• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

FLAT4のブログ一覧

2017年07月16日 イイね!

福井 坂本龍馬紀行 その4(完結編)♪

福井 坂本龍馬紀行 その4(完結編)♪福井 坂本龍馬紀行 その3♪の続きです。

いよいよ福井城に到着。石垣がやはり笏谷石(しゃくだにいし)ですね。
「福井石」とか「越前石」とかわかり易い名前にしてもっと売り出せば・・・と思ったら、もう今は採掘されてないようです。

福井龍馬紀行20
福井龍馬紀行20 posted by (C)FLAT4


城内にある、「福井」の由来として知られる「福の井」を拝見しました。
春嶽や福井を訪れた龍馬もこの井戸の水を飲んだのでしょうか。

福井龍馬紀行59
福井龍馬紀行59 posted by (C)FLAT4


日曜日なのもあってひっそりとしてますね。江戸時代は福井の藩庁、今は県庁。
ずっと政治や行政の中心であリ続けているんですね。
小さく天守閣だけでも再建したらシンボル的になるかも。

福井龍馬紀行58
福井龍馬紀行58 posted by (C)FLAT4



この日は曇り空で風があったので、夏にしてはポタリングに最適な天気でしたが、気温と湿度が高くここまででかなり疲れてしまいました。(^_^;)

越前松平家の別邸、「養浩館(ようこうかん)」(旧御泉水屋敷)でのんびりくつろいで、リフレッシュしました。


福井龍馬紀行63
福井龍馬紀行63 posted by (C)FLAT4



都会の中にあるとは思えないくらい静かで、手入れの行き届いた素晴らしい庭園でした。


福井龍馬紀行62
福井龍馬紀行62 posted by (C)FLAT4



休憩して元気になったので、お隣りにある福井市立郷土歴史博物館に行きました。この日は養浩館もこちらの施設も、入館料が無料でした。


福井龍馬紀行64
福井龍馬紀行64 posted by (C)FLAT4



足羽川(あすわがわ)と九十九橋(つくもばし)右奥が福井城になります。

福井龍馬紀行65
福井龍馬紀行65 posted by (C)FLAT4



そして松平春嶽公コーナーです。


松平春嶽- (福井市立郷土歴史博物館所蔵品。) [Public domain], via Wikimedia


展示のいくつかは撮影OKの表示がありました。これは春嶽の直筆(模写?)です。


福井龍馬紀行66
福井龍馬紀行66 posted by (C)FLAT4



福井龍馬紀行69
福井龍馬紀行69 posted by (C)FLAT4



福井龍馬紀行70
福井龍馬紀行70 posted by (C)FLAT4


こちらの「時勢急務策」は安政5年(1858)ということで、井伊直弼が4月に幕府の大老になった直後のものですね。水戸の烈公、徳川斉昭と連携して日米の条約問題を解決しようとしたものだろうと思います。この時大老には春嶽がなるという話もあったのですが、もし彼が実際になっていたら不平等な条約を、朝廷の許しもなく結ぶことは決して無かったでしょうね。

この手紙の翌月には井伊直弼は勝手に日米修好通商条約に調印。春嶽は江戸城にいきなり抗議に押しかけて、隠居、謹慎という厳しい処分になってしまうわけです。(安政の大獄)


福井龍馬紀行67
福井龍馬紀行67 posted by (C)FLAT4



福井龍馬紀行68
福井龍馬紀行68 posted by (C)FLAT4



文久3年(1863年)と言えば、龍馬が福井を初めて訪問した年です。広く諸藩やいろいろな身分、立場の人からの意見を取り入れるべきというのは、横井小楠や勝海舟、大久保一翁、そして坂本龍馬のこともはいっているのでしょう。

文中に「巴力門(ハルリモン)」、「高門士(コンモンス)」とたくさんあるので何だろうと調べましたら、巴力門はパーラメント(Parliament)で「議会」、高門士はコモンズ(Commons)で「下院」を指すようです。この頃すでに春嶽は、議会制度を設置しようと考えていたのですね。同じ「巴力門」という表現は長州で翻訳出版された『英国志』の中にありました。春嶽らが文久2年に謹慎がとけた後、江戸でこれらの書に影響された可能性もありますね。

松平春嶽の像は今回3つ見ることが出来ました。一つ目は最初に訪れた丹厳洞

福井龍馬紀行06
福井龍馬紀行06 posted by (C)FLAT4



2つ目は福井神社 こちらが一番古いのだそうです。

福井龍馬紀行47
福井龍馬紀行47 posted by (C)FLAT4



そして3つ目はこの福井市立郷土歴史博物館の玄関脇でした。これが一番若々しくて写真にも近いですね。春嶽の像は、熊本の高橋公園というところにもあるそうです。


福井龍馬紀行60
福井龍馬紀行60 posted by (C)FLAT4



福井龍馬紀行61
福井龍馬紀行61 posted by (C)FLAT4



坂本龍馬は松平春嶽の援助のもと立ち上げた幕府の海軍操練所の塾頭となりましたが、解散後は薩摩に身を寄せることになります。後世からすると幕府側から幕府の敵になったわけですが、実際には薩摩藩も龍馬にも「倒幕」という意識は、維新を迎えるまでなかったように思います。

「竜馬がゆく」だけを読むと、幕府の勝海舟の下で海軍操練所、薩摩の庇護下で亀山社中に薩長同盟、そして土佐藩のエージェントとして大政奉還と、まるで生き方をコロコロ時代に合わせて変えたかのように描かれています。

ですがそれだと幕府に寺田屋で捕縛されそうになったり、春嶽が会津藩の松平容保につくらせた京都見廻組に暗殺される理由が、どうにも腑に落ちないんです。小説の中では龍馬は倒幕派だったからということになってますが・・・。

