『どうしてこんなに 好きなのか』 シリーズ、第二段♪
QUEEN(クイーン)について、書いてみようと思います。
前回は、2014年06月13日。
なんと、一年以上前の記事ですね(´ー`A;) アセアセ
>第一回目は、(何回続くかわかりませんがw)、BILLY JOELを取り上げます。
【どうしてこんなに】PIANO MAN ビリー・ジョエル【好きなのか】
ちなみに、お車に関する
『どうしてこんなに 好きなのか』は、こちら↓
【どうしてこんなに】憧れのお車 スカイライン様【好きなのか】
全く稚拙な文章で恥ずかしい限りですが、相変わらず大好きなお車です♪
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「クイーン」との出会いは、小学校5年生の時。
2年後に通う地元の中学校の文化祭を見に行った時のことです。
教室で各クラブ、クラスの展示と、体育館で演劇、コンサートなどの催しがありました。
当時からマンモス校だった学校は、活気があり、ちょっと年上のお兄さんお姉さんたちはとても大人っぽく見えました。
暗幕が引かれ、真っ暗な体育館。暖簾のような黒い幕をくぐると・・・。
窓も閉まっているため、熱気がムンムンで、蒸し暑かったことを覚えています。
突然、ステージに登場したお兄さんたち。
すごい音量で、ギターのソロが始まりました。
(わーっ。なんて大きい音!Σ(゚Д゚ノ)ノ おおぉぉぉぉ~)
当時、大音量で聞く音と言えば、小学校の運動会のスピーカーから流れる「ギャロップ」や「天国と地獄」「走れコータロー」w
プロレスを見に行った時の入場音楽や実況中継のマイクの音。
盆踊りの「斉太郎節」や「炭坑節」。
所属していた金管クラブで全員で演奏する「校歌」「ボギー大佐マーチ」「宇宙戦艦ヤマト」や「ヤングマン」「ダンシングオールナイト」w
「ねえねえー、これなんて曲?」
「知らないけど、クイーンっていうバンドだって言ってた」
同じクラスの男子のお兄さんが演奏していると聞いて、その子を見つけて聞いてみたけど、曲は知らないみたい。
そうよね。
その頃の私たちは、「ザ・ベストテン」で見る聖子ちゃんやゴダイゴや西城秀樹しか知らなかったもの。
中学生のお兄さんて、大人なんだなあと思いました。
ちなみに、私たちが中学生になったときにはロックバンドの演奏は禁止。
私が所属していた「ギタークラブ」では、ビートルズをアコースティクでの演奏でした。
Fコードがどうしても押さえられなくて、簡易コード、カポをつけての演奏ゥゥ。・(つд`。)・。
初めて聴く洋楽の「生演奏」は、曲のタイトルもメロディーもわからないまま、「クイーン」(女王様)
という名前のバンドの、すごく大きな音だったことだけが、記憶に残っています。
その後。
洋楽も好きになり聴き始めて、ラジオでかかるクイーンの曲は、ギターはもっとなめらかで張りがありめっちゃ上手、ボーカルも色艶と迫力がある、
超カッコいいロックバンドでした♪
楽曲も好きながら、やっぱり、フレディ・マーキュリーのキャラクターの魅力には抗えず、カッコいいのだけど、どこかオカシイ、すごく名曲だけれど、ちょっとヘン。
半笑いしながら、彼らの音楽に身を委ねる、ずっとそんな聴き方をしています。(スミマセン)
クイーンは、放課後や休日に教室で一人きりで仕事をしている時、CDをかけてBGMにするだけでなく、テレビについているビデオで再生して視聴していました。
自分で録画した、「ライブエイド」出演時の映像です。
今は、youtubeで見ることができます。ありがたい時代です。
Queen - Live Aid 1985 - Full Concert (7/13/85)
もう、何度見たかわかりません。
彼らの完璧な、魂のこもったパフォーマンスは、私の心をとらえて離しませんでした。
どうしてこんなに見たくなるのだろう。
どうしてこんなに、聴きたくなるのだろう。
その秘密がわかったような記事を見つけたので、ご紹介します。
クイーン最後の来日公演は解散寸前のライブだった!
