2019年03月25日
イチロー選手の引退会見は勉強になります
こんにちは。
どんな一流選手も引退するんですね。
イチロー選手の引退会見のほぼ全文かと思います。いろいろ参考になりますね。いくつか共通点あるので備忘録にしたいと思います!
1 実力以上のものを求められるとしんどい→上司というのは出来て当たり前みたいな、いつもそんな感じ!
2 回り道しないとわからないこともある→向き不向きは自分の理想と一致しているとは限らないし、それはやってみないと分からない!
3 引退というよりクビ!→外資系なので半年後のインセンティブを当てにして仕事したことはありません!常に短期決戦の積み重ねでした!
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28年間の現役生活に終止符を打ったイチロー
「こんなにいるの? びっくりするわ。いやー、この遅い時間にお集まりいただいて、ありがとうございます。今日のゲームを最後に、日本で9年、アメリカで19年目に突入したところなんですけど、現役生活に終止符を打ち、引退することとなりました。最後にこの日をもって、この日を迎えられたことを大変幸せに感じています。
この28年を振り返れば、あまりにも長い時間だったと思います。ここでひとつひとつ振り返ることは難しいので、ここではこれまで応援していただいた方々への感謝の思い、そして球団関係者、チームメイトに感謝を申し上げて、皆様からの質問があれば、できる限りお答えしたいと思っております」
―― 現役生活に終止符を打つことを決めたタイミング、そしてその理由をお聞かせください。
「タイミングはですね、キャンプ終盤ですね。日本に戻ってくる何日前ですかね……何日前とはっきりとお伝えできないんですけど、終盤に入った時です。もともと、日本でプレーするところまでが契約上の予定ではあったんですけど、キャンプ終盤でも結果が出せずに、それを覆すことができなかったということですね」
―― その決断に後悔だったりはあったりしますか。
「今日のあの球場での出来事……あんなものを見せられたら、後悔などあろうはずがありません。もちろん、もっとできたことはあると思いますけど、結果を残すために、自分なりに重ねてきたこと、人よりも頑張ってきたとはとても言えないですけど、自分なりに頑張ってきたということははっきりと言えます」
―― テレビを通じて、数多くの子どもたちが見ていると思います。これから野球を始める子どももいると思います。そんな子どもたちにメッセージをお願いします。
「メッセージかぁ……。始めるものは、野球だけでなくてもいいんですよね? 自分が熱中できるもの、夢中になれるものを見つけられれば、それに向かってエネルギーを注げるので、そういうものを早く見つけてほしいと思います。それが見つかれば、自分の前に立ちはだかる壁も、壁に向かっていくことができると思うんですよね。それが見つけられないと、壁が出てくるとあきらめてしまうということがあるので、いろんなことにトライして、自分に向くか向かないかというよりも、自分が好きなものを見つけてほしいなと思います」
―― イチロー選手が熱中されてきた28年、あまりに長かったとおっしゃっていましたけど、1992年に一軍デビューされてから、フッと思い返して、このシーンが一番印象に残っているというものをぜひ教えていただければと思います。
「今日を除いてですよね。このあと時間が経ったら、今日のことが一番、真っ先に浮かぶことは間違いないと思います。ただ、それを除くとすれば……いろいろな記録に立ち向かってきたんですけど、そういうものは大したものではないというか。今日の瞬間を体験すると、すごく小さく見えてしまうんですよね。わかりやすい例を挙げれば、10年連続200本とか、MVPを獲ったとか、オールスターでどうたら……というのはホント小さなことに過ぎないと思います。今日のこの、あの舞台に立てたことというのは、去年の5月以降ゲームに出られない状況になって、そのあともチームと一緒に練習を続けてきたわけですけど、それを最後まで成し遂げられなければ、今日のこの日はなかったと思うんですよね。今まで残してきた記録は、いずれ誰かが抜いていくと思うんですけど、去年の5月からシーズン最後の日まで、あの日々はひょっとしたら誰にもできないことかもしれないというふうな、ささやかな誇りを生んだ日々だったんですね。どの記録よりも、自分のなかではほんの少しだけ誇りを持てたことかなと思います」
―― どんなチームでも、どんな状況でも応援してくれたファンは、イチロー選手にとってどんな存在でしたか。
