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2026年01月18日

​31年目の1月18日、喧騒のあとに紡ぐ「真実」

​31年目の1月18日、喧騒のあとに紡ぐ「真実」 1月17日が過ぎ、18日の朝が来ました。

テレビのニュースショーは、示し合わせたかのように昨日の鎮魂を過去に追いやり、国内の解散政局やトランプ氏によるベネズエラ侵攻の話題に塗り替えられています。一週間を振り返る番組においてさえ、阪神・淡路大震災はすでに「終わったイベント」のようです。このあまりに早い切り替えに、私は言いようのない無念さを覚えます。

​昨日、私はあらためて「震災の教訓」という言葉を反芻していました。
ネットには「自助・共助・公助」という美しい三原則が並びます。一方で、SNSに流れる震災をどこか他人事のように分析し、頭の中だけで完結させたような論理で語る言葉の数々に、私は強い違和感を抱かずにはいられませんでした。

​メディアは視聴率を重視し、より新しく衝撃的な東日本大震災や能登の地震の映像をクローズアップします。その陰で、阪神・淡路大震災の記憶は「古いもの」として隅へと追いやられ、あたかも地方のローカルな話題であるかのように矮小化されていく。そこにある命の重さの選別に、私は胸が締め付けられるのです。

​しかし、31年前。ボランティアリーダーとして一ヶ月間、現場で走り回った私の記憶にあるものは、そんな洗練された理論ではありません。

​災害当日、社会インフラは完全に沈黙していました。行政の手が届かないその極限状態で命を繋ぎ止めたのは、精巧なシミュレーションでも高度な知識でもありませんでした。

それは、同じ被災者である近所の人々の「〇〇さん、大丈夫か!」という必死の声かけでした。互いの名前を呼び合える関係があったからこそ、救えた命があったのです。理屈を超えた人間同士の絆。

本当の意味での共助とは、マニュアルの中にあるものではなく、あの混乱の中で泥にまみれて差し出された手、そのものだったはずです。


​私が統括したボランティアの現場もまた、華やかな感謝とは無縁の世界でした。
暗い体育館での果てしない物資の仕分け、埃まみれの運搬、鳴り止まない電話対応……。誰の目にも触れず、誰からも感謝されることのない孤独な裏方仕事の連続。直接ありがとうと言われる瞬間など、活動のほんの一握りでした。

何をやっても、どこまでやっても、拭い去れない無力感ばかりが残る毎日でした。それでも、その見えない献身の積み重ねが、あの時、止まりかけた街の鼓動をわずかに支えていたのだと、今は信じたいのです。

​今の報道や、知識だけで震災を語る人々からは、この泥臭い共助の視点が抜け落ちている気がしてなりません。備蓄品を揃えることや行政の支援ばかりが強調され、いざという時に隣人のために動ける関係性を作るという、最も困難で大切なコミュニティの確立が置き去りにされています。

​あの日を共に戦った友人が、SNSでこう呟いていました。
「コミュニティの確立が立ち遅れているように思え、少し心配だなと…平和に迎えた朝に、少しだけ不安が過る」
​この不安こそが、現場を知る者が共通して抱く真実です。器(制度)はあっても、中身(心)が伴っていない今の社会への警鐘です。

​世間が震災を忘れ去っていく、1月18日。
私は、あの時誓った教訓をもう一度心に刻みます。紡ぐべきは、最新の防災知識ではなく、隣人と明日を生きるための生きた絆であると。

​たとえ明日、メディアが何も報じなくなったとしても、私は語り続けます。あの日、現場で確かに感じた人の手の温もりこそが、私たちを救う唯一の光だったということを。
ブログ一覧 | 一言放言
Posted at 2026/01/18 10:00:12

