※今回の内容は、地震・カミナリ・火事・オヤジといった自然災害の内容を含んでいます。
ストレスを感じられる方は閲覧をご遠慮ください<(_ _)>
1995年1月17日 午前5時46分52秒
淡路島北部を震源とする、震源の深さ16km 地震の規模がマグニチュード7.3の
兵庫県南部地震(阪神•淡路大震災)が発生しました。
あれから19年… ですね。
皆さんはどこで何をしてましたか?
みんカラしてる若い方の中には、まだ生まれてないって人もいるかもしれませんね。
私はあの時、神戸市西区の学園都市のとある学生寮の1階に住んでました。
地元岡山で開かれた成人式に出席し、次の日の晩に寮の部屋に帰って(-_-)zzz寝てた時に、未体験の激しい揺れに襲われました。
縦揺れだったのか横揺れだったのかなんて、覚えてません。
例えるなら、
子どもたちが遊ぶバルーントランポリンの中で、弾むように揺れてる感じと言えばいいでしょうか。
最初は「な…んだ?こ…れ…!?」
でしたけど、だんだん目が覚めてくると…
「地震ダァァァァ…~~∑(OωO; )」
ってなり、ベッドの上で丸まって布団を被ってました。
本震が収まると、その直後に停電。
寮のツレたちも一斉に集まって来ました。
1階で寝てた人たちは、地震の直前に大きな地鳴りを聞いたと言ってました。
情報がなく、震源もどこか分からないので、岡山の実家の方をを心配して「大丈夫かぁ?」って公衆電話から連絡。
家族の無事を電話で確認。
(両親からしたら、この電話が超ファインプレーだったらしいです。)
その後、寮長さんがラジオを出してきて、みんなでラジオを取り囲みました。
「…震源は淡路島北部…マグニチュードは…」
その先は覚えてません。
未だに、あの揺れが震度いくつなのかワタシ知らないんです(^^;)
停電し、外の様子が気になって寮から出たら……
南の空が真っ黒でした。
…あの黒い空は一生忘れません。
新長田の大火の煙です。。
その朝は、とりあえず学校はありました。
棟続きの寮生は教室に集合。
もちろん通いの学生は来てません。
近所の学生や先生は集まって来ました。
停電の学校の教室で、先生が用意した携帯テレビが映りました。
目に飛び込んだのが、阪神高速の高架が倒れてる映像です。
この瞬間の記憶やテレビの映像は鮮明に覚えています。
2年間、教壇の上で俺たちを引っ張ってくれた先生方が…
余裕がなくなってました。
その後、意味わかんないんですが、
17日は学校休み、翌18日は学校あるよって事になりました。
そして、寮の部屋に帰宅。
学校や寮の建物は、多少壁に亀裂が入った程度で問題はありませんでした。
私の部屋では、飾っていたゴルフⅢのVR6のプラモが棚から落下してドアミラーが外れてました。
その後の記憶があいまいで、ライフラインがどうだったか、メシは喰ったのか、トイレしたのか全く覚えてません。
17日は度重なる余震で怯えてたんだと思います…
一つだけ、はっきり覚えてることは、
4階立ての寮の1階だから、次の地震で潰されるんじゃないかという恐怖。
17日の夜は寮の1階の自室で、革ジャンとセーターを着てジーンズ履いて靴下履いたまま、
脇に靴を置いて、ベッドに丸まっていたのをはっきり覚えています。
テレビから繰り返し流れる、行方不明者なのか避難所の名簿なのかどっちか忘れましたけど、名前の字幕。
バックには夜になっても火が消えない大火事の空撮。
安藤優子アナの声を聞きながら、一晩中ベッドで丸まってました。
(電気とテレビは復旧してますね^_^;)
いつの間にか失神したように寝てたみたいで、明くる日の18日。
朝、学校に集合すると、
「とりあえず1ヶ月間は休校にします。寮生の方は実家に帰って下さい。」
…と、発表がありました。
先生が車で西神中央駅まで送りますって案内されたけど、外は車で大渋滞。
とても車なんか無理だってことになり、
僕と同じ岡山に住む寮のツレと沖縄の寮生の3人で、西明石駅まで歩くことに。
土地勘もない街を歩いていくのはとても大変でした。
さっきGoogleで調べたら
徒歩2時間12分 9.9kmって教えてくれました。
…が、
もちろん平成7年にスマホなんてありません。
あの時は20~30kmぐらいの距離に感じました。
3人いたから励ましあって歩けたものの、途中でもう歩けなくなり、運良く見つけた空車のタクシーに乗ることに。
(歩いた方が早いけど)
そのタクシーの運転手さんの話も忘れられません。
そのタクシー、地震の瞬間は三ノ宮で女性のお客様を乗せていたらしく、
最初の本震ではタクシーが倒れるんじゃないかというくらい揺れたそうです。
その後、倒壊した建物の間を走りながら
「こりゃ~、とんでもないことが起きたわ~」と言ったとたん、
女性のお客様はワンワン泣き出したそうです。
結局、タクシーを拾った場所から西明石駅までは目と鼻の先だったらしく、
動かないタクシーの車内で足を休ませてもらいました。
でも、このタクシーには感謝の気持ちでいっぱいです。
西明石駅から各駅停車のみの運行のJRに乗り、ヘトヘトになりながら岡山の実家に帰宅しました。
そして、1ヶ月後…先生から、
「君たちにとって貴重な経験となるから、野次馬を勧める訳じゃないけど、新長田を見てきなさい」
と言われました。
もちろん、この時見た新長田の景色は頭に鮮明に焼き付いてます。
炭と化した住宅なのか何なのかよく分からないものが、平らに広がる黒い地面。
住宅のあった場所には、ダンボールに書かれた「○○無事です」の文字。
1ヶ月たっても残ってる焦げたにおい…
以上、私の阪神•淡路大震災の記憶です。
大事な人を亡くされた方。
地震で傷を負った方。
財産を失った方。
大変な思いをされた方と比べると、私の経験なんてピンポン球のように軽く小さいものです。
ですが、あれだけ体を揺らされると、
自分の人生が1995.1.17を境に節目がついた感覚に陥ります。
何か…「生かされてる」って感覚がありました。
不思議と…1995年の記憶って、あまりないんですよね。
その年の10月にはTIサーキット英田(岡山国際サーキット)でF1があったはずなのに、なぜか思い出せない…
野茂もメジャーのオールスターに出場し、オリックスもパ・リーグを制覇したのに、Wikiらないと記憶にない…
今となっては時間が解決したのか、こうしてブログに書き留めるまでにはなりましたが、
たまにふと、「…揺れるんじゃないか(‥;)」と構える時があります。
そんな平成7年ですが、私の中で大きく残っている記憶がコレ。
BCNR33 スカイラインGT-Rです。
デビューが平成7年1月6日。
成人式を迎えたばかりのワタシにとっては、憧れの存在でした。
今となっては、自分の人生の節目に刻まれた運命のGT-Rなのかも知れません。
86買う予算があれば、程度のいいBCNR33を行ってやろうかと目論んでます。
いま、5時46分です…
黙祷……
いま、生かされてる命を人生を、毎日大事に刻んで行くことを誓います。