※このブログは
1985年8月12日の夕刻におきた
羽田発の大阪は伊丹行き
日本航空123便墜落事故について書いています
一部の内容については
気分を害されることが予想されます
閲覧については自己責任でお願いいたします
またかなりの長文ですのでご注意ください
はじめに
以前からリアルでも仲良くしていただいている
みん友の大スカ氏との他愛もない会話から
123便墜落事故のことが話題に上がりまして
あまりにも2人の思いや共通点が一致したので
この週末に
「御巣鷹の尾根」へ行ってきたという次第です
では
そもそもなぜ
私達2人が123便の事故と関係があるのか
まずはそこから書かこうと思います
【大スカ氏と123便】
事故当日
彼は御父上を除いた家族で三重県に帰省中
ニュースで流れる123便の搭乗者名簿に
自分の父親の名前があることに気づきます
搭乗者名簿がカタカナ表記だったため
当初は「同姓同名なんて珍しいね」ぐらいで
まさか自分の父親とは思いもしなかったと
しかし彼の御父上は都内での仕事を終え
秘書が手配した123便の搭乗券を持ち
出発ロビーで搭乗を待っていたとのことでした
そして大スカ氏曰く
御父上はかなりの「せっかち」な性格ゆえ
123便の1便前の121便にキャンセルが出たため
123便をキャンセルして121便で伊丹へ
翌日
何事もなく帰省先で家族と合流したとのこと
そして123便の事故を知った御父上は
「私のキャンセルで事故に遭われた方がいる」と
ニュースで知って驚愕したとのことです
8/12といえば「お盆休み」の前日
キャンセル枠は搭乗券を持たないものにとって
藁をも掴む思いだったはずと容易に推測できる
まさかその掴んだ藁が「死」への片道切符とは
運命の悪戯とはいえあまりにも非情過ぎると
そして当時はスマホもない時代
123便のチケットを手配した秘書の方は
さぞかし生きた心地がしなかったであろうと
そんな御父上は
生前その事をずっと気にかけていたらしく
「いつかは御巣鷹の尾根に慰霊に参りたい」と
家族に話していたが
残念ながら機会がなく数年前に他界されました
そして御父上亡き今
その意思を彼が引き継いだというわけです
【私と123便】
私は以前にもブログに書いたことがあるので
詳細は割愛させていただきますが
忘れもしない8/12事故当日
塾の夏期講習を終えた私は
祖母の入院する病院へ見舞いに行くのが日課
夕食を終えた祖母は病院の屋上で夕涼みへ
病院の屋上からは相模湾を一望することができ
上空には東から西へと向かう飛行機が一機
その飛行機は夕日に照らされて黄金色に輝き
「ゴーっ」という音と共に伊豆半島の向こう側へ
毎夕の同じ時間に夕涼みをしていた祖母は
何か違和感を感じたのかでしょうか
「あの飛行機どこへ行くのかね?」とポツリ
日没間際の若干冷たい箱根おろしの吹く屋上で
私に話したことを今でもハッキリと覚えている
そして私達2人が見た黄金色に輝く飛行機が
123便だったことを数日後に知ることになる
まさに墜落する123便を目撃してしまったのだ
そして祖母は亡くなるまで
毎年8/12に墜落事故のニュースが流れると
「御巣鷹の尾根に供花させていただきたい」と
私に話していたのでした
そんな大スカ氏と私の希望が一致したこと
そして偶然にも
大スカ氏と私の下の名前が同じだったこと
※余談ですが誕生日は1日違い
そんな共通点もあり
今回の慰霊登山となったのですが
当初の計画では
金曜日の夜発で近くの道の駅で仮眠をして
土曜日の早朝アタックで慰霊登山の予定が
天気予報では現地の天気は終日荒天の予報
荒天のなか決行しても慰霊できないのでは
ということで当初の予定を端折って
御巣鷹山の麓にある「慰霊の園」のみ行くことに
でも実は
この慰霊登山の計画ですが
1回目はコロナの緊急事態宣言でボツとなり
2回目は登山道までの車道で崖崩れがありボツ
そして
3度目の正直となったわけですが
今回は天候でボツ
なかなか決行することができない慰霊登山に
勝手に「何かのお告げ」と解釈して