「竜馬がゆく」などの中では、尊王攘夷派(倒幕派)の薩長と、公武合体派(開国派)の幕府との間で対立軸をつくっていました。

ところが実際には攘夷倒幕派だったと言えるのは長州藩くらいで、どちらかというと対立軸は公武合体という名の大名合議制政治派(龍馬はココ)、そしてそれに対する幕府の温存守旧派(慶喜、会津、桑名)だったようです。(もちろん外国の軍事力を脅威としていたのは誰しもですが。)

幕府の長州征伐に際しては、春嶽も反対していた頃、遠く離れて龍馬も反対しており、そのために龍馬は薩長同盟を仲介して停戦させようとしたわけです。その時の幕府側の停戦の使いが勝海舟だったのは師弟ならではの因果ですね。

その後も龍馬は、春嶽の手紙で土佐藩に大政奉還を建白させるというウルトラCをやってのけるわけで、これも春嶽や大久保一翁から、普段からさんざん聞かされていたから実現したことでしょう。彼がコロコロ考え方を変えていなかったことは、春嶽の目を通して龍馬を見ると明らかです。

それでも幕府の中にいれば誰しもが考えるが実現は難しい策を、龍馬がタイミングよく人と人を繋いでうまくコーディネートしたことはやはり奇跡のような存在です。

龍馬の理想は、同じ考えを持つ、松平春嶽、横井小楠、大久保一翁、三岡八郎そして勝海舟などが、維新後の新政府の中心で活躍してくれることを期待していたのでしょうね。


すべて行きたいところを行き尽くした後は、NAさんにピザ屋さんに連れて行っていただきました。


福井龍馬紀行71
福井龍馬紀行71 posted by (C)FLAT4


この日の天気予報は雨だったのですが、朝から一滴の雨も降りませんでした。
そしてお店を出ようとするといきなりの土砂降り・・・。びっくりしました。
そして、NAさんにおみやげをいただき、福井の地をあとにしたのでした。

福井龍馬紀行72
福井龍馬紀行72 posted by (C)FLAT4



雨は局地的だったようで、帰りの高速の途中で雨はすぐやんでくれました。


福井龍馬紀行地図
福井龍馬紀行地図 posted by (C)FLAT4

今回福井を巡るためにつくった地図がこちらです。一応プリントして持っていきました。
Googleドライブにも入れておいたので、歩きながらスマホで現在地を見ながら辿れるのが便利でした。

ちなみに今回、福井藩と龍馬とのつながりと時系列を調べるためにまとめた年表をせっかくなので貼っておこうと思います。多くのサイトから集めたので、正確かどうかはわかりません。

1862年(文久2年)龍馬(28歳)

3月24日 龍馬 沢村惣之丞と共に脱藩
7月 9日 春嶽 新設の政事総裁職に就任、公武合体政策を推進
閏8月 春嶽 土方楠左衛門に坂本龍馬が勝海舟、横井小楠への紹介状が欲しいと手紙に書く
閏8月 龍馬 岡本健三郎と横井小楠を訪問
12月 4日 龍馬 間崎哲馬・他と中根雪江に面談。松平春嶽に拝謁を願い翌日の面会を約束
12月 5日 龍馬 福井藩江戸屋敷にて間崎哲馬・近藤長次郎らと松平春嶽に拝謁、海防策について意見を述べる
12月 9日 龍馬 松平春嶽から幕府軍艦奉行並・勝海舟への紹介状を受け、海舟宅を訪問、海舟の門人となる。
同日 龍馬 近藤長次郎と松平春嶽に拝謁し建白書と摂海の図を贈る

1863年 (文久3年) 龍馬(29歳)
1月15日 勝海舟 下田に寄港中の山内容堂をたずね龍馬ら脱藩罪赦免の内諾をえる
1月22日 龍馬 順動丸で江戸を発って2月4日に京都に(松平春嶽も乗船)
2月25日 龍馬 正式に脱藩罪が赦免される。
4月 2日 龍馬 江戸で大久保一翁訪問、松平春嶽宛ての親書を受け取る
4月 3日 龍馬 大久保一翁から手紙をたくされ順動丸で品川を出航する。
5月16日 龍馬 越前福井、横井小楠邸で三岡八郎より操練所運用資金借用
     (この夜半か?坂本龍馬、横井小楠 三岡八郎邸を訪問。)
龍馬『君が為 捨つる命は惜しまねど 心にかゝる国の行く末』という歌を謡う。
5月27日 龍馬 京越前藩邸に中根雪江を訪問、春嶽公の入洛を願う
6月29日 龍馬 勝海舟の使者として京越前藩邸に入る 
援助金の礼と騎兵銃1挺を贈る村田巳三郎(氏寿)と面談
7月 1日 龍馬 近藤長次郎と京越前藩邸で村田巳三郎訪問
7月22日 龍馬 岡田造酒助を京都越前藩邸にたずね陸奥陽之助の身柄について相談をする
7月末  福井藩の上洛頓挫。三岡が罰を受け、小楠も帰ってしまう
10月 龍馬 海軍塾塾頭をつとめる
11月 7日 龍馬 京都東本願寺にて松平春嶽に拝謁し秘密を言上、中根雪江をへて十五両を賜る

1864年(元治元年)龍馬(30歳)
2月 龍馬 国元召喚の延期が認められず、再び脱藩する。
2月19日 勝海舟 熊本城下新町の本陣に入る 
2月20日 龍馬 勝海舟の使者として横井小楠訪問
4月 6日 龍馬 横井小楠訪問、横井左平太・忠平と岩男内蔵允を海軍塾に連れ帰る。
5月14日 神戸海軍操練所創設 龍馬塾頭になる
7月19日 禁門の変

1865年(慶応元年))龍馬(31歳)

3月12or18日 神戸海軍操練所廃止。
5月 龍馬 薩摩藩の援助により、長崎で社中(亀山社中)を結成。福井藩から6名が参加する。
5月19日 龍馬 熊本の横井小楠を訪問