あれから丸30年、日本公演は何を意味したのか
2015年05月15日
musicvoice
世界を代表する英ロックバンドのQUEEN(クイーン)。30年前のきょう5月15日は、フレディ・マーキュリーが在籍していた最後の来日公演が大阪で行われた日である。「世界で最も売れたアーティスト」に名を連ね、初来日から40年が経った今も人気は根強い。そのクイーンは、最後の来日公演では解散寸前の状態にあったという。しかも、この大阪公演がバンドの本当の最後のコンサートになるかもしれなかった。彼らのまわりで何が起きていたのか。節目に際し改めて当時を振り返るため、クイーンを長年追いかけている音楽評論家の石角隆行氏(六角堂)に当時の状況について寄稿いただいた。
最後の来日公演となった1985年
クイーンは1975年の初来日以来、計6回、全50本のコンサートを行っている。これは本国イギリスを除けば、アメリカ(計8回/250本)、ドイツ(計8回/58本)に次いでの回数だ。彼らがいかに日本を重要拠点と考えていた事がわかる。最後の来日公演となったのは1985年5月。11枚目のスタジオ・アルバム『ザ・ワークス(THE WORKS)』(英国:84年2月27日/日本:3月16日発売)を伴って1984年8月24日にスタートした「ザ・ワークス・ツアー」の一環として欧州、南米、豪州を経ての最終公演地が日本であった。
日本で最初にブレイクを果たし、熱狂的なファンに支持されていた彼らだが、クイーンが世界的人気を博すようになり、フレディ・マーキュリーが短髪口髭のマッチョ指向になった1980年頃からは熱心なファンが離れていく。クイーンが6度目の来日を果たした頃はMTVが台頭し始め、イギリスからはワムやデュランデュラン、カルチャークラブといった新しいアーティストが次々とデビューしチャートを席巻していた時代。そんな中にあってクイーンは「時代遅れ」感が否めず、コンサートのチケットも完売していなかった。5月8日の初日の武道館公演終了後にはフレディを除くメンバー3人が、フジテレビの「夜のヒットスタジオDX」に生出演を果たし公演の告知をしたほどだ。
かくいう私もそのひとり。男がクイーン好きと公言出来ない頃から、クイーン・ファンではあったが、この時期の彼らに関心が薄くなっていた。ただ気になる噂がまことしやかに流れていた。この日本ツアーをもって解散するというのである。ならば最後になるかもしれない彼らを、見届けておこうという思いで最終公演地の大阪城ホールに向かった。
当時の音楽雑誌を見る限りでは、コンサートの内容は概ね評判が高い。しかし、私にはそう写らなかった。ツアー最終日で疲れていたのではという事を差し引いても、ギターのブライアン・メイやドラムのロジャー・テイラーの演奏には覇気が感じされず、唯一、フレディ・マーキュリーだけが広い会場を盛り上げようと孤軍奮闘していた印象で、4人のメンバーがまとまっているようには見えなかった。
初期のアルバム収録曲等から満遍なく演奏されたセット・リストはバンドの歴史を総括しているように思われたし、日本語曲「手をとりあって」をこのツアーで一度も演奏しなかった事も何やら暗示的であった。追い打ちをかけるように発表されたのが、フレディ・マーキュリーのソロ・アルバムのリリースだ。折しも来日公演の真っ最中、シングル『ボーン・トゥ・ラブ・ユー』はノエビア化粧品のCMソングとしてお茶の間で頻繁に流れていた。しかも発売元はクイーンのデビュー以来所属していたEMIからではなく、CBSソニー(現・ソニーミュージック)であった。バンドのボーカリストがソロを出し、レコード会社も移籍となるとクイーンの解散はもはや避けられないのではと思われた。
南アフリカ・サンシティ問題~BAND AIDへの不参加/クイーン解散へ向けての最初のつまずき
来日公演中に行われた音楽雑誌「ミュージックライフ」の取材では、フレディ・マーキュリーは解散の噂を真っ向から否定している。しかし解散説には、それなりに頷けるものもあった。きっかけは前年にまで遡る。84年10月5日よりクイーンは南アフリカのサンシティでコンサートを開催した。当時の南アフリカ政府は白人中心のアパルトヘイト(人種隔離)政策を敷いており、これに対してイギリスの音楽家ユニオンは自国のミュージシャンが同地でコンサートを行わない事を宣言していた。そんな状況の中でクイーンはコンサートを強行した。帰国後、彼らを待っていたのは国内外からの避難の嵐であった。国連は危険思想があるとブラック・リストに入れ、英・音楽家ユニオンは制裁金を課した。クイーンは事実上、イギリスの音楽業界から干されて孤立したのである。
同年、11月25日、ボブ・ゲルドフの呼びかけにイギリスの主だったミュージシャンが集まり、BAND AIDのチャリティ・シングル『Do They Know It’s Christmas?』の録音がロンドンのサーム・ウェスト・スタジオで行われた。クイーンにも声はかかったようだが参加はしていない。もっとも当時のイギリス音楽業界で「浮いた存在」の彼らだけに、とても参加出来る雰囲気でもなかったようだ。
