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

旧旧道は旧清水隧道が通る山を迂回するルートであり、旧旧道から旧清水隧道を通るにはルートに無理があること。旧清水橋・布滝橋が昭和30年代の架橋であること。この2つの点により、旧清水隧道の竣工年が昭和7年ということに疑義が持たれているわけなのです。おそらく旧清水橋・布滝橋と同時期の竣工だと考えられています。

それでは旧道を歩いて帰ります。


最後に現在の「清水トンネル」をチェック。




銘板には、延長326m、2011年3月竣工とあります。


清水トンネルの旧道はミニ廃道といった規模ですが、いろいろと中身が詰まっていて、私的にはなかなか面白い場所でした。

さて、清水トンネルからはこのまま国道418号を辿り、平谷村で国道153号へと合流して帰途につきます。途中、国道418号天竜川橋を渡ってすぐに国道から逸れて、通行止め区間の迂回路へと入ります。狭くて急坂の迂回路を通り抜けると、ふたたび国道418号へと合流します。

そしてしばらく走行し、天龍村戸口の先へと来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここからは余談ですが、ここで令和2年(2020年)7月12日に大規模な崩落が発生し、国道418号が埋没しました。現在は仮設道路が完成し、暫定的に通行可能となっています。

こちらが崩壊した斜面です。表土が全て崩れ落ち、岩盤が露わになっています。崩落発生当初からの状況については天龍村のホームページなどで紹介されています。


よく通行止めになる国道418号。現在通行止めになっている天龍村的瀬~早木戸も原因は大規模崩落で、こちらは新たにトンネルを掘削しての復旧工事が進展中です。
Posted at 2022/07/03 22:22:28 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2022年06月26日 イイね!

【飛騨市神岡】国道41号「吉ヶ原橋」の廃道区間を歩く

2022年5月7日土曜日、岐阜県飛騨市神岡町吉ヶ原にある国道41号「吉ヶ原橋」の廃道区間を歩いてきました。3月26日にこの辺りの国道41号をドライブした際にこの廃道を少し歩きましたが、もう一度進める所まで行って様子を確認してみたいと思い再訪問しました。

当日のメインは「吉ヶ原橋」の廃道区間でしたが、橋のたもとの駐車帯に車が何台か駐車していたため、ここは一旦スルー。国道41号をしばらく北上し、3月26日に寄り道した新猪谷ダムへとやって来ました。






場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

結局、国道41号をさらに北上して、富山県のJR猪谷駅前でUターン。飛騨市神岡方面へと引き返してきて、今度は国道41号「中之谷橋」のたもとに駐車します。


場所はこちら。


停まった理由は、「神岡軌道」の廃線跡をちょっと見てみたかったため。国道41号をJR猪谷駅から戻ってくる途中に何か所か廃線跡が目に入ってきたので、ふと停まっただけです。中之谷橋周辺に廃線跡があるのを確認したわけではありません。

中之谷橋のたもとにある「ずいたん地蔵堂」。


中之谷橋の旧橋台が残っているようなので確認してみます。




次に地蔵堂の境内にあった古そうな標石を確認。「逓信省」とあります。旧逓信省の標石は初めて見ます。


側面には「地下線」と彫られています。付近に電話線の地中ケーブルでもあるのでしょうか?


この後、中之谷橋の脇から沢沿いに上流へと登っていく道を歩き、周囲を探してみましたが廃線跡は見当たりません。

仕方なく国道まで戻り、何気に中之谷橋から下流側を覗いてみたら、「神岡軌道」の橋桁がありました。う~ん、無駄に体力と時間を使ってしまいました…。


気を取り直して、本来の目的地である国道41号「吉ヶ原橋」へと移動。駐車していた車もいなくなり、これで人目を気にする必要もありません。


さて、現在の国道41号は、この場所から「吉ヶ原橋」で高原川を渡り、左岸側へと移動します。しかし、かつての国道41号はこの地点では高原川を渡らず、そのまま右岸側を通過していました。

※5万分の1地形図「東茂住」:大正元年(1912年)測図・昭和5年(1930年)要部修正測図。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