1866年 慶応2年 龍馬(32歳)
1月21or22日 龍馬 斡旋し京都で桂と西郷、小松らが会談し、薩長同盟(薩長盟約)が結ばれる
1月23-24日 龍馬 伏見寺田屋で幕吏に襲撃され負傷(寺田屋遭難)。
8月25日頃  龍馬 長崎にて越前藩士下山尚をたずね面談、大政奉還策の推進を松平春嶽に伝えるように依頼
8月末頃  龍馬 越前藩士下山尚の訪問をうけ面談

1867年(慶応3年) 龍馬(33歳)
2月下旬 土佐藩、坂本龍馬と中岡慎太郎の脱藩罪赦免を決定する。
4月上旬 社中を土佐海援隊に改編。龍馬 隊長となる
4月23日 いろは丸が紀州の明光丸と衝突し、沈没する
6月 8日 龍馬 長崎にて中江某と出会う
6月15日 龍馬 長岡に「船中八策」を起草させ、土佐藩の後藤象二郎に示す
6月26日 薩土芸・三藩による王政復古について意見が一致、「約定書」成る
7月20日 龍馬 京都に戻る
7月29日 龍馬 春嶽から託された手紙を届けるため土佐へむかう佐々木三四郎を追い京都より大坂へ下る
8月14日 龍馬 下関に寄港し、佐々木三四郎へ楢崎龍を紹介したのち夕顔丸にて長崎へむかう
9月28日 龍馬 約五年ぶりに土佐坂本家へ帰り、当日と翌日に同志やその家族たちの訪問をうける
10月 9日 龍馬 京都に入り酢屋へ宿泊
10月13日 龍馬 酢屋から近江屋に宿を移す
10月14日 将軍慶喜 大政奉還 
10月16日 龍馬 新官制議定書を戸田雅楽(尾崎三良)の協力を得て作成
10月23日 龍馬 後藤象二郎から福井へ行ってくれるよう依頼をうける
10月24日 龍馬 岡本健三郎に福井出立の時刻を伝えた手紙を送り、ともに福井へ旅立つ
10月28日 龍馬 福井に入り村田巳三郎と面会
10月30日 三岡八郎・松源太郎(松平正直)目付の出淵伝之丞が龍馬の宿、莨屋旅館をたずね面談
11月1日 龍馬 越前福井藩主松平茂昭、松平春嶽、に拝謁し上京を要請
11月2日 龍馬 莨屋旅館で三岡八郎に会い新政府の構想、財政策を問う
龍馬 中根雪江にも面会し、三岡の新政府出仕を直接懇願した?
春嶽 福井を出立し、同月8日に京都到着。また中根もほぼ同時期に上京している
11月 3日 龍馬 福井を出立5日には京都に戻っている
11月 5日 龍馬 酢屋に入り新政府綱領八策を草案
龍馬 後藤象二郎に「越行(えつゆき)の記」を書き、
新政府上層部に三岡八郎を新政府に出仕させるように強く推薦(2014年発見)
11月10日 龍馬 中根雪江にあてた手紙で三岡の新政府出仕を重ねて懇願(2017年発見)
11月15日 龍馬と中岡慎太郎、刺客の襲撃をうけ龍馬は同日に絶命、
     同日、三岡八郎は足羽川畔で懐に入れていた龍馬の手紙と写真を紛失する。



「竜馬がゆく」を初めて読んでからもう40数年。、その間に巷では新しい発見がたくさんあり、龍馬に対する見方、歴史の解釈も随分変わったことを今回知ることになりました。春嶽と龍馬は江戸や京都ではひんぱんに会っているのに、地元の目もあってか福井の地では会えなかったというのも、驚きでした。

昔は小説を読んであとはその現場に行って碑文や説明板を読むくらいしか情報がなかったのですが、今やwebで市史や県史、国会図書館まで見られるようになって、とても調べるのが容易になりました。

学生時代に比べると、京都にも龍馬ゆかりの地もかなり増えているようで、また機会があれば立ち寄ってみたいと思いました。

福井に行った翌朝、神戸に行ったので海軍操練所跡碑も見に行きました。
確か昔は神戸税関の横にひっそりあったはずですが、目立つ場所に移転したようです。

神戸海軍操練所跡00
神戸海軍操練所跡00 posted by (C)FLAT4



福井に龍馬紀行に行こうと決めてからの半月間、久しぶりに歴史に没頭できて楽しかったです。
私のわがままにお付き合いいただいたNEWAGEさんには感謝しています。

そしてこのブログを最後までお読みいただいた皆様、本当に有難うございました。



最後は越前福井藩藩主。幕末四賢候の一人。松平春嶽の言葉で締めたいと思います。

「我に才略無く我に奇無し。常に衆言を聴きて宜しきところに従ふ。」
Posted at 2017/07/25 22:18:41 | コメント(5) | トラックバック(0) | ツーリング&ドライブ | 日記
2017年07月16日 イイね!

福井 坂本龍馬紀行 その3♪

福井 坂本龍馬紀行 その3♪  福井 坂本龍馬紀行 その2♪の続きです。

莨屋(たばこや)旅館の後は莨屋旅館にお醤油を卸していたという室次醤油さんに向かいます。


福井龍馬紀行42
福井龍馬紀行42 posted by (C)FLAT4



1573年創業の日本最古の醤油屋さんなんだそうです。 こちらは本社ということで日曜日はお休みで、通り沿いにある同社が経営するガソリンスタンドでお醤油を拝見しながら休憩させていただきました。


福井龍馬紀行43
福井龍馬紀行43 posted by (C)FLAT4


坂本龍馬も味わったという天然醸造のおしょうゆ、幕末に世界に輸出されていたそうです。
おみやげに買って帰りたかったんですが、帰りのSAでも龍馬しょうゆは売ってなくて残念でした。
ネットで買えるようですので、また買ってみたいなと思います。


福井龍馬紀行44
福井龍馬紀行44 posted by (C)FLAT4



次に訪れたのは神明公園内にある、福井藩重臣の中根雪江の像でした。


福井龍馬紀行45
福井龍馬紀行45 posted by (C)FLAT4



松平春嶽はわずか11歳で江戸の田安徳川家から越前松平家に養子に入り、16代藩主となったため、当時32歳だった中根は春嶽の教育係として仕えました。
中根は福井において国学の精神を唱道し、熱心に同志を勧誘したそうです。


