フォードが誇る、大ヒットを飛ばしたリンカン・タウンカーが、日本の技術の上に成り立っていたと言うお話です。
世界の自動車製造会社各社、数十年おきにワールドカー、またはグローバルカー構想、要するに共通車台を開発し、世界中で使い回すと言う、聞こえはいいのですが、結局経費節約の裏技術、妥協の産物に化とし、余り良い余生を迎えた話は聞きませんでした。
その世界車構想、興味深いのが、世界中の知恵を絞って開発しました!と、前面に宣伝で打ち出す姿勢を取った車種と取らなかった車種があった事でしょうか。
例えばGMの有名なTカー。いすゞと独国のオペルが中心となって開発されたサブコムパクト車。鈍臭い(ごめんなさい)ベレットに変わり、クリーンな欧州風のラインで当時の日本では受け入れられるか、それ程画期的なデザインだったと思います。それが、世界中で共通車台で販売されています、と宣伝したのは日本くらいだけで、我が国のシェヴェット、オペル、英国のヴォクゾールやブラジルでも各国共同開発!等の宣伝は殆ど見受けられませんでした。敵国の技術を借りて作りました、と言うのが嫌だったのか。当時日本の自動車雑誌、カー・グラフィックたTカーの特集で日本からジェミナイをわざわざ北米やら欧州に持っていき、各国の兄弟車と比較した記事がありましたが、あれは世界を視野に入れた、画期的な素晴らしい企画でした。今じゃあの様な高い質の雑誌の記事は見かけません。
45歳の若さで他界した英国人のジェームス・ハント。心臓発作でした。
世界車と大々的に宣伝したのはぼくの知る限りいすゞだけでした。
アクタング、ベイビー!
我が国ではシェヴォレイのシェヴェットの他に、ビュイックのサブコムパクトとして、オペル・バイ・いすゞでビュイックの廉価版と位置付けて結構しぶとく売り続けました。最初の数年はいすゞの名称を入れていましたが、後に単にビュイック・オペルの名称に変更。
独國側は極東から来た自動車に誇り高き自分の社名使われるのをすごく嫌ったと察します。因みにスバルと同様、いすゞと言う名称は英語圏で難しい発音の名称です。
藤沢から全米へ嫁いで行ったビュイック。
クライスラーでも1970年代、欧州クライスラーと米国クライスラーでサブコムパクトの、VWラビット・カローラクラスに対抗する車種を共同開発、とは言われたんですが、外観は極めて似ているもの、機構的には別物の小型車。欧州版のタルボット・オリゾンと、北米版のダッジ・オムニ別名プリムス・ホライゾンを出しましたが、共用している部品は殆どなく。結局ワールドカーの名称は付かず。
これが欧州版の ”オリゾン”
そうです、英語のホライゾンをフランス読みしただけです
似たようで別車のダッジ・オムニ。VWのEA827, 1,700ccエンジンを積んでいました。このLボデーと言われる小型車は後にエヤバッグや高性能版も出して、1978年から1990年まで事実上同じ車体で生産し続けられました。1981年頃、キャナダはオンタリオ州トロントで借りた覚えがあるのですが、小型車のくせして羽のように軽い操舵、ブカブカに柔らかい下回り、まるでこれじゃダッジ・アスペンの中古車を縮ませたようだなと感じたのを今でも覚えています。。。
高性能版のGLH。GLHとは正式には公表されてません(公表できなかった)のですが、Goes Like Hell、悪魔の様に突っ走る、の意味です。この名称は保守的宗教の信者(と言うことは全米の多数)から大いに文句が来たそうです。彼らは ”Hell” 地獄と言う言葉は禁句に近い言葉なのです。GLHは当時クライスラー会長のリー・アイアコッカの友人、キャロル・シェルビーに手がけて貰い、最終盤は過給機を装備してとんでもないホットロッドになりました。明らかにVWラビットのGTIを仇にしていましたね。。。
1981年にフォードから鳴り物入りで颯爽と登場した、これまたサブコムパクトのフォード・エスコート。旧態化したフォード・ピントに変わる、世界の技術の結晶のワールドカーと、高らかに、各国の国旗を描いたベールを脱いで颯爽と登場。でも蓋を開けてみれば、各国の国旗に描かれてる国々とは余り関係が無く、ワールドカーと言ってもデトロイトと英国フォードが開発に関与した(あと独国フォード?)、懸架装置は全くの別物、強いていえばエンジンが共通だったくらいでして。当時資本関係を始めたマズダが開発に加わっていると思ったのですが、新型のGLC(323)は似たようで別物。フォードもエスコート登場次の年から広告にワールドカーの文字が消えて皆、忘れた事に。まあこのエスコートは後にマズダ製のジーゼルエンジンを載せた事がいくらか関係あったみたいで。でも次期エスコートはほぼマズダ開発になったので、日米共同開発ワールドカーになった上、フォード側もそこそこ、マズダの技術を資料に記していました。