吉ヶ原橋の竣工年月を記した銘板です。昭和42年(1967年)12月とあるので、この頃までは旧道が国道41号として供用されていたと考えられます。


それでは、現在は廃道と化した旧国道を進んでいくことにします。


歩き始めてすぐに橋が現れます。


橋の名称は「岩之谷橋」。


旧地形図に記載されているこの橋マークが「岩之谷橋」です(先に言ってしまうと、この先の道中には橋が存在しないため間違いなし。)。


銘板によると、橋の竣工は昭和28年(1953年)10月。増大し始めた自動車通行に対応するためにコンクリート橋梁へ架け替えられたのでしょう。


橋の高欄。長方形のシンプルなデザインです。




吉ヶ原橋方向を振り返っての眺め。


岩之谷橋をくぐる枯れ沢。雑草でわかりにくいですが、全面に石が貼られています。


ちなみに、3月26日に訪れた時はこんな様子でした。


その時は岩之谷橋の上もほとんど雑草は生えていなかったのに、1か月ちょっとで一気に木々の葉っぱや雑草が繁茂。この先の状況が思いやられます…。


それでは、岩之谷橋の先へと進んでいきます。倒木があったりしますが、道跡ははっきりしていて雑草も想像したよりは少なく、今のところは大丈夫そうです。






土砂で道跡が完全に埋まっています…。「いきなりかよ…。」という感じです。


土砂の上に登ってみました。瓦礫がゴロゴロしていますが靴で足場は作れるので、一歩一歩慎重に横断していきます。


崩落斜面から高原川を見下ろします。路肩まで土砂に埋まっているので、もし滑ったら直接高原川の河原まで落ちてしまいますね。


無事に崩落斜面を横断しました。安全のため、実際の路面の高さよりも高い場所まで迂回しています。


いよいよ薮が深くなってまいりました。


雑草の少ない山側の擁壁に沿って進んでいきます。




背の低い灌木帯。こういう場所は体で押し切って進みます。


山側の石積み擁壁、石の大きさがバラバラ。巨石まで混じっています。時代が新しくなると、ある程度大きさを整えた石を使っていますから、これは古い時代に造られた擁壁かもしれません。


また深い薮です。直線路なのに少しでも薮の薄い場所を探して、ジグザグに進むこともよくあります。


対岸を通る国道41号。


また崩落地です。先ほどのものよりも規模は小さいですが、倒木が絡んでいるので、通過に少々手こずりました。


擁壁の上に設置されていた落石防護ネットを支える鉄柱。ネットは無くなり、鉄柱だけが落石を受け止めています。


ここまで緑が濃くなっているとは本当に誤算でした。進めないことはないので、どんどん奥へと歩いていってしまうわけですが。


谷積みで積まれた石積み擁壁。廃道で見かける遺構としては、コンクリート製のものよりも石積み・石垣の方が私は好みですね。


こちらはコンクリート造りの擁壁。


この場所は枯れ草がペシャンコにつぶれているので、遅くまで積雪が残っていたようです。


またまた深い薮…。


薮を抜けると、草刈りがされたような状態になりました。反対側からこの辺りまで人が入ってくるのでしょうか。




落石などで路面は荒れていますが、道跡を塞ぐほどの薮や雑草は無くなり、気楽に進んでいきます。


玉石積みの擁壁。


ここまで歩いてきて、川側の路肩に駒止めやガードレールの痕跡が全く見当たりません。高原川から高い場所を通っているので、せめて駒止めくらいはあっても良さそうなものですが。


対岸を通る国道41号のロックシェッド。


道跡を塞ぐようにビニールひもが一本張られています。地形図を見ると、この廃道は最終的には「神岡鉱業」の敷地内へ入っていくことになります。「立入禁止」の印と受け取って、ここで引き返すことにしました。


それでは廃道を吉ヶ原橋まで戻っていきます。


吉ヶ原橋のたもとにある駐車帯まで戻ってきました。


おまけで、吉ヶ原橋付近に残る「神岡軌道」のトンネル跡2か所をチェック。




今回は片道約800mと短い距離の廃道でした。往復時間は1時間20分ほど。実際に歩いてみて一番の遺構は廃道の入口付近にあった「岩之谷橋」。あとはひたすら道跡を辿るだけの探索となりました。

