ぶらかつです。
アウシュビッツ ミュージアム内へ。
ダークな内容ですので、興味のある方ご覧下さい。
今では、アウシュビッツ ミュージアムと言いますが、第2次世界大戦中
ナチス・ドイツがポーランド政治犯を収容する為に作られた強制収容所。
ポーランド人が中心でしたが、ドイツ占領下の国々からも収容され
多くの犠牲者が亡くなった施設です。
あのアンネ・フランクも一時は収容されていました。
その収容所入り口。
「ARBEIT MACHT FREI」 (働けば自由になる)
という文字の掲げられた有名なゲートがあります。
こんな皮肉な言葉をどんな思いでくぐったのだろう。
よく見るとARBEITのBの文字が逆になってます。
この文字は収容者が作らされたものですが、せめてもの抵抗の証として
このように逆にしたとも言われています。
収容所施設は何棟もあり、それぞれ「絶滅計画」、「犯罪証拠」、「囚人の生活」
といったテーマ毎に、当時の写真や貴重な資料を当時のまま展示しています。
それぞれの館内で中谷氏からいろいろと説明を受けますが
目に入る写真や資料がものすごく生生しくて言葉が出ません。
「衣服」、「髭剃り」、「靴」、「眼鏡」、「器・カップ類」、「髪の毛」等。。。
それぞれ種類ごとにうず高く積み上げられています。
その量たるや。。。それだけたくさんの方がここで犠牲になった。
そういうことなのでしょう。
収容所内の至る所が全て当時のまま。
歩いての移動で体力も使いますが、
心に受けるダメージは相当疲れます。
館内は一部を除き撮影はOKなのですが
なかなか撮影する気分にはなれません。
が、そんな重い気持ちで撮った写真です。
毒ガス、チクロンBの空き缶
施設は高い有刺鉄線で囲われています。
アウシュビッツ強制収容所から約2kmほど離れた所にある
広大な敷地を占めているビルケナウへ。(ポーランド名・ブジェジンカ)
移動は無料のシャトルバスで行きます。
ここは、アウシュビッツよりもさらに大規模な収容所。
1945年。ソ連軍により解放されるまで百数十万人の命が奪われました。
ここでも有名な門が建っています。
中へと続く引き込み線が当時のまま残っています。
終着点には国際追悼碑があり、その脇に20か国の小さな追悼碑が並んでいます。
この貨車に詰め込まれ、ヨーロッパ中からここへ
多くの人々が運ばれてきました。
見渡す限り草の生い茂った広大な敷地に木造の収容所が軒を連ねております。
こちらの中も当時のままの状態で保存され自由に中へ入る事ができます。
多くの木造バラックはソ連軍により解放後、解体され、
ポーランド復興の際不足した木材を補う為ここから持ち去られました。
今は、その際置き去られた、おびただしい数のレンガのカマドと煙突だけが
荒涼とした草原に枯れた林のように残されています。
この広大なビルケナウ強制収容所内を歩きまくり
多くの犠牲者の爪痕をまじかに体験し心身共に限界でした。
冬はかなりの降雪があるようで、お互い身を寄せ合い
飢えと寒さといつか来る死の恐怖に耐えていたのだと思います。。。
ここへ訪れて良かったと思います。
この地で感じた思い、空気感は貴重な体験でした。
ただ悲惨な事が行われた。というだけでなく、
何が人をそのような狂気に駆り立てるのか。
現代の様々な民族の問題、差別の問題、いじめなどにも
通ずるものがある気がします。
そんな事を考える、いい機会になりました。
ビルケナウからアウシュビッツへ戻ります。
シャトルバスに乗り込み、皆疲れた表情で静かです。
後部座席の日本人達は学校の先生のようでした。
それぞれ体験した思いを語り合っていました。
私も疲れた体を背もたれに預け、ふと窓の外を見ると。
赤いC3がっ!!!
ご婦人が運転して来たようです。
沈んだ気分がちょっと上向きに↑↑↑
いいね、C3。ありがとう。
これでダークなアウシュビッツのお話は終わりです。
最後まで見て頂いた方、ありがとうございました。
でも、まだまだ続くのです。。。ポーランド。。。
もっとさくっと終わるはずが。。。
時間かけすぎだよ!!!(嫁)
次回、「クラクフへ帰る」 です。
Posted at 2014/05/18 22:04:12 | |
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