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奈良軍団関東全域統括部長・スタールビーのブログ一覧

2018年05月31日 イイね!

軽井沢ミーティング2018報告4

軽井沢ミーティング2018報告4アッツ島戦記を御拝読頂き、ありがとうございます。ロードスターで遊べる今の平和は戦で散った多くの方々の礎にあると、改めて襟を正した次第であります。


それでは、珍しくブログを毎日更新出来ている今の内に軽井沢報告の続きと参りましょう。


今回お会い出来たクラシックレッドNDの方は東京のナンバーの紳士な御仁。まだロードスターデビュー事態が間もないコマ地図ラリー第二位、お母様同伴のうら若きご令嬢(また来年の軽井沢迄色々勉強しますとのこと)、残念ながらお会いできなかった富士山ナンバーの方と広島ナンバーの方、お会いできなかったものの行きの関越道でハイタッチドライブで接触のあった千葉の方等々様々であります。


いつかクラシックレッドNDで集結出来たならばという夢もございます。その夢への階段をかけのぼる集い「club CR」も合わせてよろしくお願いいたします。


一方、ミーティング終結後のお食事会ではこれまた貴重な200台限定とされる青いマツダスピードNBの方々と軽井沢のおしゃれなイタリアンを頂きました。


お店の駐車場に詰めると後から青い車が入って来ました。


NHKの朝ドラ風に言うならば駐車場が「半分、青い」です(笑)ND弐号機は文字通りの「紅一点」でありました。

続く
Posted at 2018/05/31 08:33:12 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2018年05月31日 イイね!

アッツ島守備隊戦記捕捉と所感

アッツ島における激闘、なぜ守備隊は奮闘することができたのか?


そもそもアッツ島の守備隊長に任命された山崎保代(世ではなく代でした。訂正します)大佐は米軍のアッツ島、キスカ島奪還作戦のために他の地域から赴任して来ましたが、これから赴く任務の内容を充分に理解していた様子で、着任前に家族に宛てて遺書をしたためています。


戦争は補給と士気で行うものと言われていますが、空と海をアメリカに抑えられていましたので、既に補給を期待することは出来ない状態にありました。


山崎大佐の入島自体も潜水艦で秘密裏に行われており、遺書を書いての出陣というのも決してオーバーなことではなかったのです。

実は前述のような日本軍の活躍の裏には、援軍部隊の到着まで持ちこたえれば、この戦いに勝利出来るという希望があったのです。


この増援部隊の派遣は、札幌北方軍司令部の樋口季一郎陸軍中将(ひぐち きいちろう)の発案により、大本営からの正式な許可も出ていた決定であり、この増援だけがアッツ防衛隊の光明だったのです。

しかしながら、この望みは虚しく潰えることとなります。

大本営より増援の派遣を中止するとの連絡が入ったのです。


それでもアッツ島の日本兵たちは果敢に戦い続けますが、圧倒的な兵力の差には逆らいきれず、徐々に追い込まれて行きました。


そして遂に、その日がやって来ます。

1943年5月29日、生き残った山崎大尉以下、約300名の兵士たちは、これより突撃するとの最後の打電を残し、まともな武器さえ持たない状態で、敵陣に突撃を試みたのです。


その結果は、当然ながら惨憺たるものとなり、生き残った者は僅か28名。


その生存率1%以下と言う、文字通りの玉砕戦(玉と散る)となったのです。


生き残った28名の内の1人が後の取材に対して、「自決あるいは突撃を強要された」という趣旨の発言をしたと伝えられています。


あなたはこの話を聞いて、どのように思われますか?


日本軍は勝ち目のない戦いに兵士たちを向かわせ、約束した援軍も派遣しなかった。

その揚句に、負けると決まれば、自決か突撃を強要した。


当時の日本は何て酷い国だったのか・・・。

そう思うのが当然かもしれません。

しかしながら、この戦いにも闇に葬られた事実が存在するのです。


まず、大本営が援軍を出さなかったことを、見捨てたというのには疑問が残ります。


当時の日本海軍には物資、人員的に若干の余裕があったことが、見捨てたという疑いの根拠であるようですが、海と空を抑えられている以上、援軍が到着前に大打撃を受けることは必至でしょうから、そこにも苦渋の決断があった可能性があります。


また、援軍を出すと約束した札幌北方軍司令部の樋口陸軍中将は、大本営の援軍中止の知らせに激怒し、アッツ島の救援に行かない代わりに、約6,000名の人員を残すキスカ島への救出作戦を実行することを大本営に約束させたという記録があります。


