
日曜日。遅い朝の中央道は空いていた。
「何時に出るの?」
「起きたらすぐに洗車に行って一度戻って仕度したらすぐに出る。洗車場は確か7時からだと思った」
「朝、洗うんだ」
「そう。前の晩だと露が降りて水滴で汚れるからね」
「ふーん」
「どうせ、高速走れば汚れるけど」
土曜日の夜。
食事の後にクルマを替え彼女が慣れた手つきで洗浄ガンを扱うのを横でぼんやりと眺めていた。
「サーティワン行こうよ。暑くて汗かいちゃった」
「もう、終わり?」
「後の水気は走って飛ばす!」
ドアを開けるとサンダルの足元にビシャビシャと水が滴り落ちた。
思わず顔を顰めたが、今は彼女に任せている個体なのだ。タオルを手に取るような真似はしない。
それに、真っ赤な顔をしている彼女は、今この瞬間アイスを食べたがっているのだ。
「やっぱり、あれがいいな。ほら、スタバの」
「うん?」
「コーヒーゼリーみたいなやつ」
「じゃあ、スタバにしよう」
「運転して!」
夜更けの幹線道路から峠を抜けて新しい通りにあるスタバに向かった。
週末らしく混んでいたので啼き喚く犬は車内に残し、店に入ってそれぞれの飲み物を買う。
テラスの席には主人の足元に大人しく蹲る二頭のコーギーがいた。
「かわいいね」
「おりこうさんは可愛い」
おりこうさんは可愛く見えるが、可愛く見える犬がおりこうさんとは限らない。
「どのくらいあるの?」
「距離?」
「うん」
「150キロぐらいかな」
「なのに、そんなに早く出るの?」
「日曜日の午前中は勝沼まで渋滞しているし、それにSAで、おやきとか食べなきゃなんないし」
「ソロおやき?」
「うん」
「ソロSA?」
「そうだよ」
「ソロSAは上級な気がする」
「そう?」
「ソロでSAを満喫してるの?」
「そう、しょっちゅうじゃないけどね」
飲み終わると彼女に運転を代わり途中で給油を済ませて駐車場に置いてあるクルマまで戻った。
「じゃあ、気をつけて」
「途中で、やんなったら挫折するかもしんない」
「別に良いよ」
「住所送ってよ」
「インターからすぐだよ」
「住所送ってよ」
「はいはい」
次の日、珍しく少し距離のある場所まで別々に行くことになっていた。
夜風の心地良い晩だった。
翌朝は中途半端に寝坊した。
窓の外に輝く陽を見て即座に洗車を諦め自分の身支度だけをした。
「こんな時間に出たら渋滞にはまるわよ」
「うん」
「勝沼の向こうまで行くんだったら、明け方には出なくちゃ」
「だよね」
母の軽口をかわしながら家を出た。
犬を抱き上げるほどではないが既にアスファルトは熱くなり始めていた。
燃料は前夜に彼女と別れた後に入れておいた。
圏央道のインターへの道は行楽地に向かう家族連れらしいリアゲートなクルマばかりだった。
直前のコンビニは飲み物や食べ物を買う客でごった返すことが予想されたので自宅近くで仕入れ、そのまま料金所を通過した。
出来たばかりのトンネルは明るく美しい。
しばらく走るとジャンクション手前で西に行く右車線に移った。
『ようこそ。“関越ジェーン”の世界へ』
なだらかな勾配の右カーブを通過した途端に我が目を疑った。
クルマがいないのだ。
午前中なので上り車線が空いているのはわかる。
だが、都内を朝出発し、山梨辺りに観光に行くクルマで渋滞するはずの所謂“元八王子バス停から○○キロ地点”を走っているのは観光バスとトラックばかりだった。
『おかしい』
『桃が不作なんだろうか』
『いや、今年はナリモノは良いはずだ』
『そうだよな。この間も梅を山ほどもらったし』
『それに、あの観光バスの群れは“桃狩りとワインなんとかツアー”なはずだ』
いやいや。そういうことではない。
となると、あれだろうか。
