2014年03月11日
今日は3月11日ですね。
ども。ツ→サンです。
※今日はかなり長文・かたい文章になると思います。読みたくない方はここでお戻りください。
東日本大震災から3年がたちました。
主な被災地は岩手、宮城、福島ですが 一応ボクも青森県で一番津波の被害を受けた市の住民です。
幸いボクは直接的な被害は免れましたが...
宮城などの被災地の方々に比べると全然比になりませんが、寒い中数日に続く停電・大きな余震・ガソリン不足など大変な経験をしました。
でもやはり あの時の経験は確実に、日に日に薄れていっていると感じます。
とくに中身の濃い内容や良いことを書けるわけでもありませんが、今日は記録的な意味でもあの時のことや感じたことを語りたいと思います。
3月11日(金)
一年の中で一番忙しい春先の時期ですが、諸事情で一人で仕事を回さなければいけない日々が続き 体力的にも精神的にも本当に辛い時でした。
この日も納車やら商談前のルームクリーンやらでパンク寸前....
北海道に納車で午前中にはフェリー埠頭へ持って行くとゆうハイエースキャンピングの掃除を朝イチで終わらせ、次は商談のキャンピングトレーラーのルークリを始めました。
そして14時半頃に終わり仕上げの洗車をしていました。
ウチの倉庫は2レーンあって片方はボクらの仕事場、隣りは車検場のレーンになっています。
いつものように検査員が車検場にクルマを入れていると、降りてきて
検査員:「地震くるってよ〜」
おそらく車検のクルマの中でラジオの地震警報を聞いたのでしょう。
ボク:「マジっすか!?笑」 「おっ!おっ! ほんとにきた〜 すげ〜笑」
最初はこんなノリでした。
でも どんどん強くなる!
もうシャレにならないくらい強くなって、お隣のクルマ屋からは整備士やらセールスマンやらが飛び出してくる。 同時にボクらも走って倉庫から離れる!
倉庫に目をやると、ウチの倉庫は鉄骨にプレハブ小屋のような薄い壁が張ってあるだけのような倉庫なんですが、建物自体がブルブルと震えてる。
展示車両のクレーン車の伸ばしているクレーンは激しく揺れ、積載車のキャブも ぐわんぐわんと跳ねてる!
だんだん弱くなってきたと思ったらまた強くなる。
こんな感じが何回も繰り返され、その時にはもう車検場のモニターは消えていたので停電が始まっていたと思います。
実際はどのくらい揺れていたかはわかりませんが、体感的には5分も10分も揺れているように感じ、この揺れはほんとに収まるのだろうかとも思えました。
そんな長い揺れもやっと収まり しばらく周りは騒然としていましたが、チラホラと家族に連絡を取りはじめる姿が。やはりなかなか繋がらなく何回もかけてました。
地震直後の野外は異常な静けさで 遠くでは緊急車両のサイレンの数が徐々に増えてゆく。
隣りのクルマ屋に入ると中は停電のせいで薄暗く、警報も鳴り響き不気味な雰囲気。
発電車が在庫であったので少し動かしてましたが、停電して仕事にならないので 倉庫の倒れそうな脚立などを片づけてから隣りのクルマ屋と共に解散。
ボクの家は仕事場から歩いて10分くらいでbB出禁なのもあって、徒歩出勤なんですが、帰ってる最中はあまり記憶はありません。恐らくもう道路は渋滞していたと思います。
ここまでで地震発生から1時間くらいでしょうか。
家には母親と姉がいて 既に父親とも連絡が取れたらしく、ボクの家族の無事は確認できました。
しばらくラジオを聞いていて、八戸の津波到達時刻は16時50分くらいとのこと。
でもあんなに大きな津波になるとは思ってもいなかったので、普段のように避難はしていませんでした。
食材調達とゆうことで3人ですぐ近くのコンビニへクルマを出しました。
やはりごった返していて駐車場も大混雑でとりあえず2人を降ろし、自分はすぐ動かせるようにクルマで待機しながら、ニュースを見ていました。
時刻は丁度 到達予定の16時50分。
アナウンサーの声と共にライブカメラで自分もよく知っている漁港がずっと映し出されていましたが、だんだんと水かさが増えてゆきました。
正直 地震での津波の恐ろしさをあまり知らなかったので
「おぉ~ 増えてきた~」
といった感じで見ていたんですが、一変しました。
よく知っているコンビニももう完全に屋根まで水没しそうになり、大きな漁船が岸に打ち上げられ横転してゆく.....ここで初めて事の重大さを知りました。
一人クルマの中で全身に鳥肌が立ちながら見ていたのをよく覚えています。
今でも津波の映像をみると全身に鳥肌が立ちます。
夜は携帯(当時は)の電池を気にしながら、地元や宮城の友達に安否確認のメールしたり.....強い余震も数えきれないほどあり、玄関の外まで避難するのもしばしば。
この夜は本当に寒かったのを覚えています。
そしてラジオでは、どこかの海岸に200体以上の遺体が打ち上げられたとの情報も。
聞いただけで怖かったですね。
翌朝は クルマへ暖をとるのとニュースを見に。
夜中にラジオ聞いていたんで 今回の地震がどれほど とんでもないものかわかってきていましたが、実際に映像で見ると絶句ですよね.....