そして現実に、7月29日にはこの救出作戦は実行に移され、日本は潜水艦3隻を失いながらも、約6000名全員を助け出すという奇跡的な成功を収めているのです。


確かにアッツ島の救援に行かなかった日本軍の行いは酷いことに見えますが、こうした気概を持った者たちが軍部の中にも確実に存在していたことを忘れてはいけません。


これに加えて、アッツ島に取り残された山崎大佐と、救援の断念を伝える樋口陸軍中将の通信もしっかりと記録に残っています。


援軍は送れないと言った樋口中将に対する、山崎大佐の返答は下記のようなものでした。


「戦さする身、生死はもとより問題ではない。守地よりの撤退、将兵の望むところではない。 戦局全般の為、重要拠点たるこの島を、力及ばずして敵手に委ねるにいたるとすれば、罪は万死に値すべし。 今後、戦闘方針を持久より決戦に転換しなし得る限りの損害を敵に与え、九牛の一毛ながら戦争遂行に寄与せんとす。 なお今後の報告は、戦況より敵の戦法及びこれが対策に重点をおく。 もし将来、この種の戦闘の教訓として、いささかでもお役に立てば、望外の幸である。 その期いたらば、将兵全員一丸となって死地につき、霊魂は永く祖国を守ることを信ず」

つまり、

戦争をする以上、死ぬのは覚悟している。撤退は望むとこではない。重要拠点のこの島を敵に渡すことこそ罪なのだ。 これからは援軍を待つのではなく、攻撃のみに切り替え、敵に少しでも損害を与えようと思う。 そしてこれからの連絡は、敵がどんな戦法をとって来たか、それにどう備えるべきかに重点を置くことにするから、今後の戦い方の参考にして欲しい。 そして時が来たなら、全軍一丸となって突撃し、その霊はこれからも祖国を守り続けます。

と言っているのです。

援軍を送れない軍に対して、文句一つ言わないどころか、自分たちの戦い方を参考にしてくれといっているのです。

そして山崎大佐はこの通信で宣言した通り、300名の兵を連れてアメリカ軍に突撃を果たすこととなります。


この最後の突撃における山崎大佐の奮戦は敵国のアメリカでも語り草となっており、自ら軍団の先頭に立ち、右手に軍刀、左手に日の丸の旗を持ち突進を続けました。


そして驚愕するアメリカ軍の戦線を次々と突破し、敵陣深くまで切り込んでいったのです。


この際も、アメリカ軍は繰り返し降伏勧告を放送で流していたそうですが、彼らは誰一人として降伏することなく、異国の地に散っていったのです。

後年行われた発掘調査においては、突撃した日本軍の先頭に山崎大佐の遺品と遺骨が発見され、この壮絶な突撃が事実であったことが証明されました。


また突撃に際して山崎大佐は、大本営に対して、これから突撃を敢行すること、軍事秘密の漏えいを警戒して無線機を破壊することを伝えて来ていますが、この報せを聞いた昭和天皇は、連絡が届かないのを承知で「最後まで良くやった!」という通信を送らせ続けたといいます。


これがアッツ島玉砕のもう一つの事実なのです。

確かに、援軍を出さなかった大本営のやり方には納得がいかない点もあるかもしれませんが、アッツ島で戦った山崎保代大佐、そして戦死した兵士たちの精神は正に侍の気高さを有しています。


そして、アッツ島と引き換えにキスカ島を救った樋口季一郎陸軍中将、貴重な潜水艦を失いながらも約束を守った軍の上層部。


戦争という狂った状況の中でも、彼らは決して日本人の誇りを失っていなかったのです。

もしアッツ島の守備隊がこれ程の奮戦をしていなけば、キスカ島はもっと早く陥落していたでしょうから、約6,000名の奇跡の救出劇も叶わなかったはずです。


それでもあなたは、山崎隊の決死の突撃が国に強要されてのものだと思いますか?

歴史は、見方、切り取り方によって大きく印象が変わってしまうものです。


先に述べた生存者の方の証言が、アッツで散った方々の意見を代表しているように聞こえてしまいますが、残りの約2,600人の意見を聞くことは永久に出来ないのです。


私には、繰り返しの降伏勧告を無視し、突撃を行った方々の行動が強制であったとは到底信じられません。


また考えるべきは、この生存者が話した内容の全てを、メディアが伝えているとは限らないという点です。


長い話の一部を切り取り、時には繋ぎ合わせることはマスコミの得意技なのですから。

最後に別のアッツ島生存者の言葉を記させて頂きます。


私はもう、二度と戦争はしたくない。

でも、もし国土を侵されるようなことかあれば、また何時でも武器を取るつもりだ。

どうですか?最初の一文のみの場合と、全ての文を読んだ際の感想は、全くの別物になっていませんか。


残念なことに、このような情報の操作が普通に行われているのが、日本のメディアの現状なのです。


このブログをお読み頂いた方々には、あの悲惨な戦いを生き残り、多くの仲間を失った方が残したこの言葉の意味を、しっかりと噛み締めて頂きたい。


あなたはこの壮絶な戦いで亡くなっていった方々の魂を、国に捨てられたら、哀れな亡霊だと思いますか?