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この記事へのコメント

2026年1月18日 11:05
おはようございます。
当時、報道で震災を知った関東人としては、正直なところ、大変とは思いながらも現実感がなかったのを記憶してます。その後、勤務先の大阪、神戸支店の社員のご家族が亡くなったり、被害の大きさを知る事になります。決定的なのは、震災の数年後の神戸出張で三宮を歩いた時です。壊れて傾いたビル、空地に供えられた花、この瞬間に自身でリアルに感じる事になります。この時、震災から5年くらい経っていたと思います。なのに。
中身のある器の大事さ、重く受け止めました。
コメントへの返答
2026年1月18日 12:11
ちゃぐさん、こんにちは。
当時の被災地の光景を心に留めていてくださり、ありがとうございます。
震災から数年経ってもなお消えない傷跡を目の当たりにした時の衝撃は、どれほどの言葉を費やすよりも「現実」を突きつけてきますよね。

​まさに、そうした現場の生々しい感触が薄れ、数字や理屈ばかりが先行する今の風潮に、どうしても警鐘を鳴らしたかったのです。静かな1月18日の朝に、私の独白を受け止めていただけたこと、心強く思います。コメント有り難うございます!😊
2026年1月18日 12:52
お邪魔します・・

ちょうど今日地区の防災訓練の日でした、
いつもこの時期ではないのですが、
今年から阪神大震災に合わせて増えたのかな?
詳細は不明ですが・・
我が家は全員、無事ですのフラッグを
玄関先に表示して組長が確認する、という
訓練なんですが・・
「〇〇さん、大丈夫か!」は大切ですね。
コメントへの返答
2026年1月18日 18:11
GT AGAINさん、こんばんは!
訓練、お疲れ様でした。ちょうどこの時期に実施されるというのは、震災を風化させないという地域の強い意志を感じますね。

​私の街でも各地で避難訓練がありましたが、独居老人が増えている今の社会では、まさにその「フラッグでの確認」や「名前を呼ぶ声かけ」が命を守る砦になります。まずは無事を知らせ、異変にいち早く気づける隣近所の関係性を作っておくこと。それが今の時代に最も必要な備えだと、訓練の話を伺って改めて感じました。
コメント有り難うございます!😊
2026年1月18日 14:20
問題になったら申し訳ないです。

率直に申しまして人って実際被害に遭わないとイメージ出来ないと思います。

僕は震災発生時揺れても寝てました。
あまり揺れなかったんです。(震度は3~4だったそうです)
確か当初死者が無い(被害も確認中だが少ない)と報道されたと思います、普通に実施されると大学の後期試験へと普段通り京都へ向かいました。
あのデカい京都駅ビルのガラス殆どが割れており、戦争みたいな状態でした。(震災後建て替えられモダンになりました)
JR嵯峨野線なんかは脱線してました。
京都から先への交通手段が無くバスが動いてたのでそれで向かいました。

この辺で「とんでもない事になった」と初めて思い始めました。

苦労は水の泡、学生ほぼ来てないんです。
試験は無しでそのまま帰りました。

その後どんどん明らかになる被害報道に、最初の報道とのギャップ、自身の行動に色んな思いが出てきました。
僕自身直接大きな被害には遭ってませんが、避難場所等他人事ではないと震災について真剣に考える大きなきっかけになりました。
コメントへの返答
2026年1月18日 18:18
猛獣音速さん、こんばんは!
当時の京都での光景、生々しく伝わってきます。駅のガラスや脱線した列車……。少しずつ非日常が迫ってきて、初めて事の重大さに気づくという感覚、決して猛獣音速さんだけではなかったはずです。

​実は私も、震災当日の朝は会社におり、誰も出勤してこない静かな室内でラジオを聴きながら待っていました。しかし、ただ事ではないと悟り、帰宅してからは仲間と会社にあったビニールシートを抱えて、被災した住宅の屋根を塞ぎに走り回りました。

​当時は本当に情報がなく、何をすべきか正解もわからないままの無我夢中でしたが、そうした個々の「動かずにはいられない思い」があの日を支えていたのだと、改めて思い出しました。
コメント有り難うございます!😊
2026年1月18日 21:17
こんばんは!

