
シボレー・コルベットに「小指」を賭けた青年の物語を思い出し、気づくことがいくつかある。ひとつは、日米の差ということ。50年代末あるいは60年代初頭、アメリカの青年がカフェで“危険な賭け”に乗るのは、あくまで、その勝利の景品がスポーツカーであったからだろう。そもそも青年はそのカフェに徒歩で来たのではなく、ドラマの舞台がアメリカのどこかの田舎町だとすれば、青年は古いフォードあたりでその店に来た。そして、中年男が路上の白いコルベットを指差すことがなければ、その夜も、いつもと同じようにフォードで帰宅したのだ。
一方、当時の日本にこのドラマを移植したら、スポーツカーと限定せずともドラマは成り立ったのではないか。クルマに対して人が何かを賭けるとして、その時、クルマのカテゴリーは関係なかった。どんなクルマであれ、その時代、日本の“ある種の人々”は、自動車を得るためなら相当なものまで代償に差し出したような気がする。
この「クルマを得る」ということでは、こんな史実もある。新聞記事の片隅にあったというのが私の記憶で、もしかしたらコドモの妄想かもしれないと思っていたが、そうではなかった。それは1960年に日本のある食品メーカーが行なった販促イベント、車種は当時の人気車のひとつ「日野ルノー」である。
このクルマは、フランス車「ルノー4CV」の日野自動車によるKD(ノックダウン)モデルで、その頃の国内乗用車としては挙動が俊敏であり、運転して愉しいクルマだと自動車雑誌には書いてあった。また、当時、乱暴な運転をするプロ・ドライバーを新聞などが“神風タクシー”と呼んだが、その種の運転を「最もしやすい」のがこのルノーだというネタも雑誌には載っていた。このクルマはリヤエンジン(RR)で、もしテールを流そうと思えば、それが容易であったのだろう。
そんな“ファン・トゥ・ドライブ”(?)の日野ルノーに「一年間乗れますよ」というのがその企画だった。そして一年が経過して後には、もし望むなら、そのルノーを自分の所有とすることもできるというオプションも付いていたようだ。(単に、ユーザーが望むなら買い取りも可能というだけのことだったかもしれないが)
ともあれ、乗用車を一定の期間、自由に乗れるというのは確かで、仮にそれが貸与だけで終わったとしても「一年間」は決して短くない。すべてのクルマが“高嶺の花”であった時代に、これは夢のような催しであった……はずだが、問題は、当選者に提供されるというルノーの「仕様」だった。
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ここで自動車雑誌が出て来たので、本稿に関係することを少し書くと、当時(50年代末~60年代初頭)の雑誌には「オーナー・ドライバー」という言葉が羨望とともに登場していた。たとえば、「いやあ、○○さんはオーナー・ドライバーだからなあ!」と、読者座談会で出席者の一人が語ったりする。この言葉の意味は、そのクルマの「所有者にして運転者」ということだが、しかし、これも今日では、もう何のことだかわからないかもしれない。
「だってクルマを買えば、その持ち主は買った人だし、そして、その人はそのクルマを運転しますよね?」。……はい、その通りです。ただ当時は、そのアタリマエのことが稀少だったのですね。
まずは、そもそも自動車が高価で、「個人のものとして買う」のがむずかしかったということがある。つまり、多くのドライバー(運転免許所持者)はクルマを買えない。ペーパー・ドライバーという言葉は今日でも残っているが、いまならそれはクルマを「買わない」ことだろうが、しかし当時は「買えない」ゆえの意味を持たない“紙”ということだった。そして、街を走っているハイヤーやタクシー、あるいは大邸宅に潜む“黒いセダン”は法人車として、運転者とは別に持ち主(オーナー)がいた。クルマの所有と運転の関係が多くの場合はこのようだった。