「ゲーム後にあんなことが起こるとは、とても想像していなかったですけど、実際にそれが起きて……なかなか日本のファンの方の熱量というのは、普段感じることが難しいんですね。久しぶりに東京ドームに来て、ゲームは基本的に静かに進んでいくんですけど、なんとなく印象として、日本の方は表現するのが苦手というか、そんな印象があったんですけど、それは完全に覆りました。内側に持っている熱い思いが確実にそこにあるということ。それを表現した時のその迫力というのは、とても今まで想像できなかったことです。これはもっとも特別な瞬間になりますけど、ある時までは自分のためにプレーすることがチームためにもなるし、見てくれている人も喜んでくれるかなというふうに思っていたんですけど、ニューヨークに行ったあとぐらいからですかね。人に喜んでもらえることが一番の喜びに変わってきたんです。ファンの方々の存在なくしては、自分のエネルギーはまったく生まれないと言ってもいいと思います」
―― イチロー選手が貫いたもの、貫けたものは何でしょうか。
「野球のことを愛したことだと思います。これは変わることがなかったですね」
―― ケン・グリフィーJr.さんが、肩の力を抜いた時、肩のものを下ろした時に「違う野球が見えて、また楽しくなる」という話をされたのですが、そういう瞬間というのはあったのでしょうか。
「ないですね。ただ、子どもの頃からプロ野球選手になることが夢で、それがかなって、最初の2年、18、19歳の頃は、一軍に行ったり、二軍に行ったり、そういう状態でやっている野球は結構楽しかったんですよ。94年に仰木(彬)監督と出会って、レギュラーで初めて使っていただいたわけなんですけど、この年まででしたね、楽しかったのは。あとは、その頃から急に番付を一気に上げられちゃって、それはしんどかったです。やっぱり力以上の評価をされるというのは、とても苦しいですよね。
だから、そこからは純粋に楽しいということは、もちろん、やりがいがあって、達成感を味わうこと、満足感を味わうことはたくさんありました。ただ、楽しいかっていうと、それとは違うんですよね。そういう時間を過ごしてきて、将来はまた楽しい野球をやりたいなというふうに……これは皮肉なもので、プロ野球選手になりたいという夢がかなったあとは、そうじゃない野球をまた夢見ている自分が存在したんですよね。これは中途半端にプロ野球生活を過ごした人間には、おそらく待っていないもの。草野球でも、やっぱりプロ野球でそれなりに苦しんだ人間でないと楽しむことはできないのではないかと思って、これからはそんな野球をやってみたいなという思いですね」
―― イチロー選手は開幕シリーズを大きなギフトとおっしゃっていました。今回、私たちの方が大きなギフトをもらったような気持ちでいるんですが、これからどんなギフトを私たちにくださるのでしょうか。
「ないですよ、そんなものは。無茶言わないでくださいよ。ホントこれは大きなギフトで、去年3月の頭にマリナーズからオファーをいただいてからの、今日までの流れがあるんですけど、あそこで(現役が)終わっていても全然おかしくないですからね。いまこの状況が信じられないです。あの時考えていたのは、自分がオフの間、アメリカでプレーするために準備をする場所というのは神戸の球場なんですけど、そこで寒い時期に練習するのでへこむんですよね。心が折れるんですよ。そんな時もいつも仲間に支えられてやってきたんですけど、最後は訓練を重ねてきた神戸の球場でひっそりと終わるのかなと想像していたので、もう夢みたいですよ。これも大きなギフトですよ、僕にとっては。質問に答えてないですけど、僕からのギフトはないです」
―― 涙がなく、むしろ笑顔が多いように見えたのは、この開幕シリーズが楽しかったということなんでしょうか。
「これも純粋に楽しいということではないんですよね。やっぱり、誰かの思いを背負うということは、それなりに重いことなので、そうやって1打席1打席立つことって、簡単ではないんですね。だから、すごく疲れました。やっぱり1本ヒットを打ちたかったし、応えたいって、それは当然ですよね。僕には感情がないと思っている人がいるみたいですけど、意外とあるんですよ。だから結果を残して、最後迎えられたらいいなと思っていたんですけど、それはかなわずで。それでもあんなふうに(ファンは)球場に残ってくれて。『死んでもいい』という気持ちはこういうことなんだろうな、と。死なないですけど、そういう表現をする時って、こういう時なのかなって」
―― 常々、最低50歳まで現役とおっしゃっていましたが、日本のプロ野球に戻ってきてプレーするという選択肢は、イチローさんにはなかったのですか。