福井龍馬紀行46
福井龍馬紀行46 posted by (C)FLAT4



中根雪江の自宅跡は神明公園の斜め前にありました。
お城からも近いので、毎日の登城も楽だったでしょうね。


福井龍馬紀行51
福井龍馬紀行51 posted by (C)FLAT4



佐佳枝廼社(さかえのやしろ)境内にも中根雪江翁顕彰碑があります。
中根の友人勝海舟の撰文染筆によるもので、篆額は春嶽の揮毫。
明治25年建立され福井震災で倒壊したため、割れた後や傷がたくさんあります。


中根は、横井小楠が帰国後も春嶽の参謀として常に行動を共にしたようです。言葉数は少なく常に冷静沈着な人物で、龍馬も福井藩の重鎮として一目置いていたのでしょう。当時のことをたくさんの本にまとめておられ、それらは幕末の歴史の第一級の史料として重要視されています。福井県史を見るとたくさん中根の著述を引用していることでもわかります。中根の著述無くしては幕末の歴史は語れないといわれているそうです。


福井龍馬紀行50
福井龍馬紀行50 posted by (C)FLAT4


松平春嶽が祀られている福井神社の、摂社である恒道神社にも中根は祀られています。


福井龍馬紀行49
福井龍馬紀行49 posted by (C)FLAT4



幕末の福井藩の活躍の中心に常に存在し、欠かせない存在だった中根雪江ですが、知名度はかなり低いですね。私も今年発見された龍馬の手紙の宛先が中根だったことで、彼を初めて知りました。

彼の著書のいくつかは国立国会図書館デジタルコレクションでつまみ読みすることができました。主に松平春嶽公の功績を書き記したものですが、索引を見ただけで、中根雪江自身が徳川慶喜や勝海舟、薩摩の小松帯刀、大久保 利通などと交流、活躍していたことがわかります。

福井県は由利公正を主人公候補に、県内の偉人達が活躍する福井が舞台の大河ドラマの誘致を目指しているそうです。ところが原作となるような由利公正の小説でいうと、尾崎 護の「経綸のとき―小説・三岡八郎」ぐらいしか無さそうです。そして(Google Booksでつまみ読みしただけですが、)この小説は中根雪江の著述からの引用がとても多いです。

ということで私が思うに、もし大河ドラマ化するとしたら、中根からの目線でチーム越前松平家の幕末の活躍を描くと、めちゃくちゃ面白いものになると思いますね~♪。

前編 橋本左内の活躍を中心とした安政の大獄まで(大坂~江戸)
中編 横井小楠の活躍を中心とした挙藩上洛計画(福井)
後編 三岡八郎の活躍を中心とした大政奉還と明治維新政府(京都~東京)

適当ですがこんな感じで、激動の傍らに常に松平春嶽と中根雪江がいるという話です。
そしてドラマ化を機会に、彼の書いた『再夢紀事』、『続再夢紀事』あたりは現代語で再販してほしいものです。これまでの薩長土中心ではなく、実は明治維新は福井が日本の中心地だったと、明治維新史観が大きく変わるように思います。


福井龍馬紀行57
福井龍馬紀行57 posted by (C)FLAT4



すっかり中根雪江に惚れ込んでしまいましたが、この後は福井城に向かいます。


福井龍馬紀行53
福井龍馬紀行53 posted by (C)FLAT4


福井城内堀公園にある横井小楠と三岡八郎の像。


福井龍馬紀行55
福井龍馬紀行55 posted by (C)FLAT4


三岡は横井に資本主義経済を学び、福井の地場商品の開発、育成、そして輸出ルートの開拓に取り組んだようです。最初は生糸、そしてお茶、麻、蚊帳地、紙、そして室次の醤油も海外に輸出、ほんの数年でその売上は300万両にもなったんです。

坂本龍馬は福井藩に海軍操練所設立のための資金5000両(あるいは1000両)という大金を借りることができたのも、この二人が福井の物資をオランダの商社を通じて海外に輸出していたからでしょうね。

明治以降も三岡は欧州から絹織物数種を持ち帰り、福井の有志に見せて新しい絹織物の考案を依頼したことから、羽二重製織の技術研究が始まり、明治20年頃には技術の基礎も確立し、福井県産絹織物の輸出量は、大正初年から半ばにかけては日本全国の60%を占めるに至り、名実ともに世界一の生産地となりました。

この二人の像の説明にはここまでのことは書かれていないので、なぜこの時期の二人の旅立ちの姿を像にしているかわかりにくいですよね。私は、この二人の功績はTPPやFTAなどのこれからの自由貿易の時代を迎えるにあたり、今一度見直される時期ではないかと思います。このあたりも大河ドラマでとりあげると面白いでしょうね。(^^)


調べているとどんどん面白くなってきて、過去の史料だけではなく、財務省から経産省、JETROなどのデータで福井の経済や貿易の内容を調べてしまいました。
文章もすべて自分の言葉で書いてますので、いつもよりとっても時間がかかってしまいます(^_^;)

ということで、おそらく次くらいで最後になると思いますが、最後は福井藩主で幕府の政事総裁でもあった松平春嶽についてのブログになるはずです。

今回も最後までお読み頂き、有難うございましたm(_ _)m
Posted at 2017/07/23 22:03:22 | コメント(0) | トラックバック(0) | ツーリング&ドライブ | 日記
2017年07月16日 イイね!