廃道に駒止めやガードレールが現れなかったことから、現国道に付け替えられるまで未舗装路のままだったかもしれません。昭和40年代以前の国道41号は、こんな貧弱な道路だったと確認できたのが成果と言えますかね。

最後に帰宅途中、高山市清見町上小鳥に残る旧国道158号の廃橋、「上小鳥橋」に立ち寄りました。現国道の「新上小鳥橋」の真横にある小さな橋です。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

橋の上には害獣捕獲用の檻が置かれています。


橋の先にはかつての国道の跡が残っています。


橋の全景と親柱。竣工年月は、昭和31年(1956年)11月とあります。








ここからはオマケの話。

帰宅してから着替えようと上着を脱いだところ、右腕の上腕部に何かくっついているのを発見。よく見てみると「マダニ」が皮膚に頭を突っ込んでいました。痛みは全然無くて、気が付きませんでした。


「ついにマダニに喰い付かれてしまったか…。」とちょっとショック。マダニと言えば、ひと頃騒がれた「重症熱性血小板減少症候群(SFTS)」を筆頭に、死に至るケースもある各種感染症の原因です。

体は膨らんでいなかったので、「そんなに血を吸われていないのかな?」と思いつつ、熱さに驚いて離れてくれればと、小さな金属棒をコンロで熱してマダニに当てます。金属棒が触れた瞬間に少し動きましたが、何度も当てているうちにまったく動かなくなりました。どうやら死んでしまったようです。

マダニを軽くつまんで動かしてみても皮膚が引っ張られて外れる様子はなし。完全にくい込んでいます。無理に取るのは良くないと知ってはいたので、その日は取るのを諦めました。

結局取り除けたのは月曜日になってから。近所の総合病院の皮膚科で診察してもらい、「本当にマダニだね。」という感じ。処置としては、マダニを周囲の皮膚ごと抉り取りました。局所麻酔をしたので痛みはありませんでした。


各種感染症の最長の潜伏期間が14日間だったので、5月21日が過ぎるまで様子見。無事、何も発症せずにすみました。腕に開けられた穴もちゃんと塞がりました。

今回は探索中、思ったより暑くなって腕まくりをして薮を歩いたのが仇となったようです。夏ならばメッシュの長袖を着て歩くのですが、油断が招いた事故でした。また喰い付かれた時に次も無事でいられる保証はないので、注意しないといけませんね。
Posted at 2022/06/26 23:53:57 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2022年06月19日 イイね!

旧津具村南部の古戸道(遠州街道)を探索する

2022年4月16日土曜日、旧津具村(現:北設楽郡設楽町津具)の南部を通る愛知県道80号東栄稲武線の前身道を探索してきました。

今回探索してきた周辺の地図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

県道80号は、旧津具村の南隣となる東栄町側から来る場合、東栄町内は鴨山川沿いをゆるゆると登ってきますが、町境を越えると一気に急な登り坂となり、旧津具村の高原地帯へと出てくるルートとなっています。町境の標高が505m、旧津具村の高原地帯へと出る地点が659mと、約2kmの間で標高差が150m余りあります。

こちらは戦前の地形図。見比べるとわかりますが、県道80号の前身道であるこの当時の街道は、県道よりも直線的なルートを通って旧津具村の高原地帯へと登ってきています。今回はこの前身道を探索するわけです。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年)測図・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行。

現地へとやって来ました。駐車場所は、県道80号が旧津具村の高原地帯から東栄町方面へと坂を下り始めた辺りです。


参考とする戦前の地形図は現在の地形図に比べると精度が甘く、地形の表現もあいまいなので、地形が谷側へと突出している怪しい場所を2か所ピックアップして、しらみつぶしにしていく作戦です。

1か所目。駐車場所から県道を旧津具村方面へと歩き、左側(谷側)へと入り込んでみます。


ここはハズレですね。急斜面で道のようなものはまったく見当たりません。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

2か所目。さらに旧津具村方面へと歩き、再び左側(谷側)へと入り込みます。


ここは先ほどの場所よりもなだらかな斜面ですが、街道が通っていたような形跡はありませんでした。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