そこに、自動車を個人で所有し、さらにそれをドライバーの意志でドライブするというコンセプトが出現する。そんな新しいクルマの「持ち方と使い方」が、50年代末あたりに少しだけ一般化し、その動向(トレンド)を表わす新語として「オーナーにしてドライバーである」という意味の用語が生まれた。雑誌にも、オーナー・ドライバーによる座談会があり、この企画での日野ルノーも(厳密には長期レンタルでも)“権利”を与えられた期間はオーナー・ドライバー的にクルマを使えるということだった。
ああ、しかし! オーナー気分でお使いくださいというそのルノーは、果たして、どんなクルマであったか。実はこれ、ほとんど“選挙カー”と呼ぶべき代物であった。選挙という“祭り”の場合は、最も重要なのが候補者の名前。そのため、どこからでも候補者の名前が見えるように、自動車の屋根に看板を立てる。そしてこのルノーも同様に、その種の掲示がルーフに付けられていた。そこに記されていたのは、食品メーカーの商品名だ。
屋根の上の看板は、ワゴン車などの四角いハコ型であれば、造形的にもまだ収まりがいいかもしれない。しかしこの場合は、当時としては流麗な曲面構成を誇っていた乗用車ルノーの頭上である。そこに加えられた“板”は、いかにも取って付けた感が濃厚で、さらにその車体は、食品メーカーがこの時アピールしたかった新商品としての「カレー色」に塗られていた。濃い黄色は、50~60年代当時の乗用車カラーとしては相当にレアだ。
つまり、看板を頭上に立てた黄色い“街宣車”──。これがその企画で幸運にも当選したドライバーが運転する(しなければならない)クルマなのだった。こうした販促車も今日であれば、クルマそのもの(本体)を広報・宣伝の道具にするとして、オリジナルのカラリングやカッティングシートなどで巧みに“武装”するだろう。そういうクルマはしばしば、ノーマルよりカッコよかったりするかもしれない。だが1960年時点での改装車は、それを広報・宣伝用に仕立てるに際して、残念ながら選挙カーしかその手本がなかったようだ。
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さて、そんなスペシャルな(?)クルマに一年間乗ってくださいという企画、市場からはどういう反応があっただろうか。コドモであった私にはそのへんの細かい事情は見えなかったが、しかし、当時の人々がこの企画に無反応であったとは思えない。
何よりこのルノーは、屋根上の付加物はともかく、マッサラな新車だった。その頃は、タクシー業界で用済みとなったセダンが「タクシー上がり」と称しつつ、しかし中古車市場で一般ドライバー向けに売られていた時代である。「乗用車」とか「純・自家用車」、そして「新車」といった言葉の“オーラ”は、今日ではちょっと想像し難いレベルのものだった。屋根に何か付いてる? それがどうした!……である。もちろん、そういう市場の状況を見越しての巧みなマーケティング戦略で、その食品メーカーの社史によれば、この時に用意された「黄色いルノー」の数は300台であったという。
ただ幸いにというべきか、少年(私)は例の外国TVドラマの場合とは異なり、この“カレー色のルノー”では、ココロに衝撃を受けることはなかった。穏やかなキモチでいられた理由は簡単で、このイベントはオトナ限定だったからだ。黄色いルノーの争奪戦に参加するには運転免許証という鑑札が必要、小学生はそもそも権利なし、“お呼びでない”のであった。
ああ、しかし! この時にもしオトナであったら? そして、免許を持っていたら? こんなクルマに乗るのなら御免被ります、応募なんかしませんね……と突っぱねることができただろうか。いや、それはやはり無理だっただろう。そして、もし応募をためらっていたなら、悪魔は耳許で延々と囁きつづけたに違いないのだ。(1年なんてすぐだよ、新車だよ)(たった12ヵ月! それが過ぎれば、看板だって取れるよ)……。
(フォトは「日野ルノー」、トヨタ博物館にて)
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Car エッセイ | 日記
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2014/04/04 15:05:42