3.11も去ることながら、1.17も私のサラリーマン人生で忘れてはならない経験をしました。

震災発生から1週間後に、第二次支援隊として、約10日間ほど神戸に留まり仕事(インフラ復旧)をしました。あの時見た街の景色、人々の悲惨さは生涯忘れられません。また、帰宅後に急性虫垂炎になりました。

当時、会社との連絡手段は会社貸与のガラ携(ドコモムーバー)しかなく、関西圏から東京への片側通話は繋がりました。業務を終え新大阪まで辿り着き、長蛇の公衆電話前にて「緊急に連絡したいのです〜早くしてください」と泣き叫ぶ子連れのお母さんがいました。バッテリー切れ寸前のガラ携を差し出し使ってもらいました。
助け合うことの大切さを今も大切にしています。
コメントへの返答
2026年1月18日 21:58
モトじいさん、こんばんは!
インフラ復旧の第二次支援隊として神戸に入られていたのですね。本当にお疲れ様でした。あの凄まじい光景は、現場に立った者にしかわからない心の傷跡として一生残るものですよね。心身ともに極限の中、帰宅後に体調を崩されたというお話からも、当時の過酷さが伝わります。

​公衆電話の前で泣き叫ぶお母さんに、ご自身の貴重な携帯電話を差し出されたエピソード、胸が熱くなりました。混乱の中で、ルールや理屈を超えて目の前の人のために動く。その「助け合い」の積み重ねこそが、あの時、絶望の淵にいた人々を支えていたのだと、私もボランティアの現場で痛感しました。
​モトじいさんのような方々が支えてくださった絆の尊さ、改めて強く感じています。ありがとうございます。
2026年1月18日 21:32
こんばんは。

震災の記憶・・・
すっかり 記憶の彼方ですね

でも、令和6年能登半島地震のとき
とある場所にいたのですが、
地鳴りが迫ってくるような感覚があり、

その後、長くゆっくり大きな揺れを感じました。

地鳴りが迫ってくる感覚は その場所にいた若い人は感じなかったらしく、長周期地震動 は、東日本大震災で感じたあの感覚をわたしは思い出しました。

体が 覚えているんですよね。

阪神大震災では、私や家内の住む地域は、不便は有りましたが、ニュースになるほどの影響はなかったですが、わたしも 中央区あたりで避難所あたりでウロチョロしてました。

このブログが機会となってその当時のことを思い返すと、FLAT4さんが仰る気持ちも理解できます。
そういう志の人たちが、あのときたくさんいらっしゃったからこそ、神戸が復興していけたんだと思います。

ただ、あの教訓があったからこそ、様々な自然災害に対しての事後の対策、ボランティア活動が円滑にできるようになったとおもいます。

人々の記憶から薄くなったかもしれませんが、あの時に得られた知見は役立っていると思います。

この話は長くなりますし、(このコメントもかなり長いですが・・・)文字だけでは、語り尽くせないことなので、機会があれば お茶しながらでも語りましょうか?(こーしーが ますます 苦く感じるかも???)
コメントへの返答
2026年1月18日 22:06
たこ焼き太郎3さん、こんばんは!
「体が覚えている」という感覚、本当によくわかります。能登の揺れであの時の記憶が呼び覚まされるのは、知識ではなく経験が体に刻み込まれている証拠ですよね。
​私は当時、豊中市の避難所の様子はつぶさに見てきましたが、中央区の現場にいらしたたこ焼き太郎3さんのお話も、当時の切迫した状況が目に浮かぶようです。
​確かにあの時の教訓は今の礎になっていますが、その根底にある「泥臭い志」だけは、形骸化させずに伝えていきたいですね。本当に、文字だけでは語り尽くせないことが山ほどあります。いつか苦いコーヒーでも飲みながら、ゆっくり語り合える日を楽しみにしています!
2026年1月18日 21:32
FLAT4 さん、こんばんは😃🌃


今はシニア社員ですが…
滋賀県彦根市の○トマークの会社勤務です。
あの時はまだ京都市内で勤務地は茨木市
早朝の激しい揺れは覚えてます。
京阪だけが動いてて
枚方まで行ってバスで茨木駅へ
歩いて勤務地へ行くと
陳列棚が見事に将棋倒しで…
復旧は午後遅くやったような…
ようやく開店で…
皆さまが押し寄せてこられたのが
良く覚えてます。
平穏な普通の日々…
なんとも思わず過ごしてますが
有難い事ですね。



