
この映画は実話に基づいており、
1992年6月10日に
「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」辺見じゅん著
が発売され、
今年の8月3日には同じ文春文庫から
原作となる「ラーゲリより愛を込めて」林民夫映画脚本
が発売になりました。
TVでメイキング映像を見ましたが、
大変なロケだったと思います。
他にもいろいろと思う所がたくさんあり過ぎて...
映画化が発表された時から
「これは絶対に見に行かなければ!」
と家族皆で決めていました。
と言うのも
親父がシベリア抑留生活の経験者ですが、
収容所も環境も処遇も全く違って、
親父は2年間の抑留生活を経て、無事日本に帰って来る事が出来ました。
これまで本格的に抑留をテーマにした映画はなく、
しかも、実話をもとにしており、
実際に映像で観ると...
ネタバレになってしまうので、展開結末については...
どんな想いで桟橋に降り立ったんだろう
次女の提案で3年前、おじいちゃんの足跡を辿ってみたいと
76年前に祖国へ降り立った復員記念日、6月3日
舞鶴引揚記念館へ行って来ました。
https://minkara.carview.co.jp/userid/1799531/blog/42919840/
几帳面な親父で、復員証明書や身上書など
関連する書類をたくさん整理し保管していたので
参考にとこれら全てのファイルも持参したのですが、
親父が居た収容所を見つける事が出来ませんでした。
館長さんがわざわざ事務所保管の資料を
いろいろ調べて下さったのですが、結局見つからず
記録に残らないような「規模の小さな収容所だったのかな」
と言う事で、厚生労働省の担当局へ問い合わせてみるよう
助言頂きました。
帰って早速、ダメもとで問い合わせてみると、
関連資料を可能な限り送って下さい、とのお返事。
それから3か月程過ぎた9月中旬、結構な枚数の書類が届きました。
半分はロシア語で書かれた当時の手書きの資料で、
もう半分は、日本語に翻訳された資料でした。
そこには、間違いなく親父の名前がありました。
収容所の場所も分かりました。
2年間過ごした収容所からナホトカ近くの施設に移り、
復員に向けての準備を進めたみたいです。
ナホトカを出港し昭和22年6月3日、夢にまで見た祖国日本の地
舞鶴へ上陸したと記されています。
当時の記録がよく残っていたと、正直驚きました。
また、それを全て翻訳し資料を作って頂いた厚労省の方に感謝です。
その親父も5年前、95年の生涯を閉じました。
「来る日も来る日も、穴を掘って仲間を埋めた。」
「体調が悪く、代わって作業に出てくれた友達が亡くなり、
埋葬した時は辛かった。」
「明日は我が身」が合言葉だったそうです。
「帰国の念願かなわず、異国の地に眠る仲間の事を思うと...」
酔っぱらうといつも、シベリアでの壮絶な体験談を聞かせてくれました。
でも、悪い事ばかりではなくて、
黄疸を患い生死を彷徨った時、ロシアの軍医が近くの村へ
薬を貰いに行ってくれたそうです。
若いロシア兵が、作業から帰る途中
干し肉をそっとポケットに入れてくれたり...
映画の話のつもりが、親父の話になってしまいましたが、
終戦当時20歳前後だった親父と同年代の人は、既に100歳近く
貴重な当時の体験を話せる人が居なくなってしまいつつある今、
今度は自分が、子供達や孫達に語り継いでいかなければなりません。
遠い昔の出来事の様に感じていましたが、
最後の抑留者を乗せた引揚船が舞鶴に帰って来たのは、
自分が生まれる前の年、昭和33年なんですね。
残念ながら、こうしている今も
世界中のあちこちで紛争が起こっています。
映画の様な悲惨な出来事が二度とないように
近い将来、争い事のない平安な世の中がきっと訪れますよう、切に願っています。
Posted at 2022/12/29 00:04:24 | |
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