福井 坂本龍馬紀行 その2♪

福井 坂本龍馬紀行 その2♪福井 坂本龍馬紀行 その1♪の続きです。

ここからはクルマを駐めて、レガシィに積んできた私のクロスバイクでまわります。


福井龍馬紀行19
福井龍馬紀行19 posted by (C)FLAT4



その前に腹ごしらえということで、NAさんにこちらのお店に連れて行っていただきました。


福井龍馬紀行21
福井龍馬紀行21 posted by (C)FLAT4



山椒の香りが食欲をそそる味噌カツ、とっても美味しく、またお店の雰囲気もすごくよかったです。


福井龍馬紀行22
福井龍馬紀行22 posted by (C)FLAT4



今回のテーマとは違いますが、戦国時代にここを治めていた柴田勝家の像もありました。


福井龍馬紀行23
福井龍馬紀行23 posted by (C)FLAT4



坂本龍馬と福井藩との最初の接点は江戸でした。
1862年(文久2年)3月龍馬(28歳)は土佐藩を脱藩、各地を経て江戸に来ます。
そして12月、前藩主の松平春嶽(41歳)への面会を求め、藩の重役であった中根雪江(56歳)と出会います。
翌日、龍馬は春嶽と初対面し、今後の師となる勝海舟(40歳)や横井小楠(54歳)を紹介されることになります。

その年はちょうど春嶽が謹慎の罪がとけ、熊本から学者の横井小楠を江戸に呼んで、7月に幕府の政事総裁職という総理大臣的な新設の職についたところでした。

そして勝海舟の弟子となった龍馬(29歳)は翌年1863年 (文久3年) 福井に初めて訪れます。
目的は勝海舟の使いで、幕府の海軍操練所の運用資金を福井藩から借りることでした。

5月16日龍馬はこちらの横井小楠の住まいを訪れ、春嶽の側用人で小楠に師事していた三岡八郎(後の由利公正)(35歳)とも初対面します。


福井龍馬紀行24
福井龍馬紀行24 posted by (C)FLAT4




横井小楠  [Public domain], via Wikimedia Commons


横井小楠寄留宅は足羽川(あすわがわ)に掛かる幸橋(さいわいばし)の北詰めにあり、その対岸には三岡八郎の自宅がありました。この写真は南詰から対岸を見ていて、手前の草っぱらあたりに三岡邸はあったようです。


福井龍馬紀行29
福井龍馬紀行29 posted by (C)FLAT4



この橋を前の前年に架橋したのが三岡八郎でした。当時は木造です。


福井龍馬紀行33
福井龍馬紀行33 posted by (C)FLAT4



この夜には、龍馬は横井小楠とともに三岡八郎宅を舟に乗って訪れました。
邸宅跡として碑が建てられています。


福井龍馬紀行27
福井龍馬紀行27 posted by (C)FLAT4



福井龍馬紀行31
福井龍馬紀行31 posted by (C)FLAT4



ちょうどこの1863年 (文久3年)は前のブログに書いた、福井藩では挙藩上洛計画を練っていた頃ですので、海軍操練所設立の話を含めて、幕政改革の話で盛り上がったんでしょうね。
「竜馬がゆく」では、龍馬は羽織のヒモを口にくわえては振り回し、議論に夢中になっていたと表現されていました。


福井龍馬紀行26
福井龍馬紀行26 posted by (C)FLAT4



ここで、夜通し3人は飲み明かしたようで、龍馬も『君が為 捨つる命は惜しまねど 心にかゝる国の行く末』という歌を謡ったそうです。その歌碑がこちらです。

「竜馬がゆく」では翌日福井城に登城し、春嶽公に面談し、5000両の借用を直談判したことになっています。


福井龍馬紀行25
福井龍馬紀行25 posted by (C)FLAT4



このあたりの石造物や石垣はたいてい福井県福井市の足羽山で採掘される凝灰岩の一種、笏谷石(しゃくだにいし)が使われているのに、この歌碑の石だけは違うような・・・と疑問に思って背面を見ましたら、龍馬の郷土、高知から運ばれてきた石のようです。


福井龍馬紀行30
福井龍馬紀行30 posted by (C)FLAT4



幸橋南詰上流側には由利公正(三岡八郎)広場があり彼の銅像があります。


福井龍馬紀行34
福井龍馬紀行34 posted by (C)FLAT4



幕末の福井藩の財政立て直しや「五箇条の御誓文」の原案となった「議事之体大意」(ぎじのていたいい)を作成するなど、福井だけでなく近代日本の国づくりに大きく貢献しました。


福井龍馬紀行32
福井龍馬紀行32 posted by (C)FLAT4



龍馬はこの後、京都の福井藩邸に、5月末には中根雪江を訪問したり、6月末には勝海舟の使いで借用金のお礼に訪問したり、7月にも相談で訪問と、福井藩と密接な関係になっていることがわかります。11月には京都東本願寺にて松平春嶽に拝謁しています。


龍馬の言葉で有名な「日本を今一度せんたくいたし申候事」というフレーズは、この時期6月末に(龍馬の姉宛に書かれた手紙の中にあります。このフレーズの続きに「此思付を大藩にもすこむる同意して、使者を内下サルヽ事両度。然ニ龍馬すこしもつかへをもとめず。」とあり、訳すと「大藩が私の思いに同意してくれて、内々に使者をよこしてくれるけど、龍馬はその藩に仕える気はありません。」という意味になると思いますが、これはおそらく福井藩のことでしょう。


福井龍馬紀行35
福井龍馬紀行35 posted by (C)FLAT4



九十九橋を渡ります。前を走っているのはNAさんです。


福井龍馬紀行36
福井龍馬紀行36 posted by (C)FLAT4



足羽川、イメージしたより大きな川でした。


福井龍馬紀行37
福井龍馬紀行37 posted by (C)FLAT4



戦国期以来、福井城下の足羽川に唯一架かる橋で、北半分が木造、南半分が石造りの橋。北国街道の一部だったそうで龍馬もこの橋を渡って福井城下に入ったのでしょう。


福井龍馬紀行38
福井龍馬紀行38 posted by (C)FLAT4



次に目指したのが、莨屋旅館跡(たばこやりょかん)今は表通りから一本中に入ったところにありますが、昔は賑やかで坂本龍馬の福井での定宿だったところです。


福井龍馬紀行39
福井龍馬紀行39 posted by (C)FLAT4



1867年(慶応3年)10月14日 慶応3年 龍馬(33歳)、松平春嶽や大久保一翁が唱えた大政奉還策を、龍馬が後藤象二郎を通じて土佐の前藩主山内容堂より15代将軍・徳川慶喜に建白させ、260年続いた幕府は朝廷に政権を返還しました。