コメントへの返答
2026年1月18日 22:18
ボーエンさん、こんばんは!
茨木市は震度4でしたが、それでも棚が将棋倒しになるほどの被害だったのですね。交通機関を乗り継いで現場へ向かわれた当時の執念に敬意を表します。ようやく開店したお店に人々が押し寄せた光景は、皆がどれほど必死だったかを物語っていますね。

​私の豊中市は震度6でしたが、最近のマスメディアの報道を見ていると、まるで神戸だけが被災地だったかのように扱われていることに違和感を覚えます。実際には、大阪側でもこれほどの混乱と被害があったという「真実」を、経験した者同士、大切に語り継いでいきたいですね。
​何気ない平穏な日々の有り難さ、改めて身に沁みます。
2026年1月18日 23:31
こんばんは・・
もう31年も経ちましたか!
当日の早朝、自宅も激しく揺れて箪笥を抑えて子供たちを守ってた事は鮮明に覚えています(@_@)

その日の通勤途中にラジオから流れる被災状況には驚きの連続でした・・
その真っただ中でボランティアをされてたんですね!
こちら側も充分な情報もない中、水や物資をハンドキャリーしてた仲間達も居てました・・
被災者側の方も、ボランティアの方も必死に出来ることをやり遂げる!
一言で総括できる状況では無い事がメッチャ理解できます!
悲惨な状況で何をすべきかもわからない中、一生懸命に最善と想われる事を成す。当時のFLAT4サマを含めて人の力は偉大だと想います・・
コメントへの返答
2026年1月19日 8:18
梵天BPさん、こんばんは!
激しい揺れの中でご家族を守り抜かれたあの日、必死だったお気持ちが伝わってきます。ラジオから流れる情報に、誰もが信じられない思いでいた朝でしたね。

​私は現場でボランティアの取りまとめをしていましたが、あの混沌とした状況で痛感したのは、行政の支援でも高度な理論でもなく、結局は「地域の絆」や「近所づきあい」がいかに命に直結するかということでした。

​水や物資を手に被災地へ向かった仲間たちも含め、あの時、自分にできる最善を尽くそうと動いた一人ひとりの熱量が、街を支えていたのだと思います。温かいお言葉をいただき、改めてあの日の誓いを強くしました。コメント有り難うございます!😊
2026年1月19日 6:54
おはようございます。
もう30年も経ったんですね。
5:30という時間で、また寝ていた人も多かったはずですよね。

こうした実体験を聞くとメディアでは伝わらないものがあります。
語り継いで、風化させないことも大切ですよね。
コメントへの返答
2026年1月19日 8:25
櫻路郎さん、おはようございます!
​あの日、5時46分のあまりに激しい揺れで、私たちは皆、文字通り叩き起こされましたね。

​仰る通り、メディアはどうしても視聴率を意識して悲惨な場面ばかりを切り取ります。そして政府の意向を汲むかのように「自助」の防災対策ばかりを流していますが、現場を知る者からすれば、それだけでは救えない命があることを痛いほど感じています。

​あの時の本当の教訓は、マニュアルや備蓄ではなく、いざという時に手を差し伸べ合える「近所の人と人の繋がり」でした。それこそが最後の頼りなのだという真実を、これからも大切に語り継いでいこうと思います。コメント有り難うございます!😊
2026年1月19日 9:46
なかなか難しい話ですが、当事者・関係者やその地域に居ないと総じて薄れていっちゃうんですよね。

メディアやSNSが目立つ話するけど結局それぞれがどう考えどう行動できるかはその人の感性や気持ちの持ちようなので。

僕なんかもうダメな人でたまに思い出した時だけって感じで。。ボランティア活動に関しては昔そういうのを結構していて、持った結論は他人に無理強いは出来ないし、評価貰うためにするのでもない、自分でやりたいからするってのでした。街の掃除して誰かに褒めてもらおうと考えると逆にめんどくさくて。やった、出来た、自己満足で完結してきました。

