親父が他界して7年
2年間の厳しいシベリア抑留生活を経て、祖国への復員
その足取りを確かめたいと言う強い思いから
5年前、次女と京都舞鶴の
シベリア復員記念館へ行ってきました。
次こそは、日本から中国本土へ渡った出発点でもある太刀洗へ!
と意気込んでいた矢先にコロナが流行り始め
完全に機会を失ってしまいました。
もう一つの“足跡”を是が非でも確かめたい!との想いは募るばかりで、
中々機会を得る事が出来ませんでしたが、
この度次女の計らいで、やっと念願を叶える事が出来ました。
今回はカミさんも一緒なので、当初の日帰りを変更し、
仕事が終わってから出発し、一泊する事にしました。
午後7時過ぎに博多へ到着
晩飯は簡単にコンビニで弁当でも、と思ってましたが
せっかくなのでチェックインを済ませ夜の街へ
川沿いにすごい数の屋台があって、待ちのお客さんで
あふれていました。
キャナルシティ博多の中の
ラーメンスタジアムで晩飯する事に
結構濃いめの豚骨スープで
めちゃくちゃ美味しかったです!
ホテルで一泊し、JR鹿児島本線の基山と言う駅で下車
甘木鉄道に乗り換え、いよいよ念願の太刀洗へ
手汗凄いわ、ドキドキが止まらず...
駅を降りて直ぐ場違いな光景が
正面に、夢にまで見た「太刀洗平和祈念館」が現れます。
日本で初の純国産として生産されたヘリコプター
いよいよ館内へ
あれ程訪れたかったはずなのに、足の震えが止まらない...
入館して直ぐ、スタッフの方が案内と簡単な説明をして下さいました。
「80年前の4月8日、父がこちらへ入校したと聞いてます。」
と写真を見せて、
歴史を紹介する映画の上映がちょうど始まったので
一通り観覧を終えて出ると、先程のスタッフの方が、
「お父さんのお名前を教えて下さい。」と言われるので伝え館内を歩いていると、
別の女性のスタッフの方が、分厚い資料を3冊持って
「こちらへどうぞ」と案内されるままにテーブル席へ。
付箋の付いたページを開き指さされたそこには、
紛れもなく所属していた事を示す、親父の名前がありました。
他にもまだあるかもしれないとの事で、持参したシベリア関連の資料も預け、
改めて館内を見て廻る事に。
復元された航空機が展示してあり、機体のみ撮影可。
しばらくすると、別のシベリア抑留関係のコピーも持って来られました。
以前電話で伺った際には、終戦直後に資料の大半は焼却処分されたため
殆ど残っていないから、確認するのは難しいだろうと伺っていたので、
親父の名前を資料で見た時は大変な驚きだったし
スタッフの方から伺った当時の様子や動きが、
親父から聞いていた話と同じ内容だったので
まるでタイムスリップしたかのような感覚でした。
何よりも、私共のような個人的な訪館者に対し
ここまで親切丁寧に説明案内のための時間を取って頂いた事に
感謝しかありません。
広島を発つ前、自分の髪を親兄弟に宛てた遺書でくるみ預けた
と親父から聞きました。
どんな想いで親兄弟に遺書を残し、どんな気持ちでこの地へ向かったのか...
ただ一つはっきり言えるのは、
間違いなく親父がここで過ごした一年間の足跡があったと言う事です。
汽車を待つ間、花壇に腰掛け、親父との想い出を浮かべていたら
何故か無性に涙が止まりませんでした。
博多駅に戻ってから、遅い昼飯
母親も一昨年亡くなり、土産話を聞かせる事は出来ませんでしたが
出来る事なら一緒に来たかったはずの長女に、ゆっくり話してやりたいと思います。
今回の「親父の足跡を辿る旅」
次女が切符の購入やホテルの手配に至るまで全てやってくれて
しかも、費用を全て負担してくれました。
自分やカミさんが迷子にならないよう、同行と言うよりも
ほぼほぼ付き添い状態で疲れたと思います。
来れなかった長女も、自宅の鏡台に親父の写真置いて、
ひ孫達や婿さんと手を合わせてくれてます。
ちなみにこの鏡台は、母の形見です。
皆の想いが、今回の“旅”を実現させてくれました。
「あんなに小さかった孫達が...」
口数の少ない親父だったけど
遠い空の上から、きっとニコニコしながら
喜んでくれていると思います。
これでやっと、自分の中での「親父の戦争」が終わりました。

Posted at 2024/04/19 15:36:50 | |
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