ロック・イン・リオ大ブーイング事件勃発
この南アフリカ問題は、彼らを精神的に追いつめていく。グループ内に立ちこめた険悪なムードを払拭すべくバンドは、イギリスを離れ親クイーン国でもある南米へ旅立つ。1985年1月、ブラジル、リオ・デ・ジャネイロで開催された「ロック・イン・リオ」にヘッドライナーとして招聘されていた。
このイベントは25万人を収容出来る広大なスタジアムで開催され、南米全土でTV放映され2億人が視聴するという、クイーンにとっては失地回復の絶好の機会になる筈であった。問題が起きたのは1月12日の公演。ブラジルは日本と並んで2大クイーンご贔屓(ひいき)国。その気の緩みか、アンコールの「ブレイク・フリー(自由への旅立ち)」でフレディは同曲のPVと同じ衣装の、つけ胸の女装姿で意気揚々と登場したのだ。
これに25万人のオーディエンスが一斉に反応し、あらゆる物がステージに投げ込まれる大ブーイングが起きた。この曲は貧困にあえぐ労働者階級層の間で自由を求めるアンセム曲として現地で支持を受けており、自分たちの大切な曲を汚すような演出に怒りをぶつけたのだ。しかしメンバーはそんな事情は知る由もない。ファンの異様な熱気に危険を察しコンサート終了後は逃げるように会場を脱出する羽目となった。
しかし負の連鎖はこれで終わらなかった。1985年4月5日、初めて訪れるニュージーランドの空港やホテルに前年のサンシティ公演を非難するデモ隊が陣取っていたのである。世界中を敵に回した心境に陥ったのであろう。メンバーやスタッフ間はギクシャクし、決して良好な関係ではなかったようだ。やがてこの空気は周囲にも伝わり、英国プレスの間でクイーン解散説が報道され始める。
5月9日よりスタートした最後の日本公演は、こうした環境の中で行われたのである。世界中で攻撃された彼らにとって、日本は世界一の親クイーン国。この国に限っては他の国で受けたような非難も無く、各地でいつも通りの歓待を受けた。
当時の関係者に訊くと、滞在中のメンバーやスタッフの間には巷間言われるような不穏な雰囲気は無かったという。ブライアンとジョン・ディーコンは家族も帯同させて休暇を楽しみ、ロジャーとフレディは、昼はショッピング、夜はディスコ通いと大いに羽根を伸ばした。この時期の日本はクイーンにとって世界で唯一、騒音も雑音もない安息出来る避難場所になった。
ライブ・エイドを契機に完全復活
日本から帰国後、彼らは沈黙を守り表舞台には現れなかった。実際、日本公演以降のスケジュールは全くの白紙だったようで、解散はともかくとしても、長期の活動休止は必至であったのであろう。
バンドの最大の危機を救ったのは同年7月13日にウエムブレー・スタジアムで開催されたライブ・エイドだった。BAND AIDにも参加しておらず、しかもたった20分という短い出演時間のオファーに当初、彼らは難色を示す。
しかしイベント主宰者のボブ・ゲルドフは熱心に口説いた。何よりも前年のサンシティ公演に対する英音楽業界内での立ち位置や、バンドエイドのシングル不参加への後悔など数々の汚名を挽回する絶好の機会だと。彼らはオファーを受けた。20分の出演時間のために、シアターを3日間借り切り入念なリハーサルも行った。
クイーンがライブ・エイドのイギリス会場、ウェンブリー・スタジアムに登場したのは18時41分。「ボヘミアン・ラプソディー」から「伝説のチャンピオン」まで、大ヒット曲を怒濤のメドレーで一挙に演奏する圧巻のパフォーマンスを見せつけた。誰もが見たいクイーンがそこにあった。巨大なウェンブリー・スタジアムに集まった7万5000人が一瞬でクイーン一色に染まったのである。ライブ・エイドでいちばんのパフォーマンスはクイーンであったと誰もが認め、あれほど攻撃していた英プレスは手のひらを返すように褒めちぎった。クイーンがイギリスの国民的バンドになった瞬間であった。
この日を境に周囲の環境は劇的に変わった。つい数カ月前までは解散もやむなしと言われたクイーンは完全に復活したのである。以降、1991年にフレディが亡くなるまでバンドはひとつに固まり盤石の体制を敷く。
ライブ・エイドの直前、解散の危機に晒されていた彼らを温かくもてなし、変わらない支持を日本のファンが続けた事が、結果的にはクイーンのメンバーをリラックスさせ、穏やかな気持ちにさせた事は違いない。
歴史に「たられば」はないとは言うが、もしこの日本滞在がなければ、ライブ・エイドへの参加はなかったかもしれないし、クイーンは本当に解散していたかもしれない。 【石角隆行(六角堂)】
クイーン参考資料
<1985年クイーン来日公演日程>
▽5月8日・9日:日本武道館/5月11日:国立代々木競技場
▽5月13日:愛知県体育館/5月15日:大阪城ホール
<クイーン公式サイト>
http://www.universal-music.co.jp/queen/
<QUEEN OFFICIAL CHANNEL/1985年5月11日 国立代々木競技場>
お☆ま☆け
犬のおまわりさん by GUEEN