県道80号へ戻ってきました。


さて参りました。仕方がないのでもう一度地形図を見直すと、現在地からさらに西側、半場地区の先、地形の突出部に道の記載がないのに家屋の記号が連なっている場所があります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

これは怪しいですね。廃道化により道の表記だけが無くなっているのかもしれません。行ってみる価値ありと判断して、さらに西側へと歩いていくことにします。

半場地区を通る細い道へと合流します。谷側へ向かう道も存在していますね。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

進んでいくと石仏群がありました。他所にあったものの寄せ集めの可能性もありますが、道に向かって立てられているものも何基かあり、どうやらこの道が県道の前身道である街道で間違いなさそうです。




舗装路は左へと曲がっていきますが、真っ直ぐにも道(道跡)が続いているのが見えます。


もう間違いないですね。確定です。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ただ、ここの獣害防止柵、扉が付いていません…。たいていは廃道・古道であっても、人の出入りができるよう扉が付いているものですが、これは困りました。

無事に柵の向こう側へとやって来ました。一旦、柵が途切れる場所まで引き返して、山の斜面を伝ってこの場所へと出てきました(笑)。


害獣捕獲用の檻ですね。これも廃道ではよく見かけます。廃道なんて基本人間はもう通らないですから、動物にとっては安心・安全に通行できる道ですよね。


路傍にちらほらと石仏が見えますね。


馬頭観音碑(右側)と判読不能の石碑。判読不能の石碑は地面にうつ伏せになっていました。形状からして供養碑の類と思われます。


三体の石仏。


左側から見ていきます。これは馬頭観音ですね。光背には明治廿六年(明治26年、1893年)とあります。


顔の摩滅が酷いですが、この石仏も頭上に馬頭と思しきものを乗せているので、馬頭観音でしょう。光背には天保十四年(1843年)とあります。


こちらも馬頭観音です。光背には「明治卅六年」(明治36年、1903年)とあります。


判読不能の石碑(左側)と石仏。


前述の石仏群もそうですが、村への出入口となる重要な場所なので、多くの石仏・石碑が寄進されて祀られているのでしょうね。

さて、石仏群の前を通り過ぎると道が二手に分かれます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

右側へと分岐する道を少し歩いてみます。尾根部を一気に下っていっているので、この街道の旧道といったところでしょうか。


それでは、左側の道を下っていくことにします。道の流れからして、こちら側がこの街道の最終期の「本道」でしょう。


分岐から少し下った所にも石仏がありました。破損して頭部がありませんが、胴体部のデザインが先ほどの馬頭観音像に似ているので、こちらも馬頭観音像でしょう。台座が2つありますが、もう一体は見当たりませんでした。


山肌を巻くように下っていきます。


路肩がコンクリートで補強されています。道としての補修ではなく、治山工事によるものでしょう。


古道の証しとも言えるU字型の道跡が続いています。


道跡は山肌に沿ってさらに右へと巻いていきます。


このカーブ、違和感ありますね。道が山肌から離れて造られていて、その内側に窪地があります。窪地の部分に水でも湧いていたのか、元々あった山肌が崩落し整地してこのような状態になったのか。




この辺りから岩肌が露出する斜面がちらほら現れてきます。


岩の中へと根が張れず、岩を包むように根が這っています。


つづら折りが連続します。




ようやく川沿いまで下りてきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここから先は林道化されているようです。が、ご覧のとおり倒木がひしめいており、思わずため息が出ます…。間伐した木々をそのまま放置してあるのでしょう。


林道化されているのを見て、半ば興味は薄れてしまいましたが、県道80号へどのように合流しているか、道中に街道の名残りは残っていないかを確認するため、先へと進むことにします。




まるでマングローブのような根の張り方です。愛知県内で幹を宙に浮かせるような生え方をしている木を見たのは初めてです(他県でも見たことはないですが。)。


ここまで林道はおおむね道形がきれいに残っていますが、自動車の轍は全く見られません。


高圧線鉄塔の巡視路標識。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

簡易トイレがあります。全く使われている様子はありませんが、かつてこの辺りまではそこそこ出入りがあったのでしょう。


川側の路面が削れてしまい、道幅が3分の1くらいになっています。


対岸に石積みを発見。どうやら橋台ではなく、護岸のためのもののようです。


この川沿いを歩くこと25分、橋の遺構が現れました。石積みの橋台と橋脚があります。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

