3.11から3年・・・
月日がたつのははやいっすねー
あの日被災者になるって思わなかった。
当時は八食センター近くの倉庫でバイトしてた。
仕事中にバイト全員の携帯の地震速報がなったけどまたあっても3か4くらいの震度だと思ってたけど建物が振れるほどでかかった。
倉庫の資材が散乱しなかったのは幸いだったが事務所とか隣の他社の倉庫がすごくて手伝ってたらもう五時だったな
情報がまったく入ってこなかった中で帰宅しようとしたけど信号が停止しているためなかなか進めなかったのを覚えがあるなー
でも、八戸液化ガス近くの橋に差し掛かったときに消防の人が津波が来てるから引き返せ!っていわれて反対車線を無理やり走行して戻された。
え?津波???確かにそのとき橋の上だったから見てたけど川の水位がいじょうだった
実家に帰れなくて食料少し買ったほうがいいかなと思って市街地のコンビニに行ったけど水もカップめんもほとんどなくてあるものを手当たりしだい買ったっけ。
家族の無事をやっと確認して7時頃に何とかおばあさんの家に。
実家には近づけなかったため、今日はここで一泊。
朝にどんな感じなのか見に行ったら・・・
まあ、すごかったね。向かいの家は骨組みだけだったし車はひっくり返ってる。
道路は海水交じりの泥。どっかの家の家具、食器、電化製品。
小屋に使ってたであろう貨物列車の貨物部分。
実家は何とか無事だったけど床上浸水で中は水浸し。
隣の物置は完全に傾いて中は散乱状態。
港に見に行くと新聞でも見た方が多いと思うが船があの有様。
小一時間は見慣れない場所にいる感じはしたな
なんとか実家の家の中の片付けと物置小屋の中の廃棄作業、敷地周辺のごみの片付けは4日かかったけど終了。
一番しんどかったのはこっからで流れ着いてきた泥の掘り起こし。そのままにしてしまうと後々面倒なので土を2cm掘り起こし。あの時いろんな学校の学生と県外からのボランティアも来てくれたおかげでなんとか終わった。
食料も何とかなった。
岩手県、宮城県、福島県のほうが被害が甚大だったけど当事はそんなことより自分のことで精一杯だったな。電気も来たのが1週間後。電気の必要性を感じた瞬間だったな、ガソリンのなかなか手に入んなかった。
3年たった今はほとんど復興も終わったし実家も元どおり。
その間に他県の被災地を見に行った。こんなこというのはなんだけど八戸はぜんぜんましなほうなのかも。だってまだ物があるんだもの
何もなくなるのはさすがにしんどいと思う。
震災の出来事は忘られる出来事でないし、考える部分も多い。
福島の事故を知ったのは震災から3日後、当時原子力系の研究関係に卒論を書いていた自分にとっては信じがたいことだった。
皮肉なことにその後に原子力事業関係の職についた。でもそれはあの事故を防ぐためなんかな?
なんてな笑
Posted at 2014/03/10 12:36:15 | |
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