そして10月16日 龍馬は新政府の職制とその人事案を書いた「新官制議定書」を三条実美の家臣である戸田雅楽(尾崎三良)の協力を得て作成、そこには福井の松平春嶽、三岡八郎そして熊本に帰っていた横井小楠の3名の名前も入っていました。

10月24日龍馬は土佐藩の山内容堂公の親書を手に目付け岡本健三郎とともに福井に出発し、28日にこの莨屋旅館に到着。福井藩の村田巳三郎と面会し、松平春嶽公の上洛と当時謹慎中であった三岡八郎との面談を依頼します。

そして10月30日、福井藩の見張り役2名の立ち会いのもと、三岡八郎は特別に外出を許され、龍馬と莨屋旅館で久々の再会を果たします。新政府の構想、財政策など、壮大な会話が朝から深夜まで二人の間で繰り広げられ、目付役の3人はさぞかし驚いたことであったろうと思います。実際にこの時二人の間で語られた内容が、龍馬の「新政府綱領八策」となり、三岡の「太政官札」財政策そして明治政府の基本方針である「五箇条の御誓文」につながっていくのです。

「竜馬がゆく」でもこの小さな福井の旅館の中で、歴史のターニングポイントがあったことが、大きくクローズアップされています。

この翌日の11月1日に龍馬は福井城に登城し、松平春嶽に上洛を要請し、また2日に莨屋旅館で三岡八郎と話をしたといわれています。中根雪江にも面会し、三岡の新政府出仕を直接懇願したという話もあります。


福井龍馬紀行40
福井龍馬紀行40 posted by (C)FLAT4



NAさんと石碑を見ながらそんな話を咲かせていたところ、隣の喫茶店から出てこられた男性が話しかけてこられました。その方はなんとこちらの土地の所有者で、莨屋旅館を前の所有者から引き継いだ後、5代に渡ってこの地を守っておられるご当主でした。旅館は火災で無くなって今は仕出し料理屋さんを営んでおられます。


福井龍馬紀行41
福井龍馬紀行41 posted by (C)FLAT4



全国の龍馬ファンからは福井の聖地とされているそうで、毎年たくさんの方が探して訪れるそうです。予約をすればこちらの2階で幕末当時のレシピを再現した龍馬弁当もいただけるとか。

「今は息子に代を譲っているけれど、この建物を建て直す時が来たら昔の莨屋旅館を再現するような建物にして後世に繋げていきたいと思ってるんです。」と仰っていました。今だとクラウドファンディングなどで資金を募れば、かなりの資金が集められるのではないかと思います。


この莨屋旅館での話は2014年4月に発見された、龍馬が京都に戻って11月5日に書いた、後藤象二郎に宛てた報告書「越行の記(えつゆきのき)」で、新事実が明らかになりました。当時春嶽はすでに2日に京都への出発準備をしていて龍馬には会えなかったということが最近わかったようです。

さらに今年2017年1月にも龍馬の新しい手紙が発見され、11月10日に京都にいる中根雪江に対し書いた、「早く三岡三郎を上洛させるように」と依頼した手紙が見つかっています。

そのわずか5日後、11月15日の夜、足羽川の川べりを歩いていた三岡八郎は急な突風に出遭い、懐に入れていた龍馬の写真と手紙を紛失してしまいます。そしてちょうどその時刻、坂本龍馬は京都で暗殺されていたのです。

現在までに、龍馬の手紙は100通以上見つかっていますが、存命中の最後の手紙が、三岡の出仕のことだったというところに、当時、龍馬がいかに三岡を重要視していたかわかります。


2つ目のブログは、龍馬の一生で2度の福井訪問をひとつにまとめたので、とても文字が多くなってしまいました。私も福井に行く前から行った後のこの数日間は時系列で龍馬と福井との関係を年表にしてまとめ、福井県史や市史をはじめ、様々なwebサイトから情報を集めました。久しぶりに「竜馬がゆく」も読んで、史実との違いを確認しながらの数日は楽しかったです。


ということで、まだまだブログは続きます。(^^)
Posted at 2017/07/22 19:06:06 | コメント(1) | トラックバック(0) | ツーリング&ドライブ | 日記
2017年07月16日 イイね!

福井 坂本龍馬紀行 その1♪

福井 坂本龍馬紀行 その1♪「福井の人物」と聞くと私が最初に頭に浮かぶのが、「松平春嶽」、幕末の越前福井藩主。
それは幼い頃に司馬遼太郎先生の「竜馬がゆく」で福井を知ったからです。

学生の頃には京都や萩、長崎、鹿児島、高知、熊本など、各地へ幕末の史跡巡りをしてきましたが、福井県だけは行く機会がありませんでした。また福井県に行く機会は多々あっても、史跡を巡ることはなかったんです。

そんなことで、福井を深く知るにはまず坂本龍馬の福井での足跡をたどることから始めたい。そんな私の想いに、福井在住のNEWAGEさんが付き合ってくださることになりました。くしくも今年は龍馬没後、そして大政奉還150年後の年でもあります。


