
このお正月、母が来てました。
去年は膝や肩の手術をしてリハビリも順調に進み、元気でした。
が、確かに年を取ったなあと感じました。
二人で思い出話をしながら、私がずっと思っていたことをお願いしました。
それは、小さい頃母が作ってくれたオリジナルケーキのレシピを習うこと。
そして、それは母が使っていたケーキ型でしかありえないと思っていること。
大変だろうけど、押入れの奥底に眠っているはずの使い古したケーキ型を引っ張り出して、ぜひ私に譲って欲しいとお願いしました。
母は、
「もうお古だしそんなに高いものじゃないのだからそっちで新しいのを買えばいいじゃないの。」
と言いますが、私にとっての母のケーキ型は何物にも代えがたい宝物。
5才の頃引っ越したばかりの様子もよくわからない北九州で、母に連れられて問屋街に行って買った思い出のケーキ型。
知らないバスに乗り、知らない街に下りる。
そこは住宅街と違う不思議な空気が流れていました。
鉄の焼けるようなにおいや、無機質な空気。
子供にとって、それはなんて強烈な印象でしょう。
目的地はとてつもなく大きな倉庫のようなお店で、母はそこでこのケーキ型を買いました。
ただの鉄の型なのに、ケーキ型は無限に子供の想像力を掻き立てるから不思議です。
私は見るもの見るものが目新しく、おおはしゃぎでした。
そうやって我が家に来たケーキ型は、幾度となく繰り返される誕生日やクリスマスの度に母の嫁入り道具だったおんぼろオーブンに焼き締められて、黒々とした貫禄を身に付けてきました。
ケーキを作っている母は、いつも必ずゴキゲンで始まり、フキゲンで終わりました。
子供の頃は、思ったとおりに泡立たないとか、私が邪魔ばかりするとか、そんな理由だと思っていました。
でも今大人になって自分がケーキを作りながらその時の母の心境に思いをはせるとき、そんな単純なことよりもじっと単調に泡立て器を回していると、彼女の人生ののままならないいろんなことがケーキ生地となってドロドロと彼女の前に渦巻いて出てきていたのかもしれない、と思ったりします。
生地をオーブンに入れるとほ~っと深いため息をついて、あとは焼き上がりを待ちます。
洗い物や後片付けをしている時の母は無口で、その背中に私はとても話しかける勇気はありませんでした。
次第に美味しそうな甘い香りが家中に広がって、家族がどこからともなくキッチンに集まると、母の顔にはまたいつもの笑顔が戻ります。
みんなで焼きあがったケーキをつまみ食いしながら、今日の出来はああだこうだ、と他愛ないおしゃべりが弾みます。
こんなことが何度も何度も繰り返された後、私たちが大人になったこともありいつの間にか母はケーキを焼くことを止めました。
すっかり使われることの無くなったケーキ型は、それでも何度かの引越しでも捨てられることなく眠っていました。
母にとっては、特別な思い入れも無いケーキ型だったのかもしれないけれど、私にとってはなぜか他の何物にも変えがたい宝物に思えてどうしても残したいものでした。
そして今日、そのケーキ型達が母の手書きのレシピや本、きのとやのお菓子とともに届き、第二の人生をはじめました。
私もお菓子を作っている時結構いろんなことを考えます。
料理のときはあまりそんなことが無いのが不思議です。
料理とお菓子はまるで違うと思っているのは私だけじゃないと思います。
お菓子作りをする人にしかわからないかもしれませんね。
この話題、続編を考えています。次はマドレーヌを焼いたら…
Posted at 2009/01/25 14:13:46 | |
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にっき | 日記