
大戦末期、昭和二十年七月七日。夕闇迫る七夕の空へ、異形の翼が轟音と共に駆け上がっていった。
日本初の有人ロケット秋水、その「試飛行」は成功したかに見えた。
しかし、高度450m付近でロケットエンジン停止、滑走路への帰還を目指した滑空飛行もかなわず着陸目前で不時着大破した。
未完成で大きな危険をはらむ機体での試飛行を決断し、エンジン停止後も最後まで機体を無傷で持ち帰ろうとしたテストパイロット「犬塚豊彦大尉」は不時着時の負傷により翌八日未明殉職、還らぬ人となった。
わずか二十三歳、人格にすぐれた「青年士官」であったという。
結局、国土を蹂躙する米国戦略爆撃機B-29邀撃にかけた男達の思いは果たされることなく終わった。
そして、終戦。
進駐してきた占領軍-GHQによって日本の航空機界は息の根を止められ、技術者たちは職場や公職を追われた。
まして「ロケット開発」には米軍兵士によって「バカ爆弾」と呼ばれた「人間爆弾-桜花」の暗い影が付きまとい、戦前のロケット開発計画の歴史は封印され現在に至る。
糸川博士の「ペンシルロケット」以前に、たしかにロケット技術は存在した。
しかし、ロケット機の設計資料を入手するため連合国の制海権下、遥か欧州まで往復した潜水艦。
辿り着いたわずかな設計資料をもとに、一年という短期間で初飛行にこぎつけた技術者の不眠不休の努力。
航空機の歴史上もっとも危険といわれた機体の搭乗員として集まってきた16人の男達。
それらの全てが多くの日本人に知られずに、歴史の中に埋もれていこうとしている。
ロケット開発はその国の基礎工業力の集大成であり、現在もH2A国産ロケット開発が続けられていることにより、「材料」「検査」「制御」など多方面におよぶ基礎研究の礎になっている。
基礎工業力のないまま大戦に突入し、その仇花としてのロケット開発計画には、現在の日本がおかれている状況に通じるものがある。
「幻の有人ロケット 秋水」初飛行から68年。発進の時間には薄曇だった空が今は夕立に・・・涙雨か。
Posted at 2013/07/07 17:26:26 | |
トラックバック(0) | 日記