どうも、KANです。(^^)
ものすご〜く!
物凄く久しぶりなBlogになります。(笑)
ダラダラと長文のBlogになりますが、
ご容赦を。。。m(__)m
公私ともに激しく忙しい日々を過ごし、
気がつけばもうすぐ10月に。。。
また一つ、歳を重ねてしまう時期になりました。。。
今年は春先から
本当にいろんな事があります。。。
そして先々月
激務に追われている中、
突然、病院から連絡が入り、
いきなり親父の末期ガンの宣告です。
ガンの進行状況からも年齢的にも具体的な治療の手立ても無く、
入院から大凡1ヶ月強、
先月8月25日に永眠しました。
その事で、諸々の手続きなど、
更にいろいろと面倒な事案に向き合っている日々を送っています。。。
「相続」と言うと笑ってしまうような
レベルの低い話になってしまうのですが、
身内が亡くなると、保険請求の手続き等で
故人の出世から除籍までの経緯を辿らなくてはならない現実に直面します。
今回のBlogの題目は…
その経緯の中で判明した事実の話です。
実は私の親父は
幼少時代から複雑な家庭環境で育ってきた過去がありまして。。。
子供の時代から結婚して
私が生まれるに至る時代まで
親父の母方の兄の養子として
別の姓を名乗っておりました。
当然、私も今とは違う姓を名乗っていた訳ですが、
さて。。。
今回のBlogのお話は
親父が養子として過ごしていた時代の
親父の弟の話です。
残念ながら、
過去の事をあまり口にしない親父のおかげで、
私は面識も記憶にもない事だったのですが、
親父の戸籍を追跡する過程で判った
無類の車好きな自分にとっては
とても驚愕な事実になります。
彼は日本のレース史上の梁明期、
1965年〜1968年の
僅か3年間という短い期間に
トップカテゴリーの一つ下、
ツーリングカーのカテゴリーで活動していました。
この当時は、
各自動車メーカーのワークスも
ツーリングカーのカテゴリーを
主力として参戦していて
ハコスカGTRなどデビューする前で、
プリンス自動車が日産自動車と合併した頃のプリンススカイライン2000GTや
いすゞベレットが熾烈な争いを展開していた時代でした。
彼は
1965年に18歳で
当時、舘信秀さんや三村健司さんが創設した立教高校の伝説のレーシングチーム
ロッドベンダーズのメンバー
高校生(当時最年少)で
鈴鹿の全日本選手権でデビューし、
3年間という短い期間で
いすゞセミワークス(ISCC)、トヨタセミワークス(TMSC)に所属、
船橋サーキット(現船橋オート)や鈴鹿、富士でツーリングカーのカテゴリーで
スプリント、耐久レースと
21戦5勝というという脅威的勝率の若手だったそうです。
そして…
1968年5月
富士で開催された第5回日本GPで
トヨタ1600GTを駆り、レース中の大事故により頚椎損傷という重症を負ってしまい、そのレースを最後に21歳で引退を余儀なくされてしまいました。。
この当時はレース業界でも
日産とトヨタはじめ
自動車メーカー同士がプライドを賭けて
ぶつかり合い、
勝利至上主義が最高潮に膨れかっていた時代でもありました。
予選4位
チームTMSC トヨタ1600GT ゼッケン7
本戦4番グリットからスタート
トップ集団の中2位争いの熾烈なデットヒートを展開中、6周目の300Rの立ち上がり、入り口ではなく立ち上がりです…
後ろに張り付いていた排気量の勝るスカイラインに後ろから押され、バランスを失った1600GTは立ち上がりでスピードが乗ったままイン側の土手を駆け上がり、そのままの勢いで横転し、屋根が押しつぶされてしまったそうです。
勝つ事が命題のワークスチーム。
何がなんでも先を走る車の前に出ようとする為のデットヒート。。
レーサー同士のプライド。。。
今ほど厳密でなかったレースでの
ルールやモラルの中で起きた
不運かつ避けることの出来ないアクシデントだったんだと思います。。。
事故後の彼は…
頚椎損傷の後遺症により
両腕から下が付随となってしまい
47年間、今でも車椅椅子の生活を送っています。。。
そのレースでの優勝は
同TMSCの大岩 湛矣さんゼッケン3(現トムス社長)
2位が故 川合稔さんゼッケン5(漫画サーキットの狼の飛鳥ミノルのモデルで
トヨタ7でレース中に事故死)
4位に小平基さんゼッケン6(TRD-USA創設メンバー)
現在の日本レース界て
名だたる重鎮たちばかりです。。
このレースは
日本のツーリングカーレース史上でも
トヨタがプリンス時代から続いた
スカイラインの
ツーリングカー王座を奪取した
伝説のレースとも言われています。
彼は当時、
そんなレース業界の人々から
若き天才レーサーと言わしめる存在だったそうです。
浮谷東次郎選手
福沢幸雄選手
川合稔選手
高橋徹選手
その他、伝説となった
多くの天才的レーサー
かつて天才レーサーと言われた
ドライバーの中には
時にその活動の過程の中で
不幸にも命を落としてしまった伝説的な
ドライバーが沢山いらっしゃいます。
しかし、
彼の場合は
その活動期間の短さや
事故が発生してしまったその時代の
レース業界の事情や
彼のその後の人生を悲観してなのか
意図的に封印され、伝説となかった
「忘れ去られた
悲運の天才レーシングドライバー」
だったと私は思っています。。。
私も含め、
みんカラのお友達の皆さんは
当然のことながら無類の車好きの面々ですから
少なからず2輪や4輪レースに興味を持たれたり、実際のレースやレースの世界を夢見た時代があったはずですよね?
レバタラの話になりますが。。。(笑)
もしあの時、彼が不運な事故に合わず
その後もレース活動を続けていたなら…
もし、あの時、
私の親父が別の道を選択して
今も彼との関わりを持った人生を歩いていたら…
間違いなく、自分も
今とは違う人生を歩いていたんだろうなぁ…
などなど。。。(笑)
比較的近い近親者に
このような人が居た事実に触れて
興奮と共に
感慨に耽っているここ数日です。。。
今度、チャンスがあれば
彼に会い行って
いろんなお話を聞いてみたいと思っています。
ではでは(^^)
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Posted at
2015/09/27 16:03:26