初年度は盛んにワールドカーと謳っていた北米版、フォード・エスコート。
初年版にはわざわざ地球を模ったエンブレムまで付けていたのですが、次の年からやめました。
アヒルのお尻みたいにハッチバックの端が突き出ているのは似ていますが、エンジンを除いて共通点のほぼ無かった、欧州版のエスコート。ワールドカーとは全く宣伝してませんでした。
同時期に登場したマズダGLC/323も関連性があるように見えましたが、全く関わりを持たず。
クライスラーはGLHで顰蹙を買いますが、マズダの方はGLC。Great Little Car。素晴らしい小さな車と名づけます。ステーションワゴン版は新型が前輪駆動に移行した後も継続販売されました。コヤツはアフリカでしたっけ?三菱のエンジンを積んだり、インドネシヤでは1990年代後半まで売られていましたね。十分元が取れた。。
フォードの次の世界協力事業がリンカンのFN36。そうです、1990年にモデルチェンジしたタウンカーです。あの頃のリンカンは車名と車格がコロコロ変わり、一番でっかいリンカン・コンチネンタルのグレード名のタウンカーがそのまま、車種になっちゃったんですね。そのコンチネンタルはダウンサイズされフォックス車台の中型になっちゃったんですからややこしい。
これはパンサー車台にダンサイズされた頃のタウンカー。この後、製造各社の予想とは裏腹に原油価格が下がり出し、このフルサイズのリンカンはバカすか売れ出すのです。
次世代の大型リンカンを考えていたグループは、流線型に衣替えした量販中型車、トーラスの大ヒットを目にし、保守派のリンカンも大変身したいと上部に折衝しますが反対に合います。やっとの事で反対を押し切ったものの、今度は予算と時間に攻められ困ります。それを前後して英国に旅行していたある管理部の人が、IADと言う自動車開発の会社を発見します。IADは自動車製業会社から受託され、試作車の開発・製造、技術開発、少量生産を得意とする技術集団で、予算と時間の制約をかけられていたFN36の開発を受け持つ事になります。同時にFN36の外板プレスと車体製造を、ちょうどデトロイトに進出してきた群馬県太田市の金型プレスの老舗、荻原鉄工に委ねます。当時自動車の外板は外注される事が多く、特にフォード系は昔からの鉄工屋さん、バッド社に依頼していたのですが、品質やら納期に問題が多く、他社に変える事を思案していたところ、丁度荻原鉄工がデトロイトに進出してきたのでした。
その後業績悪化したバッド社は倒産、事業終了。確か樹脂板部門はSMC, シート・モールデッド・コンパウンドと呼ばれる樹脂で外装を作る、ポンテイアック・フィエーロの製造を担当していましたが、今はどうなっているか。。。バッド社は米国で初めてのモノコック車体を作ったので名を知られていましたが、主に鉄道車両の製造の方が有名でした。
IADの英国、荻原さんの群馬とホットラインを設置したリンカン技術部は突貫工事でFN36の開発を進め、1990年に晴れてジョブ・ワンを世に出します。ワールドカーとは言われませんでしたが、太平洋と大西洋の技術協力で日の目を見たこのリンカン。当時としては驚異的な空気抵抗値0.36を記録。斬新な形の中にも伝統的な形状が趣味よく散らばれていて新世代の大型豪華車として大ヒット。屋根に架装が無い、スリック・ルーフ、要するにパデッドルーフやらヴァイナル・ルーフが装備されない鉄板だけの屋根、新世代の格好でした。
屋根の後端が下がっているのがいいです。小さなオペラウィンドウも忘れてません。
白壁タイヤとこのプレーンなハブキャップも似合います。
新しい企画と伝統的な味をどう残すかはいつの時代も微妙で、大ヒットのトーラスを真似て、1992年に流線型になったクラウン・ヴィクトリア。初年はこののっぺら顔が不評で1993年には早々と改良なされ、きんきらきんのラジエータ