「なかったですね」
―― どうしてでしょうか。
「それはここでは言えないなぁ。ただね、最低50歳までって本当に思っていたし、でもそれはかなわずで、有言不実行の男になってしまったわけですけど……でもその表現をしてこなかったら、ここまでできなかったかなという思いもあります。だから、言葉にすることは難しいかもしれないけど、言葉にして表現することっていうのは、目標に近づくひとつの方法ではないかと思います」
―― これまで野球に費やしてきた時間、それが空くという前提で、これからどうされていくのかなと。
「今はわからないですね。でも、明日もトレーニングはしていますよ。それは変わらないでしょうね。じっとしていられないから。それは動き回っているでしょうね。だから、ゆっくりしたいとか全然ないんですよ」
―― ファンの方々に伝えられたこと、伝わっていたらうれしいなというものはありますか。
「先程もお話ししましたけど、人より頑張るなんてことはとてもできないんですよね。あくまでも計りは自分のなかにある。それで自分なりに、その計りを使いながら、自分の限界を見ながら、ちょっと超えていくということを繰り返していく。そうすると、いつの日か『こんな自分になっているんだ』という状態になって。だから、少しずつの積み重ねが、それでしか自分を超えていけないというふうに思うんですよね。一気に高みに行こうとすると、今の自分の状態とギャップがありすぎて、それは続けられないと考えているので、地道に進むしかない。進むだけではない。後退もしながら、ある時は後退しかしない時期もあると思うので、でも自分でやると決めたことを信じてやっていく。でもそれは、正解とは限らないですよね。間違ったことを続けてしまっていることもあるんですけど、でもそうやって遠回りすることでしか、本当の自分に出会えないというか、そんな気がしているので、そうやって自分なりに重ねてきたことを、今日のゲーム後のファンの方の気持ちですよね。それを見た時に、ひょっとしたらそんなところを見ていただいていたのかなと……それはうれしかったです。そうだとしたらすごくうれしいですし、そうじゃなくてもうれしいです」
―― 現役選手を終えたら、監督になったり、指導者になったり、あるいはまったく違うタレントになったりしますが、イチロー選手は?
「なんになるんだろう。そもそもカタカナのイチローってどうなんですかね。元カタカナのイチローとかになるんですかね。元イチローって変だよね。ただ、監督は絶対無理ですよ。これは”絶対”がつきますよ。人望がない。本当に人望がないんですよ」
―― そうでもないと思いますけど。
「いやぁ、ないですね。それぐらいの判断能力は備えているんで。プロの選手、プロの世界というよりも、アマチュアとプロの壁がどうしても日本の場合、特殊なかたちで存在しているので……今日をもって元イチローになるので、それは小さな子どもなのか、中学生なのか、高校生なのか、大学生なのかわからないですけど、そこには興味がありますね」
―― 先程、引退を決めたのがキャンプ終盤というお話があったのですが、そこにいたる以前にも、たとえば”引退”の二文字がご自身のなかで浮かんで、悩んだ時期とかはあったのでしょうか。
「引退というより、クビになるんじゃないかというのはいつもありましたね。ニューヨークに行ってからは、毎日そんな感じです。ニューヨーク、マイアミもそうでしたけど。ニューヨークって、みなさんご存知かどうかわからないですけど、特殊な場所です。マイアミもまた違った意味で特殊な場所です。毎日そんなメンタリティーで過ごしていたんですね。クビになる時は、まさにその時だろうと。そんなのはしょっちゅうありました」
―― 日本のファンにとっては特別な日になりましたけど、アメリカで19年プレーされて、アメリカのファンへ思いやメッセージはありますか。
「アメリカのファンの方々は、最初はまあ厳しかったですよ。最初の2001年のキャンプなんかは、『日本に帰れ』ってしょっちゅう言われましたよ。だけど、結果を残したあとの敬意というのは、言葉ではなくて、行動で示した時の敬意の示し方は、その迫力はあるなという印象ですよね。だから、なかなか入れてもらえないんですけど、入れてもらったあと、認めてもらったあとはすごく近くなるというような印象で、がっちり関係ができあがる。シアトルのファンとはそれができたような……ニューヨークというのは、厳しいところでしたが、やれば、どこよりも、どのエリアの人たちよりも熱い思いがある。マイアミというのは、ラテンの文化が強い印象で、その圧はそれほどないんですけど、でも結果を残さなかったら絶対に人は来てくれない。でもやっぱり、最後にシアトルのユニフォームを着て、もうセーフコフィールド(現在T−モバイルパーク)ではなくなってしまいましたけど、姿をお見せできなくて、それは申し訳ない思いがあります」