それとも、祖国のために身を挺して戦い、散っていった偉大な英霊たちとして手を合わせますか?

極寒の地・アッツ島の戦いで玉砕された約2,600名の方々は何も語ることが出来ません。

それを決めるのは、彼らに命を繋いで頂いたあなた自身なのです。
Posted at 2018/05/31 00:31:26 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2018年05月30日 イイね!

追悼・アッツ島守備隊戦記

軽井沢ミーティング報告の途中ですが、5/29もまた私の尊敬する歴史上の偉人の命日に付、本ブログをあげさせて頂きます。


キーワードは如何なる苦難に陥ろうとも自らの職責を果たし、事に臨んではリーダー自らが先頭に立って行動すること。


今から75年前の大東亜戦争中期の1943年5月29日、北はアリューシャン列島のアッツ島の日本軍守備隊が玉砕しました。守備隊長は山崎保世大佐(戦死後二階級特進で中将に。以下中将と記す)です。


前述の加藤隼戦闘隊の活躍も筆頭に開戦当初は日本優勢であった戦局も、ミッドウェー海戦での主力空母の全滅とそれに続くガダルカナル島攻防戦による大消耗戦により守勢にたたされました。


東南アジアから太平洋迄延びきった戦線の維持も困難になった頃の1943年5月12日、ミッドウェー作戦と呼応して占領したアッツ島に艦砲射撃と空爆と呼応した陸海空よりの米軍の反撃が始まり、約2万の大軍が上陸しました。


対する日本側守備隊はわずかに2500余り。戦う前から勝敗は決していると、米軍は息巻いておりました。


一年中を通じての濃霧等の悪天候と敵の包囲網から援軍も補給もおぼつかない状態。東京の大本営も苦慮し、守備隊としても陣地構築も不十分。準備不足は否めませんでしたが各所で一進一退の攻防戦が繰り広げられました。


装備優秀な10倍以上の敵を前に6000以上の損害を与える鬼神のごとき働きぶり。陣頭指揮には常に右手に軍刀、左手に軍旗をはためかせ、部下を叱咤激励し続ける山崎中将の姿がありました。「不利なことは百も承知。だが何としても敵に寸土も譲ってはならぬ!それが我々に課せられた任務である!」それを見て勇気百倍の部下達「隊長に続け!」と、獅子奮迅の働きを見せます。


血戦死闘実に18日、戦局遂に我に利あらず。守備隊は日々刻々と変わる戦況を伝えておりましたが、5/29山崎中将は大本営に最後の打電を行います。


二十九日一四三五、海軍五一通信完了、一九三〇北海守備隊受領
「一 二十五日以来敵陸海空の猛攻を受け第一線両大隊は殆んと壊滅(前線を通し残存兵力約150名)の為要点の大部分を奪取せられ辛して本一日を支ふるに至れり

二 地区隊は海正面防備兵力を撤し之を以て本二十九日攻撃の重点を大沼谷地方面より後藤平敵集団地点に向け敵に最後の鉄槌を下し之を殲滅 皇軍の真価を発揮せんとす

三 野戦病院に収容中の傷病者は其の場に於て軽傷者は自身自ら処理せしめ重傷者は軍医をして処理せしむ 非戦闘員たる軍属は各自兵器を採り陸海軍共一隊を編成 攻撃隊の後方を前進せしむ 共に生きて捕虜の辱しめを受けさる様覚悟せしめたり(以下略)」

北二区電第九二号(一八四〇、海軍五一通より通報)
「五月二十九日決行する当地区隊夜襲の効果を成るへく速かに偵察せられ度 特に後藤平 雀ヶ丘附近」


打電後、通信機は破壊されました。動けぬ傷病兵は「足手まといにならぬよう、お先にいっております」と、ことごとく自決。動ける勇士はわずかとなるも降伏して捕虜となることを潔しとせず、敵主力に対し最後の突撃を敢行。全員壮烈なる玉砕を遂げました。


戦後しばらくしての戦場整理の折、守備隊の一番先頭には軍刀と軍旗を握りしめたままの山崎中将の遺骨が発見されたと言われております。


「指揮官先頭」帝国陸軍の伝統を守った見事な散り際でありました。

大本営発表(昭和18年5月30日午後17時)
1)アッツ島守備部隊は5月12日以来、極めて困難なる状況下に、寡兵よく優勢なる敵に対して血戦継続中のところ、5月29日夜敵主力部隊に対し最後の鉄槌を下し皇軍の神髄を発揮せんと決意し、全カを挙げて熾烈なる攻撃を敢行せり。
 其後通信全く杜絶、全員玉砕せるものと認む。
 傷病者にして攻撃に参加し得ざるものは、之に先立ち悉(ことごと)く自決せり。
 我が守備部隊は2500名にして、部隊長は陸軍大佐山崎保世なり。
 敵は特種優秀装備の約2万にして5月28日までに与えたる損害6000を下らず。
(2)キスカ島はこれを確保しあり。


