2006年12月29日
69年日本GP
さて今回は、69年日本GPのお話です。
というのも、先日<日本のレース百選>という本で<69年日本GP>を特集する本が出たからです。
もともと古いカーグラフィックを集めるのが好きで、60年代~70年代初頭のものを中心に集めております。
その頃の特集と<日本のレース百選>でのよもやま話とのギャップがさらに楽しく、想像をかきたてられるのです。
69年日本GP、F1ではなく、ドメスティックなレース。
5Lを超えるモンスターマシンががっぷり四つでぶつかる、恐らく今後これ程の熱狂を感じる事が出来ないであろう、と思われるレースでです。
5L超級マシーンを引っさげたTNT(トヨタ・日産・瀧レーシング)対決<※正確に言うと瀧レーシングのポルシェは5Lに満たない>と、限られた予算で参加するいすゞ、小排気量のコニーリオやロータスヨーロッパのワークス仕様等、今では考えられない<超混走>なレースでした。
瀧レーシングは、ポルシェワークスを呼び寄せ、ポルシェ908後にルマンで優勝するヘルマンと日本の誇る名ドライバー田中健二郎さんの組み合わせ。田中健二郎さんはヘルマンよりも好タイムを連発し意地を見せ、クラス優勝の7位。
一方のポルシェ917は、後にF1レースで事故死するシファートとハイパーの組み合わせ。彼らは完全に日本を舐めていた。結局6位に終わる。
ではトヨタと日産はどうだったのか?。
日本GP前にロングランを重ね、実際にレースに出場し、優勝を連発したトヨタは、5Lトヨタ7をもってしても川合さんの3位が精一杯。
レース直前に6Lエンジンでのエントリーをし、10週以上まともに走ることが出来なかったマシンで、成長著しい黒沢さんが1位、そして2位は北野さん。高橋さんは機械式インジェジェクションがいかれ、下位に沈む。
黒沢さんは、燃料が漏れている高橋車を見てペースを落としたらしい。
あとレースが10週長かったら、もしかしたらトヨタが勝っていたかもしれない。
北野さんはドラシャのベアリングがイカれ、何時止まってもおかしい状況。
黒沢さんにいたっては、ハイテンションコードが1本抜け12気筒の内2気筒が死に、タイヤもほとんどボウズだったといいます。
このレースを田中健二郎さんは、<トヨタはレーサーに対し過保護すぎ、型にはめすぎた結果が今回の敗因の要因>と指摘。
一方日産に対しては、GTR等のクルマと混走させる事により、<より実践に近い>状況を作り出せたのが今回の勝因だと指摘しています。
私的には、桜井さんや難波さん率いるレース部隊の執念が勝利に導いたのだと感じています。
熱狂の渦で幕を降りた、69年日本GP。
歴史で<もし>や<たられば>はタブ^-であるが、もしこのレースでトヨタが勝っていたならば、70年GPは開催されていたのでは?と想像します。
日産は勝ち逃げすることなく、戦いを挑んだでしょう。
もしまだ<プリンス>が独立した存在であったなら、69年日本GPに勝っても、70年日本GPに参戦したでしょう。
<日本のレース百選>での黒沢さんの証言だと、本来R383は7Lエンジンを積む予定で、さらにR384は7Lツインターボの計画を進めていたといいます。
昔ノスタルジックヒーローでエンジニアの桜井さんは、R383以降はパワステやクーラーの設置も検討していたと証言しています。
故に現在<R383>と言われているマシンは、<R382にR383のカバーをかぶせたもの>と黒沢さんは証言しています。
そしてもし川合さんが亡くなる事がなかったら、ポルシェとトヨタ、日産との三つ巴のカンナムシリーズが実現していたでしょう。
でも以前元トヨタワークスの大坪義男さんが言った一言、<俺が死んでいたかもしれない>と言うとおり、日本の貴重な人材がさらにこの世から去っていた可能性も否定できません。
皆様にはくだらない<空想>かもしれませんが、観戦する事の出来かった(まだ当時この世に誕生していない)からこそ出きる事であり、恐らく死ぬまでこの空想を続けるのでしょう。
因みに、最初に行われた<日本カンナム>での福沢号の額縁版の写真が何故か札幌の中古ショップで発見し、喜び勇んで買って帰りました。
福沢幸雄さんは、このレースで日本人最高の4位を飾りますが、その後非業の死を遂げます。
何故こんな写真が存在したのか?未だに謎ですが、大事にしております。
今後も資料集めを続けるでしょう。
楽しい<空想>を続ける為に・・・・・。
もし最初の日本GPで、プリンスが他メーカーと同じ体制で挑み、勝利して販売台数を伸ばし、石橋会長の愛想をつかせなかったら、その後どうなったのだろうか・・・とか。
無限に空想は続くのです・・・・・。
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Posted at
2006/12/29 11:45:23
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