また必ずリベンジしましょうということに
↓早朝3時半に出発
↓川崎で大スカ氏をピックアップ
↓夜の明けた秩父市内を抜けて
↓群馬県は上野村にある「慰霊の園」に到着
※御巣鷹山慰霊碑(昇魂之碑)建立と同日の、1986年8月1日に完成した追悼施設で墜落現場から北東へ10キロメートル離れた上野村楢原地区(国道299号沿い)にある。乗客乗員520人を悼む慰霊塔や、身元不明の遺骨を埋葬する納骨堂、事故の写真や映像・遺品などを展示している展示棟がある。Wikipediaより抜粋
↓どなたでも入ることができます
↓村民とJALの社員が毎日献花しているそうです
↓慰霊塔は合掌を表したデザイン
↓御巣鷹の尾根の方角に向いています
↓奥の納骨堂には身元不明の方々が眠ります
123便は乗客乗員524名を乗せて飛び立ち墜落
奇跡的に4名の方が救出されました
この納骨堂に眠る御遺体は2,050体の方々
ん?520名じゃないの?と思いましたが
墜落時の衝撃が激しく
五体満足に収容された御遺体はほんの数名で
肉片や眼球だったり臓器の一部や毛髪など
ほとんどが部分遺体だったということです
現代のようにDNA鑑定も進んでいなかった当時
歯科医師による歯形の身元の確認では
多くの時間がかかってしまうのと
夏の暑さで直ぐに腐敗していく部分遺体を
荼毘に付せるしかできなかったということ
なので身元が判明せず
「身元不明」の御遺体として
「何名」ではなく「何体」という形で
納骨堂に埋葬されているということでした
↓お線香を焚かせていただきました
この後は資料館を見学させていただきました
映像では事故概要や当時の上野村の対応など
また慰霊の園や
御巣鷹の尾根までの登山道の整備
尾根にある「昇魂之碑」の建立に際して
上野村の村長を始め村民のご尽力には
本当に頭が下がる思いでした
また展示されている搭乗者の方々の遺品には
思わず目を覆いたくなるものも
グニャグニャに曲がったメガネや
墜落時刻の18時56分で止まった時計など
そして
おそらくTDRの帰路で搭乗してしまった
お子さんが所持していたであろうぬいぐるみ
血痕のついた小児用の財布を見た時は
胸に込み上げてくるものがありました
↓どうか安らかに
見学を終え
「また必ず慰霊登山に来ましょう」と
再訪を約束して現地を後にしました
↓行く前に観光ではないと決めてましたが
↓腹は減るわけで…
最後に
この事故の詳細を知るにあたって
陰謀論や噂話など
様々な見解があるのは
仕方ないことだと私は思います
なぜななら
事故のはっきりしない部分があるからでしょう
はっきりしないものに対して
人は憶測で話をします
それについて私は肯定も否定もしませんが
ただ外野の我々が
真実を知って何になるのでしょうか?
真実を知るのは事故で大切な人を失った
ご遺族だけでいいのでは?と私は思うのです
外野の我々は
空の安全と亡くなった方々の
鎮魂と追悼に手を合わせるだけ
そして事故の記憶を風化させないこと
残念ながら
午前中に訪れていたのは我々だけでした
来年は事故発生から40年
資料館の映像の最後に
この事故の慰霊に際して
生涯に渡り尽力された
元上野村村長・黒沢丈夫氏の
メッセージが印象的でした
「このような事故は月日がたつとともに
心の中から
その悲しみが悲惨さが遠ざかっていき
だんだんとお参りする人も少なくなる
というような傾向をたどりがちですが
私たちはそういうことにならないように
努めなければならないと考え自戒し
かつ多くの方々にお願いしております」
最後は次の言葉で結ばれていました
「霊よ、願わくば
私たちと共に
上野村の天地に抱かれ安らけく眠られ
天界よりご遺族を加護されるとともに
人類を導いて航空安全の道を開かせたまえ」
↓あの夏この上空を彷徨っていたと思うと…
最後までご覧いただきありがとうございました
Posted at 2024/09/29 18:58:41 | |
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