―― イチロー選手は24時間を野球のために使ってきたとご自身でおっしゃいますけど、そのイチローさんを支えてきたのは弓子夫人だと思います。これだけたくさんの方がいるなかで、イチローさんを支え続けた弓子さんへの言葉を聞くのは野暮かなと思うのですが、あえて今日は聞かせていただきたいのですが。
「いやぁ、頑張ってくれましたね。一番頑張ってくれたと思います。僕、ホームの時はゲーム前に妻が握ってくれたおにぎりを食べるんです。その数が2800個ぐらいだったんですよ。3000個はいきたかったみたいですね。そこは3000個を握らせてあげたかったなと思います。僕はゆっくりする気はないですけど、妻にはゆっくりしてもらいたいと思っています。それと(愛犬の)一弓(いっきゅう)ですね。現在、17歳と7カ月。今年で18歳になろうかという柴犬なんですけど。さすがにおじいちゃんになってきて、毎日フラフラなんですけど、懸命に生きているんですよね。その姿を見てたら、『オレ頑張らなきゃ』って。ジョークとかではなくて、それは本当に思いました。懸命に生きる姿。2001年に生まれて、2002年にシアトルの我が家に来たんですけど、まさか僕が現役を終えるときまで一緒に過ごせるとは思っていなかったので、これは大変感慨深いですね。妻と一弓には、感謝の思いしかないですね」
―― これまでポスティングやWBC参加など、数多くの決断があったと思うのですが、今まで一番考え抜いて下した決断はなんだったのでしょう。
「順番はつけられないですね。それぞれが一番だったと思います。アメリカにプレーするために、今とは違うポスティングシステムだったんですけど、自分の思いだけでは当然かなわないので、球団からの了承がないと行けなかった。じゃあ、その時に球団にいる誰かを口説かないといけない。その時、一番に浮かんだのが仰木(彬)監督で、その何年か前からアメリカでプレーしたいという思いは伝えたりしていたんですけど、仰木監督だったら美味しいごはんとお酒を飲ませたら、うまくいくんじゃないかと。そう考えていたら、まんまとうまくいって、口説く相手に仰木監督を選んだのは大きかったなと思いますね。ダメだダメだとおっしゃっていたものが、お酒でこんなに変わってくれるんだと。お酒の力をまざまざと見ましたし、やっぱり洒落た人だったんだなと。仰木監督から学んだことは計り知れなかったですね」
―― 今年、菊池雄星投手がマリナーズに入って、去年は大谷翔平選手がエンゼルスに入りました。イチロー選手が後輩たちに託したいものはありますか。
「雄星のデビューの日に、僕はこの日を迎えたというのは、なんかいいなと思っていて、『ちゃんとやれよ』と思いますね。短い時間でしたけど、すごくいい子で……翔平はケガを治してほしいですね。物理的にも大きいわけですし、アメリカ人にも引けを取らない。あのサイズで、あの機敏な動きができるというのはいないですから。それだけで、世界一の選手にならなきゃいけないですよ」
―― 野球への愛を貫いてきたわけですが、野球の魅力とは。
「団体競技なんですけど、個人競技のところですかね。これは野球のおもしろいところだと思います。チームが勝てばそれでいいかといえばそうじゃない。個人としても結果を残さないと。生きていくことはできないですよね。本来、チームとして勝っていれば、チームとしてのクオリティーは高いはずなので、それでいいんじゃないかという考え方もできるんですが、決してそうではない。その厳しさがおもしろいところかなと思いますね。あと、やっぱり同じ瞬間がないということ。必ずどの瞬間も違うということ。これは飽きがこないですよね」
―― イチロー選手のいないこれからの野球をどのように楽しめばいいでしょうか。
「2001年にアメリカに来た時と今の野球は、まったく違うものになりました。頭を使わなくてもできてしまう野球になりつつある。選手も、現場にいる人も感じていることだと思うんですけど、これがどうやって変化していくのか。次の5年、10年は、しばらくはこの流れは止まらないと思うんですけど。本来、野球というのは頭を使わないとできない競技なんです。それをしないというのがどうも気持ち悪くて……。野球の発祥はアメリカですが、そのアメリカの野球がそうなってきている。そこに危機感を持っている人って結構いると思うんですよね。だから、日本の野球がアメリカの野球に追従する必要なんてまったくなくて、やっぱり日本の野球は頭を使う、おもしろい野球であってほしいなと思います。アメリカのこの流れは止まらないので、せめて日本の野球は決して変わってはいけないと。大切にしなくてはいけないものを大切にしてほしいなと思います」