と言いながら仲間同士で称え合うと嬉しかったりするんですけどねぇ(*^。^*)
コメントへの返答
2026年1月19日 11:17
​ししふうさん、こんにちは!
ボランティアに対する「やりたいからやる」という潔い考え方、共感します。私も決して活動を誰かに強制したいわけではないんです。

​ただ、あの震災で痛感したのは、普段からの「近所の人への挨拶」程度のささやかな繋がりが、いざという時にどれほど大きな力になったか、ということでした。そんな日常の延長にある絆を、忘れずに紡いでいきたいと思っています。

​私もまちづくり運動の現役は引退してOBの立場ですが、今でも当時の仲間や現役世代と年数回会って交流を続けています。結局、ししふうさんが仰るように、そうやって仲間と称え合い、笑い合える「繋がり」そのものが、一番の財産であり備えなのだと感じています。
2026年1月20日 20:57
こんばんは~
違和感を増幅させるかもしれませんが、コメントいたします。
長文となりますこと、ご容赦ください。

この投稿を拝見して、胸の奥が締め付けられるような思いになりました。
私は阪神・淡路大震災を体験していません。だからこそ、フラット4さんの語る現場の記憶や泥にまみれた共助は、想像することしかできない重みを持っていると思います。
同時に、体験していない人間として、別の責任も感じています。それは、語り部の言葉を消費せず、過去の出来事を 理解したつもり で完結させないことです。SNS含め、理論や制度、データで語ることは、冷たさや他人事に見えるかもしれません。しかしそれは、忘却に抗うための一つの姿勢でもあると感じています。
自助・共助・公助 という言葉を理屈で整理する人たちは、生身の共助を否定しているとは聞ききれない部分も多々あると思います。

ただ、立っている場所が違うだけなのだと思います。
現場を知る人は 体温 で語り、経験していない人は 構造 で語る。正解不正解はないと思います。その視点の違いが、時に断絶のように見えてしまうのではないでしょうか。
経験していない私たちにできることは、あの日の現場を再現することではありません。ブログにも投稿したように、むしろそれを今の社会にどう繋ぐかを考え続けること。理論や制度の話をするなら、そこにフラット4さんが語った 名前を呼び合える関係性 という核心を、どう組み込めるのかを問い続ける責任があるのだと思います(コミュニケーション構築の部分)。

震災を知らない世代や地域の人間が語る言葉が軽く見えてしまうこともあるでしょう。それは地震に限らず、当事者からしたら当たり前のことと思います。
ただし、それは無関心からではなく、記憶を別の形で引き継ごうとする不器用な試みでもあると、どうか受け取っていただけたらと思います。
フラット4さんがおっしゃっていた 手の温もり は、経験していない私たちが安易に語ってはいけないものなのかもしれません。だからこそ経験していない世代は、聞き続け、考え続け、そして自分の立場で社会に問いを投げ続け、忘れないため、また形だけの教訓にしないために、その責任を自覚することこそが、経験していない人間に課された、もう一つの 共助 なのだと感じました。

改めまして、長文失礼しました。

※わんちゃん、元気になってよかったですね!🐶
コメントへの返答
2026年1月20日 22:40
​おじゃぶさん、こんばんは。
丁寧なコメントをいただき、ありがとうございます。

​今回の投稿の主眼は、視聴率のために過激な映像演出を繰り返すマスメディアや、当時の悲惨さだけを強調して、肝心の「教訓の中身」を置き去りにしている昨今のSNSの風潮に対する危惧にあります。

​おじゃぶさんの仰る「構造」や「責任」といった視点もあるのでしょうが、そうした言葉や演出が届かない極限の現場で、最後に命を繋いだのは隣人との泥臭い絆だけだったというのが私の見てきた真実です。

​立場や世代によって見え方は様々でしょうが、メディアやネットが消費していく情報の影に隠れた「体温のある繋がり」の大切さを、私はこれからも伝え続けていきたいと思っています。

