75年前の今日、4年前に他界した親父が、
2年のシベリア抑留を終えて、
祖国日本の舞鶴港へ帰って来た日です。
昔、「今日がほんまの誕生日なんじゃ。」と言ってたのを
よく耳にしました。
「引揚」だの「復員」だのと言っても
ピンとこないと思います。
2019年6月に、どうしても親父の足跡を辿ってみたくて、
念願かない、次女と舞鶴へ行ってきました。
関連記事:https://minkara.carview.co.jp/userid/1799531/blog/42919840/
記念館には、当時日本兵捕虜が収容されていた
全ての収容所の位置が地図に記されていましたが、
何故か親父が残していた書類にあった収容所がなくて、
館長さんが事務所の資料を引っ張り出して
随分調べて頂いたにもかかわらず、
結局分からずじまい。
「厚生労働省の抑留担当課へ問い合わせてみれば
資料が残っているかも。」との助言を頂き、
帰ってから早速連絡してみると、
「取り敢えず、保有している全ての関連資料を
送ってみて下さい。」との返答。
やっぱり無理なのかと諦めかけてた9月、
結構な枚数の資料が届きました。
半分ほどはロシア語で書かれていて
さっぱり分かりませんが、
ありました!
多分、発音の関係かと思いますが、
間違いなく「ケメロポ州ヤヤール」と書かれています。
「昭和22年6月6日舞鶴へ復員」との記述も。
せっかく舞鶴まで行ったのに、スッキリしないままで、
モヤっとしてた気持ちが一気に晴れました。
復元された桟橋に立ってみて、
「どんな気持ちでここに降り立ったんだろう...」
新幹線もない当時、何日かかって広島へ戻ったんだろう...
やっとの思いで故郷に着いてみれば、原爆で一面焼け野原
実家が爆心地だったので、両親兄弟を失い、
長男だったので、帰ってからは生き残った兄弟の親代わりで
言葉では言えない苦労をしてきた、と母から聞きました。
ー35°の極寒の地で、食べる物もなく終日強制労働
次々に仲間が倒れ、穴掘って埋めたそうです。
自分も黄疸にかかって生死の境を彷徨ってた時に、
軍医さんが近所の農家から
薬と食べ物を貰って来てくれて何とか助かったそうです。
収容所によっては、殆どの方が命を落されたと聞きました。
全てに、運が良かったんだと思います。
もしかしたら、親父の生き運が強かったのかもしれません。
一度目は、特攻出撃の前日に終戦
二度目は、2年間に及ぶシベリア抑留からの生還
三度目は、定年後に末期がんを患いながらも
30年治療もせずに再発なし
さすがに四度目はなく、93歳で天寿を全うしました。
家族みんなで、改めてそんな話をしながら、
ここまで自分を育ててくれた事への感謝と
親父の口癖だった、あんな時代が二度と来る事のないよう
争い事のない平和な世の中であって欲しいと願い、
娘達には、教科書に載っていない歴史の事実を
是非とも語り継いでいって欲しいと思います。
今世界中で戦っているコロナが一日も早く収束するよう祈りつつ、
一日一日を精一杯生きていきたいものですね。
Posted at 2021/06/06 23:10:46 | |
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