聞いた話では、米国でドライブスルーを併設しているスタバが次々と閉店に追い込まれているらしい。
その理由は。
そう、タゾチャイが入荷されないからである。
いや。それも違う。
燃料の高騰がここまで響いているとは思わなかった。
そして運転を始めて一時間後。
点滅するハザードの波に遭遇するのを、今か今かと期待し続け、どこにも寄ることなく西へ西へと進んだクルマは既に境川SAに到着していた。
雲一つない空に輝く太陽は、地上を熱く焦がしている。
暴れる犬を小脇に抱えると建物横の草むらに足を踏み入れ、用を足させて水を飲ませた。
クルマに戻って地図を確認すると、目指すインターはすぐである。
約束の時間まで二時間以上あったが、とりあえず待ち合わせている相手にメールを送ると煙草を一本吸い出発した。
標高が上がるにつれ荒れていく路面に悪態をつきながら南アルプスを左に見る。
木々のそよぎが涼やかである。
長い下りが終わった先に目的地があった。
分岐を左に進み減速して行くと同時にエアコンを切り高原の風を味わうために窓を開けた。
ところが。
暑いのだ。
暑い。暑すぎる。暑いったらありゃしない。
『なんで暑いんだよっ!』
『ここは長野だろっ!』
『長野ったらスキー場だろっ!』
『この時期にスキーをさせろとは言わないが、少なくとも避暑地だろっ!』
と、再び悪態をつきながら気付く。
そう。
目的地である諏訪は正しく盆地だった。
集合場所の店の看板はすぐにわかったが、隣り合ったコンビニと共に間口が非常に広かったため距離感が掴めず、間違えないようにと注意しながら結局コンビニに入ってしまった。
『うう。いかん』
国道から斜めに駐車場に頭を突っ込んだまま辺りを見回すと、平行して繋がっている狭い道伝いに隣の駐車場まで行けそうである。
『歩道だったらどうしよう』
と、ドキドキしながらゆっくり進む。
『しめしめ。誰にも見つからずに通れたぞ』
ほっとしたのも束の間。
そこは観光バス用の駐車場だった。
再びソロソロと移動を始め、広い駐車場の隅にクルマを停めると、まず犬をケージから出し土のあるところまで運び「汝のすべきことをせよ」と言い聞かせた。
素直に言うことを聞いた犬を収納すると、探検開始である。
時分どきの店内はギネスブックに載っているヴィートルさながらに巨大なバスから次々と降りてくる善男善女たちで混雑していた。
ただでさえ暑いのに暑苦しい人ごみにいられるわけもなく、早々にクルマに戻ると、移動する気もなくなったので、荷室からミッフィタオルを取り出し、犬のケージを隅に寄せてリアシートに身体を横たえた。
どのくらい眠ったのだろう。
窓ガラスを叩く音に目を覚まし、外を見ると彼女が立っていた。
「あっちぃよ!」
「うん。そっちカギ閉めて、こっちに乗って」
助手席側のドアを開けた彼女が叫ぶ。
「18度ってどんだけっ!」
「いや、そのくらいにしとかないと寝ているうちに死んじゃいそうだから」
二人で店内を見ることにした。
手洗いは土産物屋とは思えないような広くて清潔なものだった。
「キレイだね」
「キレイだけど昭和な香りがする」
“昭和な香り”が、果たしてどういうものか説明はつかないが、彼女の言いたいことはわかるような気がした。
「お腹は?」
「ぺこぺこ」
「釜飯食べる?」
「一応、集合時間まで待とう」
「そうだね」
外に張られたテントの許にあるベンチに腰掛けて煙草を吸った。
傾き始めた夏の陽射しは中々その勢いを緩めないものの、日陰にいるだけで僅かな風が感じられ、涼しいというほどではないが、暑さは紛れた。
免許を取ってちょうど四年経っていた。
そんなことすら忘れてしまうほどの、暑い夏の日だった。