昼休憩、教師のいじめ事件の三文TVプログラムに反応して
「(いじめた教師の)名前を公表すればいいのに」という同僚がいた。
反論するもの面倒くさく、ただ数回歎息した。
なんと愚かな!
医療の世界に「人権意識」はない。
日頃から、そう豪語する。先日も、昼休憩に
無職の義父が内縁の妻の連れ子を殺害した事件において、「無職」と「犯罪性」を関連付ける発言を耳にし、職場の人権意識の低さをアジリ、糾弾したばかりだというのに、このざまだ。
僕は医療人である前に、法学士だ。個人の病ではなく、社会の病理をどうにかしたくて法学部に入学したのだ。
「人権」の専門家は法律家だ。人権問題は社会の問題で、それを専らに取り扱うのは法律家だ。
なのに、この職場の人権研修とやらの講師は、法学士の僕を差し置いて、役職で決まるのだろう。愚かだ。
自己満足の世界だから、毎年足踏みをして、前進はしない。前進どころか、若い者ほど考えない時代だから、退歩の一途だ。
で、僕は仕方なくここに書く。
ネットでいいのが転がっていたので、表現を一部修正して転載する。
一度犯罪を犯したものは、たとえ刑務所から出所したとしても社会的に好ましくないみなされ、特定地域社会が敵視し、あるいは追放されがちです。刑法の厳罰化とともに、犯罪者に対する社会的排除が進行している現実もあります。
たとえば、アメリカでは、女児が性犯罪者に誘拐、殺害されたミーガン事件後に性犯罪者の個人情報が一般に公開されるようになりました(ミーガン法)。しかし、その結果、性犯罪者が地域の人々から嫌がらせを受けるようになり、社会復帰が困難となったばかりか通常の日常生活もできなくなり、自殺したり精神病院に入院したりするなどの事態が発生しています。
日本にはミーガン法に類似した制度はありませんが、歴史的には地域からの追放や村八分などがみられました。
社会的に排除された元犯罪者は、結局、追い詰められたり、行き詰ったりして、果てには再び犯罪や非行に走り、地域社会に害悪を与えかねません。したがって、犯罪者にはむしろ支援を行うことが再犯防止につながり、元犯罪者の受け皿を用意することが望まれます。そこで、イギリスでは政府内に社会的排除防止課(the Social Exclusion Unit)が設置されるなど、この方向をめざす動きがみられます。
社会的には厄介とされる人々を包摂(ほうせつ)し、受け入れることこそが真の解決です。
誰が厄介って、大衆です。世間の常識に従うだけの大衆です。
自分の頭で考えない。それこそ、自分が村八分に会わないように、
エスケープゴートを作り出して、村八分にして自分は安泰だという。
こういう論理が見えないんですね。常識に縛られている大衆は。
恐ろしいことです。
これでも「市民社会」といえるのでしょうか。
娘が授業で「平和とは何か」と問われ「自由」と回答したらしい。
そこでネットで「自由」を検索。名言集が出てきて
「ルソー」や「カント」があったという。
カントの自由に関する名言とは「自由を阻害するものは、悪法でもなく、暴君でもなく、社会の慣習である」だとか。
プロイセンの「社会の慣習」は日本では「常識」「世間様」でしょう。
カントの自由論は、ルソーの影響を受けているわけで、名言集でも同じく登場するというのは合点がいく。
大衆の無批判の思考は、カントにおいては、本能でもなく理性によるものでもなく、まったく人間性に基づかないものとなります。
主体性なき思考は人間ものもではない。家畜のものだといえます。
「与えられた思考」だからです。
個人の病気を個人が云々するのは自己責任であって、専門家の医療職者の意見を聞けば、きっとうまくいであろうことを、勝手解釈で悪化させる例は日頃目にするものです。
社会病理も同じこと。なぜ犯罪者の社会的処遇について専門家の意見を仰がないのでしょう。
そうやって大衆は、犯罪者を排除したつもりで、更なる犯罪者を生み出している。そして、もう面倒だと、何でもかんでも極刑に処すればよいとすら考える。
なんと浅薄な(これについてはモンテスキューの『法の精神』を参考にすべし)。
ここまで思考が幼稚化すると、この先、日本に「真の市民社会」が到来することなどありえるのでしょうか。
僕はさらに絶望の淵に追いやられています。
我慢ならないので、休憩室のテーブルにこの印刷物を放り投げておこうと思います。どうなるか?
決まってます。僕が悪者になるのです。
ここには哲学者がいないからです。人権擁護を考えるものがいないからです。
Posted at 2019/10/11 00:00:46 | |
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わたしがおしえてあげるわよ | 日記