福井龍馬紀行01
福井龍馬紀行01 posted by (C)FLAT4



大阪から名神高速で北へ走ります。昔ならてくてくと街道を歩いたのでしょうか。


福井龍馬紀行02
福井龍馬紀行02 posted by (C)FLAT4



北陸道は昔は北国街道でしょうか。龍馬は大阪から福井の道のりを3日掛けて歩いたようです。


福井龍馬紀行03
福井龍馬紀行03 posted by (C)FLAT4



のんびりIモードで行きましたが燃費は15.5km/lでした。高速ではSモードのほうが燃費いいですね。


福井龍馬紀行04
福井龍馬紀行04 posted by (C)FLAT4



待ち合わせ場所にはもうNAさんが来られていて、さっそく朝のコーヒーをいただきました。


福井龍馬紀行05
福井龍馬紀行05 posted by (C)FLAT4



最初の目的地は「丹厳洞(たんがんどう)」こちらの草庵は江戸時代の建物で、藩主の松平春嶽をはじめ中根雪江、横井小楠、三岡八郎(由利公正)など幕末の志士たちが密議をしたところです。
今回の紀行は龍馬とこの4人とのつながりを中心にゆかりの地を訪ねます。


福井龍馬紀行06
福井龍馬紀行06 posted by (C)FLAT4



松平春嶽の像も建っています。まちの中心から離れているので、ひっそりと静かです。


福井龍馬紀行07
福井龍馬紀行07 posted by (C)FLAT4



あまり観光客が訪れることもないのか、お庭の敷石も苔生していました。


福井龍馬紀行08
福井龍馬紀行08 posted by (C)FLAT4



草庵の中は資料館になっています。これは本物でしょうか


福井龍馬紀行09
福井龍馬紀行09 posted by (C)FLAT4



この丹厳洞には龍馬が訪れた記録はないのですが、龍馬が福井を訪れた際の三岡八郎の会見録が保存されていて、複写をみることができます。


福井龍馬紀行10
福井龍馬紀行10 posted by (C)FLAT4



丹厳洞 宮崎信雄 氏蔵 とあります。


福井龍馬紀行11
福井龍馬紀行11 posted by (C)FLAT4



中は薄暗くまさに密談をするにはぴったりの雰囲気です。


福井龍馬紀行12
福井龍馬紀行12 posted by (C)FLAT4



1863年(文久三年)3月には春嶽は幕府の政事総裁職を辞めて福井に戻ってきてしまいます。そして)5月から7月の頃、京都の攘夷派を駆逐し福井藩が政治の核となる「挙藩上洛計画」というものを企てていました。当時おそらく藩内の反対派に情報が漏れるのを恐れて、ここで密かに計画が練られていたのでしょう。



松平春嶽- (福井市立郷土歴史博物館所蔵品。) [Public domain], via Wikimedia



この計画は頓挫するのですが、その直後「八月十八日の政変」では、会津と薩摩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派と急進派公卿をを京都から追放するわけで、場合によっては会津は福井と組んでいたのかもしれません。


福井龍馬紀行13
福井龍馬紀行13 posted by (C)FLAT4



2階もありました。外観は数寄屋造りだそうですが、中から見ると土蔵造りの漆喰壁です。


福井龍馬紀行14
福井龍馬紀行14 posted by (C)FLAT4



こちらの施設は予約をすれば午前中のみ見学が可能です。


福井龍馬紀行15
福井龍馬紀行15 posted by (C)FLAT4



現在は高級料亭として営業されておられます。


福井龍馬紀行16
福井龍馬紀行16 posted by (C)FLAT4



奥には洞窟もあります。戦時中は防空壕であったそうです。


福井龍馬紀行17
福井龍馬紀行17 posted by (C)FLAT4



今の時期も苔が青々としてとても綺麗でしたが、秋の紅葉の時期もいいでしょう。


福井龍馬紀行18
福井龍馬紀行18 posted by (C)FLAT4



京都でも、幕末の志士が謀議をした現存の建物はほとんど残っていないので、とても貴重なものです。
昨年国登録文化財に指定されたそうですが、紹介する福井市のwebサイトが「丹巌堂」と漢字を間違っていてさびしいですね。


幕末ファンなら必ずおさえておきたい福井の重要歴史スポット。訪れることができて感激でした。


続いては、龍馬が歩いた福井城下を回りますが、それは次のブログで。
Posted at 2017/07/22 19:04:57 | コメント(3) | トラックバック(0) | ツーリング&ドライブ | 日記
2017年07月08日 イイね!

六甲山~摩耶山~再度山へワインディングツーリング♪

六甲山~摩耶山~再度山へワインディングツーリング♪お友だちのNEWAGEさんが来られるということで、関西のクルマ好きの聖地、六甲山にドライブに行ってきました。

待ち合わせは西宮北IC、六甲山の北側になります。有馬から芦有で上がれば手っ取り早いのですが、裏六甲から上がることにしました。

先導して走るのは緊張します。いきなり出る方向を間違えました。(^_^;)


裏六甲ドライブウエイは勾配があるタイトなワインディングです。テクニカルなコースでバイクに乗っていた頃から一番好きなコースでした。

最徐行で上がる先行車がいたので、私たちも時速20~30km/h程度で、道路脇に咲いた紫陽花を眺めながらのんびり上がりました。この前みんカラでクルマを草っぱらに駐めて写真を撮っておられるのをみたので、何処かなぁと探してみたのですがわからず・・・。





そこから西六甲ドライブウェイで西方面へ。




向かったのは奥摩耶ドライブウェイです。こちらは比較的中くらいのRのコーナーが中心で、大きく回り込んだコーナーが多い道です。私もFLAT4号で走るならこの道が一番相性がいいと思います。道端をハイカーやチャリダーが通っているので、コーナー進入は慎重にゆっくりで、出口がクリアーなのを確認してアクセルを踏みます。それでも息の長いコーナーが多いので、とても気持ちがいいです。みんカラではもっぱら芦有ばかりが有名になってますが、私はこっちのほうが好きかな~♪

FLAT4号があまりにも楽しそうに走っているからか、NEWAGEさんが「一度隣で運転してるのを見てみたい」ということで、NEWAGEさんを助手席に載せてFLAT4号だけもう一往復しました。


当初はここからランチorコーヒーに行くつもりが、ちょっと展望を見るためにもう一箇所、再度山からヴィーナスブリッジへの再度山ドライブウェイに行きました。ここは途中かなり狭いところもあります。ちょうど軽自動車が先行車だったので、ここものんびりペースで行きました。