グリルが付加されました。この流線型になった1992年からステーションワゴンが無くなります。
でもどうしてもと言う顧客層にはデーラーで随分パデッドルーフやらキャリッジルーフを架装していた模様。これは後扉の縦サッシまで覆ったやつ。意外とサマになってますね。
1993年に ”改良” された クラウン・ヴィック。ラジエータ・グリルの追加。
そうそう、この車輪、当時からタウンカーも含め、このメッシュ型はBBSです。と言う事はこれも富山製?ワールドカーですね、足元から。
FN36に乗った方はご存知と思いますが、後席の扉が縦長で非常に乗降し易いんです。流石、正統派のセダーン、リヴリーにも文句なく使えます。
これは後期型の後席。扉の取手やら細部が丸まっているのが分かります。
荻原さんはその後も忙しく、今ではクライスラーやらフォード社各車種の外板、内板の製造されてます。
FN36のヒミツ。トランクリッドの後端、一番下の部分ですね、水平に伸びるメッキの飾りの直ぐ上です。この下端が尾灯を囲むメッキの飾りと平面になっておらず、下端が若干内側に反っている点。製造前に発覚したそうなんですが、この部分の修正に莫大な時間と経費がかかるそうで、結局この形状に落ち着いたとか。車体設計は難しいもんですなあ。。。
バッド社はコーチビルダーでしたが、GMもフィッシャー車体部門を傘下に抱えていて、昔のGM車は至る所に、その証が記されていましたね。昔の馬車製造の名残。。
それがキャデラックになると車体はフィッシャー、内装はフリートウッドとね。いいなあ、あの時代。フリートウッドはフィッシャー傘下の部門です。フリートウッドは元々はフリートウッド金属車体と言う、ペンシルヴェニア州にあったコーチビルダ。それをGMのフィッシャーが買収したもの。知らなかったんですが、ペンシルヴァニア州フリートウッドと言う街はぼくが小さい頃よく休暇で行ってたペンシルヴェニア州東部を流れるサスコハナ川からそう遠くない場所にあり、行かなかったのが悔やまれます。アメリカ合衆国建国当時のオリジナルの州の一つ、ペンシルヴェニアなんかに行くと、当時の古い建物がまだ結構残ってたりします。
FN36は1995年に大改良され、さらに魅力的に。計器盤のスイッチでパワーステアリングの力を任意に変化できる装置が面白かったですね。思い出せば昔、イタリヤで借りたフィアットのウーノだったかしら、にも同じようなボタンが付いていました。確かそれにはシテイーとハイウェイと書かれていたっけ。。。
日本では西洋の有名人を宣伝に起用するのが有名ですが。。。
プロフェッショナル・ゴルファーのジャック・ニクラウス氏もFN36に彼の特別仕様を出していました。ロイヤルテイー幾らだったのかしら。。。
あっ、そうそう。ポンテイアックにも。。。
1976年でも。。。。
そのジャック・ニクラウス氏の近況。まだお元気そう。
リンカン・コンチネンタル。昔の広告。
同じ車種、翌年の広告。あれ、この人どっかで見たような。。。
そうです、トム・セリックさん。ハワイを舞台にした探偵番組、マグナムP.I.で一躍有名になった俳優さん。この人のおかげでフェラーリが我が国で、どこの主婦にでも知られる銘柄になりました。
そうそう、彼はダッジでも働いてましたね。駆け出しの俳優業、ご苦労様でした。
背の高いセリックさんが駆るフェラーリの座席には仕掛けがあって普通より数段低く座面を改造していたそうです。それじゃ無いと開いた屋根から頭が突き出て滑稽に見えるからだったそうです。。。エピソードの一話で彼がホンダのN600に乗る場面がありましたけど、彼、どうやって運転台に座ったのかしら。。。
ハワイで大活躍をしたセリック氏、なんとオアフ島空域の位置報告点に彼の名がつけられているのです。(綴りは多少異なりますが。。)
でも矢張りタウンカーといえば、最終型のFN145ですね、それも車軸間が長いやつです。昔、加州で空港間の移動に会社が使っていたタクシーがそれそのものでした。無口なインド人のおっさんが絶妙な手捌きで横揺れのGを全く感じさせず夜のフリーウェーを滑るように転がす黒塗りのタウンカー。良い思い出です。
全く関係のない画像。東京都昭島市。右に見えるのは旧プリンス自動車村山工場跡。上が横田基地。左下が立川基地。
今日のおまけ画像。今日も来る巨人機。搭乗率は聞かないでね。