
父の33回忌でした。
父は志願兵として戦争に行ってました。戦争の事や自分の事はほとんど話してもらえませんでしたが、過酷な人生を歩んで来たのは間違いないです。
物心ついた時から戦争で、父の父や兄も居たらしいが皆戦争に獲られ、顔も覚えていないと言ってました。学校の先生になりたくて、今の教育大学に授業料免除の特待生で合格したものの、 『 お金がない・仕事がない・食べるものがない 』 と言う状況で、とても進学など出来ないが、教員の夢は捨てきれず、とりあえず国鉄の学校に行き、働きながら勉強してお小遣いをもらっていた。授業と言っても教師も居ないので、毎日自習のようです。
食べるものがないので、親の子殺しが普通に行われ、それが当たり前で罪にも問われない時代。学校から帰ると兄弟の数を数えるのが日課だったそうです。
戦争も末期で、参加できる年齢が引き下げられ、戦争に行けば国から家族にお金がもらえるので志願したそうです。与えられた武器は、ピストルの先に付ける、小さな果物ナイフのみで、弾の補給はほぼゼロ。敵の弾が飛び交う中、こちらは口で 『 パンパン 』 言いながら突入すると言う狂気の世界。映画のような宿舎やテントなど無く野宿で食事無し。へびとかげ草なんでも食べたそうです。
すぐに戦争が終わって帰ってきたが、なぜ生きて帰ってきたかと母親に殴られたと言ってました。死ねば家族に恩給がもらえるそうです。母親が鬼のようですが、全てが狂気の世界です。
ユートピア北朝鮮への移住の噂を聞き付けた母親に行って来いと言われ、歩いて山を越えて港に着いたら既に船が出港した後だったと言うのが2回も続き、会ったことも噂さえ聞いたこともない母と結婚させられ家を放り出され、社宅のある会社に入ってなんとか生活出来るようになったそうです。
ずっと仕事一筋で、遊んでもらった記憶もないし、頑固一徹で良く殴られました。良い思い出が無いですが、学校を卒業させてもらっただけでもありがたいです。
そんな父を偲んで、隣の市ですが自宅の近くの、柿の葉寿司で有名な柿千の料亭では無いけど、ちょっとリッチな食堂でお昼をいただいて来ました。
バカ息子は、やっぱりバカ息子のままです (^-^;
Posted at 2016/05/13 00:50:42 | |
トラックバック(0) | 日記