ここまで来ると神戸よりさらに西側のまちが眼下に広がります。

180度のパノラマビューです。




景色を見てのんびりしたあとは、また来た道を戻り、ランチスポットに向かいます。
再度山から西六甲へはタイトなワインディングが延々と続きます。ルームミラーに映るNEWAGE号との車間距離を確認しながら、Rの小さいコーナー手前では大げさに減速して、「次はヘヤピンですよ」とお知らせします。

途中から徐々に立ち上がり重視のラインでスピードを上げて、4WDならではのトラクションパワーを楽しみます。リズミカルに続くコーナーに合わせて左右に大きくロールさせながら、狙ったラインをトレースしていると、まるでバイクでハングオンしながらコーナーを攻めている気分です。

エンドレスに続くタイトなワインディングにNEWAGEさんもだんだん馴れてこられたようで、立ち上がりでもピタッと後ろに着いてきてはります!!トータルではゆっくり走っているのですが、コーナーの出口でルームミラーを覗くとMT&LSD付きのFLAT4号にぴったり追従しててビックリ! (普通、同じ速度なら後続の車はワンタイミング遅れますよね)さすがtS、そしてNEWAGEさんのドラテクですね。





ランチは天覧台にある、TENRAN CAFEに訪れました。





ここからは六甲アイランドやポートアイランド、神戸空港などが見下ろせます。








お料理はGalaxyS8で撮ってます。最近のスマホはこのくらい背景がボカせます。





ランチの後は、芦有ドライブウェイ。定番の東六甲展望台です。





ここでは互いの車でも試乗を楽しみました。
FLAT4号に比べるとWRXS4tSはボディ剛性、そしてフラットライドなロール剛性の高さを感じます。ステアリングもシャープで操舵角も小さめです。タイヤもワイドなのでかなり限界は高そうですね。

FLAT4号のステアリングもNEWAGEさんに握っていただき、私は助手席で動画を撮ってみました。



動画は私のコーナリング目線です。コーナーの奥に視点を向け、クルマがロールしても目線は水平か逆に傾けていますね。
再生速度は倍以上に上げてます。このスピードで走れるクルマはありませんので(^^)


夕方になってきたので芦有ドライブウェイで山を降り、サンシャインワーフへ。




私もNEWAGEさんもこの手のイベントは初めてでしたが、色んなSHOPの方のお話を聞くのは楽しかったです。

主にWRXの足回りについて聞いてみましたが、やはり顧客のほとんどは「ロールせず、乗り心地がよく、車高を下げたい」というニーズだそうで、「走り」とか「減衰力UP」を求める声はほぼ皆無だそうです。PROVAの方もFLAT4号のアイフェルのようなサスペンションはもう作れないとのことでした。(求めるなら40万円のレーシングダンパーKITしかないそうです。)減衰力を上げたショックアブソーバー単品なども、今はまず売れないそうで、売ってるお店はありませんでした。

ロールしない硬いバネに柔らかいショックアブソーバーの組み合わせは、最近のスバルだけかと思っていましたが、アフターパーツメーカーもどこも同じなんですね・・・。「オーダーメードで作るしか無い」とはっきり言われました。

見た中では唯一、HKSのストリート用車高調整KITで「マックスIV GT Spec-A」という製品が、ラリードライバーの新井敏弘選手が開発に携わっていて柔らかめのバネとたっぷりなストロークで適度なロールをキープするそうで、自分の走りの好みに一番近いかなぁと思いました。

HIPERMAX MAX Ⅳ GT Spec-A Tuned by ARAI TOSHI

こんな風には到底走れませんが・・・(汗)

次のクルマはこの足を入れたいなって思いました。今のFLAT4号の足回りは満足してるので、できるだけ長持ちして欲しいですけどね。


気がついたらもう19時を回っていたので、びっくりドンキーでハンバーグを♪
写真は撮り忘れました。(^_^;)




食後はアイスカフェラテでまったりしました。




最後の写真もスマホで撮ってみましたが、さすがにちょっとノイズがひどいですね。





今日は久しぶりに六甲山を満喫して、1日クルマトークをどっぷり楽しみました。
NEWAGEさんも、これほど長時間タイトなワインディングを走られる機会はなかったそうで、ちょっと楽しくなったと言っていただけて、ホッといたしました。(^^)


NEWAGEさん、遠路はるばる有難うございましたm(_ _)m
Posted at 2017/07/11 00:06:32 | コメント(9) | トラックバック(1) | ツーリング&ドライブ | 日記

プロフィール

「先ほど帰宅しました!
お会いした皆様お疲れ様でした~
\(^o^)/」
何シテル?   12/07 22:15
水平対向4気筒エンジンにちなんだHNで”FLAT4(フラットフォー)”と申します。 お出掛けと写真と愛車メンテの記録が中心です。 2006年にみんカラを...

ハイタッチ!drive

みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2017/7 >>

      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031     

リンク・クリップ

最高速今昔物語 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2019/05/02 22:51:01
 
新城・春花と愛車のある風景(撮影テクニック!?解説付き) 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2019/04/15 20:14:27
【ニッポンの名車】目指したのは感動性能! 4代目スバル・レガシィ 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2017/12/31 18:36:24
 

愛車一覧

スバル WRX STI スバル WRX STI
CBA-VABE4EH-66C [No.10/500] 2018年9月10日工場ライン ...
スバル R1 スバル R1
「小さいことの贅沢を味わう。R1。」 そのクルマは、乗る人の価値観を映し出す。 小さなボ ...
スバル レガシィツーリングワゴン スバル レガシィツーリングワゴン
そのスペシャルティは、 グランドツーリングをスポーツへと昇華させる。 レガシィの卓越し ...
スバル レガシィB4 スバル レガシィB4
スポーツからGTへ 細かなトラブルはたくさんありましたが、 なかなかいい車です。
ヘルプ利用規約サイトマップ
©2019 Carview Corporation All Rights Reserved.