
祖父にとっての私は、初孫で内孫で、とびっきり可愛い女の子(誇張してます)でした。
孫のなかで、間違いなく一番可愛がってもらいました。
小学校を卒業してから鋳物屋に勤め続けた職人気質の頑固者でしたが、私にとっては積木やすごろく将棋で遊んでくれたり、毎朝散歩に連れてってくれたりと、とっても優しい遊び仲間。
結婚して家を出てからも、ちょいちょい顔を出していたのですが、去年の3月に、病に倒れました。
咽頭癌。見つかった時には手遅れでした。
祖母も、私の母も、必死に入院治療をすすめたのに、「他人の世話になるぐらいなら、俺は誰にも迷惑をかけずに死ぬ」と、頑なに突っぱね続けました。
そして、「○○(私の名前)だけには絶対に言うな」とも。
「今日、入院したから。ずっと言えなくてごめんね」
母親から電話が来たのが、亡くなる一週間前。
慌てて病院に行くと、変わり果てたじいちゃんがベッドの上に。
酸素マスクをつけて、しゃべることもできないじいちゃん。でも、私が声をかけると、ゆっくり頷いてくれました。
年が明けてから具合が芳しくなく、お風呂にも入れなかったこと。
どうにも耐えられない痛みも、バファリンでごまかしてたこと。
何度説得しても、病院に行ってくれなかったこと。
いよいよどうしようもなくなって、救急車で入院したこと。
積極的な延命治療は、この病院では難しいと言われたこと。
それを説明されても、「家に帰る」と言い張ったこと。
ぽつぽつと語る母の声を聞きながら、私は途方もない後悔を味わいました。
当時、老人保健施設で事務をしていた私は、介護保険のシステムも、充分過ぎるほど理解していました。
もっと早く、気づいていれば。介護保険を取らせて、訪問入浴でも何でも利用させてあげれたのに。最後を自宅の畳の上で迎えることもできたのに。
自分の大事な人に何もできなかった、という事実が、重くのしかかりました。
仕事帰りのお見舞いをしても、最期を看取っても、納棺までして、葬式の段取りをしても、消えない後悔。
じいちゃんに何もできなかったことへの負い目が、今はヘルパーとして介護に携わる私を明日へ突き放します。
自宅から車で約40分、自然溢れる東松山へのお墓参りは、母親と毎月交代で行っています。
愛しさと切なさと心強s…否。
愛しさと懐かしさとほろ苦さと花束を抱えて、コペンさんを降ります。

Posted at 2013/06/20 15:47:27 | |
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