昭和天皇は、アッツ島玉砕の上奏をした杉山元参謀総長へ「最後まで良くやった。このことをアッツ島守備隊へ伝えよ」と命令しました。杉山はすかさず「守備隊は全員玉砕したため、打電しても受け手が居りません」と言った。これに対して昭和天皇は「それでも良いから電波を出してやれ」と返答した、といわれております。こうして、無念にも散って逝った守備隊へ向けた昭和天皇の御言葉が、決して届かないであろう事を承知した上でアッツ島へ向けて打電されました。

Posted at 2018/05/30 16:03:16 | コメント(0) | トラックバック(0)
2018年05月29日 イイね!

軽井沢ミーティング2018報告3

さあ、鉄は熱いうちに打て!と言いますからノリにノって報告第三段!


誘導ボランティアスタッフ除隊に伴い、自由の身となりました。ひとまずは給水。この日は1日中ドピーカンの晴れ!陽射しも強く気温も上昇しました。ペットボトルの上手いコーヒーは終日手放せず、朝早くの寝不足と空腹からフラフラともなりました(苦笑)


しかし、後々に昼食を取り、抽選会の時にノンアルコールビールとアイスクリームを投入したところ一気に回復しました。


旧友の方々、軍団本部の方々等々一通り挨拶まわりも済ませ、広大な会場内第一駐車場から第二駐車場、ショップブース、各個人のフリーマーケットと、目を皿のようにして回ります。それから本部付近ベースのトークショーから幼子達の微笑ましいペダルカーレースなどイベント盛りだくさん。

1日で回りきれないなどと甘ったれては行けません。閉会迄はホントあっという間です。もうちょい見れば良かったなんて後悔は後の祭りです。休憩したい、眠い、暑いなどと言ってる暇は無いのです。

一歩でも歩きまわれ!全身全霊をかけて一年に一度しかない祭りを楽しめ!ぶっ倒れたら這いつくばってでもまわれ!いざ、強行軍!!(※あくまでも自己責任となります。ロードスターは使用上の注意をよく読み、ミーティングは無理なく楽しみましょう)


更には私にはもう一つ大きな目的があります。それは全国167台限定のクラシックレッドND乗りの方々をミーティングで探しだし声をかけて回る、よろしければお友達になる!というものです。


先だって会場誘導の際にクラシックレッドNDを作られたマツダの中山さんという方にお会い出来ました。「あなたのクラシックレッドへのこだわりに対する文章を読んでいたら限定NDを買ってしまいました!」とお話することが出来ました。


思い起こせば中山さんのおかげでロードスター2台体制と人生を狂わされた…、もとい…素晴らしいクルマに出会えたという訳でありますから感慨無量であります(笑)

まだまだ続く!

Posted at 2018/05/29 18:04:22 | コメント(0) | トラックバック(0)
2018年05月29日 イイね!

軽井沢ミーティング2018報告2

報告はスピード勝負!続けて参りましょう!

私も長年の経験から長短の誘導灯の二灯流を持ち込んで参戦!

第一駐車場は碓氷峠からとアウトレットのある駅側からとの2正面作戦にてロードスターを招き入れます。また、チケットの種類により第二駐車場へのご案内も必要です。

乗り手の方々にはプラカードでも情報を伝え、更には身振り手振り。スタッフ間に飛び交う伝令と無線により、ゲートオープン8時と共に雲霞の如く押し寄せるロードスターをお出迎えします。また、他の一般車両も通りますから妨害をしてもいけません。


「峠側(駅側)機影見ゆ!その数、2,3…まだまだ続く!」「一般車両来る!注意されたし!」「止まって下さい!さあ、こちらのゲートへ!」「減速せよ!しばし待たれい!」「昼食補給部隊車両か?こちらから入られよ!」等々、様々であります。


腕が痛くなるほどに誘導灯を振りかざし、おはようございます!と参加者の皆さま方へもご挨拶に声を張り上げ、激闘一時間半。0930ゲートクローズとなりました。


…戦火も止んでほっと一息。ちょっと反省会もして有志部隊はこれにて解散・除隊。銘々に「また来年!」と声を掛け合い早朝誘導の任務は完了となります。まさに完全燃焼でした。


「さてさて、今日も無事に終わったわい…」「あ!開会式は1000から、ミーティング本番はこれからだった!」と、思い直すのも毎年恒例です(笑)

続く
Posted at 2018/05/29 00:34:28 | コメント(1) | トラックバック(0)

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