そして停電のまま2日目の夜を迎えようとしていました。
さすがにこの異常事態の疲れた心で薄暗くなってゆくのは精神的にきそうでした.....
家はブレーカーを上げて通電させるとインターホンが「ピローン」と鳴るんですが、たしかその明け方だったと思います。いきなりインターホンが「ピローン」と鳴りました。
正直その時は 寒さからの解放とテレビで気が紛れるのとで安堵でしたね。
この時は自分たちの事しか考えられませんでしたが、今思うとボクら家族が無事で家で集まっているときに、電力会社の方たちが懸命に復旧作業をしてくださっていたおかげです。もしかしたら家族と連絡を取れないまま復旧作業をしていた方もいたかもしれません。
ずっと前にドラマ「救命病棟24時」で東京大震災を想定してテーマにしたシリーズがありました。彼らは人の命を救うこと、いなくてはならない存在なので大震災でも自分のこと、家族のことを二の次にして懸命に働いていました。
こう考えると 命を救う仕事だけじゃない。少しでも早く街の復旧の為に懸命に動いてくださった方たち、また他にもボクの知らないところで間違いなく動いてくださっていた方たちがいたんですよね。
もちろん地震直後に対応していたスーパーやコンビニ、その他の店の従業員さんも急いで帰りたかっただろうし、家族の心配もあったでしょう。
本当にその方たちには感謝です!!
後日談になりますが 停電も復旧しボクの仕事も再開し始めてまもなく グシャグシャに壊れた見覚えのあるハイエースキャンピングが運ばれてきました。
.....そう.....3月11日の朝イチのキャンピングです。
埠頭に待機させてた為 無人だったのでよかったんですが、津波に流されフェンスに絡みついてたそうです。
テレビの映像でしか見ていませんでしたが、実際にグシャグシャに壊れた鉄の塊を間近で見ると恐ろしいものがありました。
自分の家と職場はわりと海に近くてクルマで10分も走れば行けるでしょうか。 特に職場なんか近くに小山とゆうか丘って言うんでしょうか...そこの2、300m位の短いトンネルを抜けるともう海です。
そのおかげでこっちには津波はこなかったんですが、もし宮城級の津波が来ていたら確実にボクの家まで呑まれていたでしょう。
地震のあと家族の中では避難したほうがいいんじゃないかとゆう話も出ました。
ボクは津波の恐ろしさをあまり知らなかったし、普段少し強い地震がきても結局は50cmとかのレベルで それに慣れてしまって「大丈夫だろう」と意見しました。
でも今思うとこの判断は恐ろしいです。
実際にこうゆう判断で命を落とされた方がたくさんいると思います。
そのためにも津波の恐ろしさ、また地震自体の恐ろしさをこの震災を語り続けて、教訓にしていってほしいですよね。
そして 日ごろからの緊急時の備えも大事ですね。
このブログをどう〆たらいいかよくわかりませんが、復興もなかなか進まず いろいろな問題もありますが、がんばろう!東北!
Posted at 2014/03/11 18:15:15 | |
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