昨日、彼女さんがどうしても観るというので、観てきました。映画「余命1ヶ月の花嫁」。
なんだか、色々物議をかもし出している映画でもありますね。以前、ドキュメンタリーで実話を放映していました。オイラは、とてもとても観れなかった。
賛否両論はあるようですが、観た感想は素直に良かった。
号泣はしなかったけど、ホロッときました。
なんか、くだらない論議をしている人たちは、どうなんでしょう?AV女優?キャバ嬢?。そんなことどうでもいいでしょう。それが事実なのか、ただのウワサなのか。どちらか知りませんが、亡くなった方をどうこう言うのはナンセンスだと思いますよ。
一つの事実として、一人の女性が乳がんと闘い、太郎というフィアンセと共にかけがえのない日々を送ったことは明白。
映画やドキュメンタリーを通して、お互いの愛情を確かめ合ったり、乳がんを早期に見つけ、一人でも多くの女性が助かったのであれば、それで良いんじゃないかなぁと思いますよ。
自分の身内が、千恵さんと同じようなことを言われていたら、怒りというより悲しくて仕方がないと思います。
それで、実はくりこはこの映画を観ることをかたくなに拒んでいました。それはなぜか。自分の大切な人とダブってしまうから・・・。
もし、自分の大切な人が余命1ヶ月と宣告されたら、自分には何ができるのだろうかと。
看護師であるくりこは、病気のことはすごく理解できます。しかし、そこで二人の自分が出てきます。ひとりは看護師として病気を冷静に受け止める医療者の自分。もう一人は、一人の人間として現実を受け止められない自分。
一人の家族としてであれば、大切な人の回復を心から願い、奇跡を願うでしょう。一方で医療者の自分は、病気の進行を冷静に受け止めてしまうでしょう。
病院という場所で働く以上、「現実」を冷静に受け止め、家族や患者本人と接する事が出来なければ、多分自分はこの仕事を続けていくことが出来ないでしょう。家族が願う奇跡を大切にするためには、現実を見つめ、時には家族に事実を伝えなければいけない。残酷な言い方かもしれませんが、残りの時間が限られた家族や患者さんに、少しでも時間を大切にして悔いを残して欲しくない、苦しんで欲しくない時には事実を伝えることも大切なことなんです。
それが、自分の家族であったならば、家族としての自分をさらけ出すことができればすごく楽だろうなと思います。でも、その事実を医療者として受け止めると、驚くほど冷静な自分がそこにいます。
父方の祖母が入院し日に日に悪くなっている時、奇跡を信じている父親の傍らで、妙に冷静な自分がいました。
本当であれば傍で励ますべき場面で、自分は冷静に祖母の様態を把握していました。それを察すられまいと祖母の傍らには行くことが出来ませんでした。
ひどい孫ですね。がんばったねの一言も言うことが出来なかった。後悔したときには、既に祖母はそこにはいませんでした。
このときばかりは、看護師を選んだ自分が嫌いになりました。
結局は、自分は弱いから逃げちゃったのかなぁって。
話はそれましたが、今回の映画をみて、主人公の千恵さんよりもそれを支えた太郎さんの気持ちが痛く伝わってきて、切なくなりました。死が怖いというフィアンセをただ泣きながら抱いてあげることしかできない。辛すぎます・・・。
もっと、強い自分になりたいなぁ・・・。
Posted at 2009/05/24 02:40:24 | |
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