―― 子どもの頃からの夢であるプロ野球選手になるという夢をかなえて、これだけ成功なさって、イチロー選手はいま、何を得たと思っていますか。
「そりゃ200本もっと打ちたかったし、できると思ったし、1年目(2001年)にチームは116勝して、その次の2年間も93勝して、『勝つのってそんなに難しいことじゃないな』ってその3年間は思っていたんですけど、大変なことです。この感覚を得たことは大きいかもしれないですね」
―― 日米で活躍される選手は、まず甲子園に出て活躍して、プロ野球に入って活躍して、そしてメジャーに挑戦という流れがあると思うんですけど、ご自身の経験を振り返って、もっとこんな制度であればメジャーに挑戦しやすかった。もしくは日本プロ野球に残ってもっとやりたかったというのは。育成制度とかもあわせて、こういう制度であればいいなというのはありますか。
「制度に関しては、僕は詳しくないんですけど……でも日本で基礎をつくる、自分が将来MLBでプレーするための礎をつくるという考え方であれば、できるだけ早くというのはわかりますけど、日本の野球で鍛えられることってたくさんあるんですよ。制度だけに目を向けるというのはフェアじゃないかなと思いますね」
―― 日本の野球で鍛えられたことというのは。
「基本的な基礎の動きって、メジャーリーグの選手より、日本だったら中学生レベルの方がうまい可能性がありますよ。それはチームとしての連携もあるじゃないですか。そんなこと言わなくてもできますからね、日本の野球では」
―― 大谷選手との対戦がかなわなくなって、対戦を楽しみにしていたのですが、イチローさんはいまも、大谷投手と対戦したかったという思いはあるでしょうか。
「翔平との対戦は残念ですけど、できれば僕がピッチャーで翔平がバッターでやりたかったですね。そこは誤解がないようにお願いします」
―― 今後、大谷選手はどんなメジャーリーガーになっていくと思いますか。
「投げることも打つこともやるのであれば、僕は1シーズンごとに、1シーズンはピッチャー、次のシーズンは打者として、それでサイヤングとホームラン王を獲ったら。だって、(大谷選手以外は)そんなこと考えることすらできないですよ。でも翔平はその想像をさせるじゃないですか。その時点で、明らかに人とは違う選手であると。その二刀流はおもしろいと思うんですよね。ピッチャーとして20勝するシーズンがあって、その翌年に50本打って、MVP獲ったら、バケモンですよね。でも、想像できなくはないですからね」
―― イチロー選手の小学校の卒業文集が有名だと思いますが、小学生の自分に今、声をかけるとしたら。
「お前、契約金1億ももらえないよって。夢は大きくと言いますけど、なかなか難しいですよ。ドラ1の1億って掲げていますけど、遠く及ばなかったですよ。ある意味で挫折ですよ」
―― 昨年マリナーズに戻りましたけど、その前のマリナーズ時代、何度か自分は孤独を感じながらプレーしていると。ヤンキースに移られ、マーリンズに移られ、プレーする役割も変わってきました。去年ああいうかたちになって、今年引退。孤独感はずっと感じてプレーしていたのでしょうか。
「現在それはまったくないです。今日の段階で。それとは少し違うかもしれないですけど、アメリカに来て、メジャーリーグに来て、外国人になったこと。アメリカでは僕は外国人ですから。このことは、外国人になったことで、人の心を慮ったり、人の痛みを想像したり、今までなかった自分が現れたんですよね。この体験というのは、本を読んだり、情報を取ることができたとしても、体験しないと自分の中からは生まれないので、孤独を感じて苦しんだことは多々ありました。ありましたけど、その体験は未来の自分にとって大きな支えになると思います。だから、つらいことしんどいことから逃げたくなるのは当然のことなんですけど、でもエネルギーのある元気な時に立ち向かっていく。そのことはすごく、人として重要なことなんではないかと感じています。長い時間ありがとうございました」
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Posted at
2019/03/25 10:34:31
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