​愛犬へのお気遣い、ありがとうございます。おかげさまで少しずつ回復しております。
2026年1月25日 0:29
おばんで~す(^^)/

あの震災から31年たったのですね
FLAT4さんのブログを読んで、震災は「過去」ではなく「今も続く現実」なんだと強く感じました
制度より何より、名前を呼び合える絆が命を救った……その重い教訓を本当に忘れてはいけないと思います

新潟県でも2024年の能登半島地震で、液状化による被災が多く未だに復興が出来ていない地域も多いと聞きます
私が住んでいる所は幸いにも被害が少なかったですが、少なかったからこそ、決して「他人事」で済ませるためではなく、「次に備えるための時間を与えられた」と思っています
そして「今、何ができるか」を問い続ける姿勢こそが、31年前そして2年前の震災で失われた尊い命に対する、私たちにできる唯一の向き合い方なんでしょうね
コメントへの返答
2026年1月25日 8:30
​瓜さん、おはようございます!
新潟も能登の震災で大変な思いをされましたよね。「次に備えるための時間を与えられた」という言葉に、瓜さんの誠実な覚悟を感じます。ご理解いただけて本当に嬉しいです。

​今のメディアや震災を知らない層には、どうしても悲惨な映像やハード面の対策ばかりが届き、最も重要な「人との繋がり」という教訓が伝わりきっていないようで、寂しさを感じます。

能登の震災でも派手な県外からの行政支援やボランティアばかり報道されてましたよね。地元の近所同士の助け合いはニュースネタにはならないんでしょう。

​自治会でも子ども会でも、あるいは立ち話でもいい。普段から近隣の人と顔を合わせ、名前を呼び合える関係を作っておくこと。それが、災害時に真っ先に、そして確実に機能するインフラなんです。

​これこそがあの頃、私たちが未来へ語り継ごうと誓った核心でした。本当、どこかの石碑にでも深く刻んでおきたいくらい、今こそ皆に知ってほしい教訓です。
コメント有り難うございます!😊
2026年1月27日 3:20
阪神淡路に東日本大震災…
まさか自分が生きている内にこんなに大きな災害が訪れるとは夢にも思いませんでした。
阪神淡路の高速道路倒壊も東日本大震災の津波の映像も悪夢そのものです…

そしてどちらも赤十字への寄付くらいでボランティアとかには行けず…

災害支援にボランティア、マニュアルが無いより有った方が良い筈ですが~やはりこればかりは経験やその場での臨機応変に対処出来るような経験則が必要に思います。
先ず私なんかは指示待ち確定です。
あんな災害を見ていても備えなんてほぼ出来ていません…
人は助けられずとも~迷惑を掛けないで済むように準備しておかないといけませんね…

阪神淡路の時は岐阜転勤中で関東の友達から心配して沢山連絡貰ったのを思い出しました。
コメントへの返答
2026年1月27日 8:14
MAKOTOさん、おはようございます。
あの高速道路が倒壊した映像や津波の光景は、本当に悪夢そのものでしたよね。テレビはどうしてもあのような悲惨な映像や、遠方からのボランティアの姿ばかりを強調して流すので、MAKOTOさんがそうしたイメージを持たれるのは無理もありません。

​でも、現場を知る者からお伝えしたいのは、立派なマニュアルや特別な経験がなくても大丈夫だということです。実際、あの極限状態ではマニュアルなんて何の役にも立ちませんでした。

​被災地が本当に伝えたい教訓は、特別なボランティア技術ではなく、日頃から「コミュニティの絆」を紡いでおくことの大切さです。

​非常食の備蓄ももちろん大事ですが、いざという時に「大丈夫?」と声を掛け合える近所づきあいこそが、最大の備えになります。どうか、身近な人との繋がりを何より大切になさってくださいね。
コメント有り難うございます!😊

プロフィール

「ステアリングを握り、眠っていたEJ20エンジンを呼び覚ます。重厚なマフラーサウンドが全身を貫き、五感を静かに満たしていく。WRXと心を通わせる、何物にも代えがたい至福の時間。
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水平対向4気筒エンジンにちなんだHNで”FLAT4(フラットフォー)”と申します。 お出掛けと写真と愛車メンテの記録が中心です。 2006年にみんカラを...

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