増水時のことを考慮していないようで、橋台・橋脚とも背が低いですね。見た目どおりの古い時代のものかもしれません。


橋脚の上流側は水切り形状になっています。


川を渡渉して対岸へと回りました。はっきりとした道跡が残っています。


そして急なヘアピンカーブで折り返していきます。このヘアピンカーブの形状からして、この付近は馬車道への改修がされている可能性はあります。


そして間もなく県道80号の法面に埋もれてしまいました。


そのまま法面を歩き、林道の橋へと出てきました。橋の名称は段戸橋。川の名前は段戸川とありました。


ようやく県道80号と合流です。ちょうど設楽町と東栄町の境界になります。


ここからは県道の坂を登って車まで戻ることにします。


県道に合流して歩くこと約2km、25分で車に到着しました。


今回探索で歩いたルート図です。歩行距離は4.6km、時間は2時間30分でした。



最後にこの県道80号の前身道についての経歴を記載しておきます。資料元は旧津具村が発行した「津具村誌」になります。道の呼び方や名称は旧津具村側のものとなります。

江戸時代は古戸道(古戸は「ふっと」と呼びます。)と呼ばれていたようです。古戸は現在の東栄町大字振草字古戸になります。
「津具平の南はずれから古戸村方面へと南下している道。水田の乏しい古戸・川合方面から津具平への出作り道でもあり、上津具・下津具や信州平谷・根羽の人たちが遠州秋葉山詣でに通行した重要な道。」

明治時代に入ると、遠州街道と呼ばれたようです。
「上津具村で伊那街道より分岐し、下津具村を経て振草村に入り、別所街道に接続する郡道。幅員3m弱だが一部に荷馬車が通行できな箇所があった。上津具・下津具の林産物の10%はこの道路を利用して搬出され、逆に遠州で産出された織物、楮などがこの道を経由して長野・岐阜両県へ運ばれた。」

明治42年(1909年)の「上津具・下津具村組合統計」に記載されている道路一覧には「振草街道:下津具村中央ヨリ古戸界ニ至ル」とあります。

大正期には郡道「上津具本郷線」と呼ばれました。大正9年(1920年)に旧道路法が施行され、道路が国道・府県道・郡道・市道・町村道の5種に分けられているので、その際に指定された路線名と思われます。
「上津具で県道「豊橋飯田線」から分岐して、下津具村を経て振草村古戸で県道「本郷飯田線」に接続して本郷(現:東栄町本郷)に至る道路。」

大正12年(1923年)の郡制廃止後は町村道へ格下げになったようです。そのため、大正12年と大正15年(1926年)に県道昇格の請願書が提出されています。特に大正15年は沿線の上津具村・下津具村・振草村・御殿村・本郷町・下川村の六町村長連名で提出されましたが、実現しなかったようです。

その後の経歴は不明ですが、現在の愛知県道80号に認定されたのは、昭和34年(1959年)12月15日です。

一方、道路改修に関する記述は、
「下津具村と振草村は、監督庁の認可を得て大正11年(1922年)以降改築工事に着手し、同14年(1925年)に至り延長6.3kmを竣工した。従って余すところ3kmほどになった。」
とあるだけです。この改築工事の目的は不明ですが、時代的には自動車通行も視野に入れた改築工事であった可能性はあります。

この工事が地形的に容易と思われる振草村古戸側から進められたとして、国道151号(旧別所街道)分岐から県道80号で距離を測っていくと、現在の設楽・東栄町境で約6kmとなります。残り3kmを旧街道経由で測っていくと、終点は下津具の中心地入口となります。

この結果から、少なくとも昭和初期は今回探索した旧街道がまだ使われていたと考えるのが妥当でしょう(あくまでも憶測に過ぎませんが。)。
Posted at 2022/06/19 12:51:28 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記

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