──噂は真実だった。やはりホンダは「F1」を作っていた。エンジンだけでなく、シャシーもボディも、すべてホンダ製によるF1マシンは存在したのだ。やはりホンダはF1への復帰を、それも“オール・ホンダ”というかたちで考えているのか? いや、ちょっと待ってほしい。とりあえず、それはない。では何故、こんなクルマがあるのか?
ここには、復帰話よりおもしろいストーリーが隠れている。それはとてもマジメで、そして一方では、ホンダというメーカーの柔軟さや意外性を象徴するような、ちょっと微笑ましい物語でもある。そもそも、なぜ「F1」を作るようになったのか。ホンダ栃木研究所の「足」系のエンジニアで、自身もテストドライバーである橋本健氏は言った。「これ、出発点はNSXなんですよ」。
どういうことかと言うと、スーパー・スポーツカーのNSXを作り、栃木でテストし、「これ以上はないはず」というレベルにして、最終確認としてニュルブルクリンクのオールド(北)コースに持ち込んだ。その体験のことである。初めての「ニュル」は想像をはるかに超えてタフだった。
そのコースで、栃木で仕上げてきた(つもりの)プロトタイプNSXを走らせてみたのだが、クルマが「もうグニャグニャで、まったくダメだった」(橋本)のだ。ボディにしてもシャシーにしても、とにかく剛性が足りない。サスペンションの働きウンヌン以前の、サスが付いている車体の問題だった。超高速で走ることができ、強大にして複雑な「G」が不断にかかり続ける「ニュル」は、ヤワな車体のクルマを拒絶したのだ。スポーツカーとしてのNSX(プロトタイプ)を「ニュル」が認めなかったともいえる。
ホンダのスタッフは、「ニュル」のコース脇にある納屋を借り切った。そこを拠点に、およそ一年もの間、車体補強のための溶接や板金を繰り返した。このコースを「走れる」クルマになるよう、スポーツカーとしてのNSXを現地で鍛え直した。
この体験から、橋本氏は二つのテーマを見つけた。ひとつは、シャシーについての技術がまだまだ甘く、その「深さ」も足りていないこと。もうひとつは「道」についての認識と研究の不足である。この後者については「道がクルマを作る」という定理を基に、後に北海道・鷹栖に「ニュル」的なテストコースを新設するというかたちで結実させた。
では、シャシーの探究はどうすればいいか。とりわけ「剛性」ということを深く研究するにはどうすべきか。この時、市販車というのは「入力」の要素が多く、その力の入り方もけっこう複雑という現実があった。たとえば、エンジンのマウント方式を変えるだけでも、シャシーの印象は変わってしまうのだ。「だから、もっとシンプルに、シャシーだけを研究したい。そうすると、レーシングカー、それもフォーミュラしかないな、と」──。
フォーミュラ・カーはモノコックという胴体があり、それに「足」が付いているだけ。まさに、シャシーとサスペンションしかないクルマであり、その研究の材料にはピッタリだという。「それでね! どうせやるなら、オリジナルF1だってことになったんですよ(笑)」(橋本)この超・マジメな動機、そしてそこから、オリジナルF1作りにジャンプしてしまうスピリット。このへんが、ホンダならではというところであろうか。
橋本氏は「RC」というプロジェクトをスタートさせ、栃木研究所内で“同志”を募った。「RC」、すなわちリサーチング・シャシーだが、この「R」が実は「レーシング」(フォーミュラ・カー作り)であることは伏せたままである。「リサーチ」や「シャシー」に惹かれて各部署から集まってきた25人を前に、橋本氏が最初に、「このプロジェクトは、実は《F1》を作るんだ」と言った時、10分間ほど全員が沈黙してしまったという。
時に、1989年の秋。ちなみにこの年のF1戦線は、鈴鹿とアデレードで連敗したものの、セナとプロストによって、コンストラクターズ・チャンピオンでは圧勝だった。そしてアイルトン・セナはアラン・プロストに次いで、ドライバーズ・ポイントで小差の2位だった。
さて、この栃木有志によるシークレット・プロジェクトは順調に進んだのかというと、まったくそんなことはなかった。誰もレーシングカーを作ったことがなく、モノコックの材料であるカーボン・コンポジットなんて触ったこともなかった。さらに橋本氏は、このプロジェクトのスタッフには、必ずその人の専門外の仕事を与えたという。要するに、すべてをゼロスタートにしたのである。
(つづく)
(「スコラ」誌 1993年 コンペティションカー・シリーズより加筆修整)
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2016/02/09 17:57:12