
「奇跡の人」で知られる8歳当時のヘレン・ケラーと家庭教師のアン・サリバン氏を撮影した約120年前の貴重な写真が発見されたというニュースが。。
この写真は1888年7月、ケラー一家が避暑のために滞在していた同州ブルースターで撮影された。いすに座って人形をひざに乗せた当時8歳のケラーと、彼女に寄り添うように腰を下ろしたサリバンが写っている。
前年にケラーの教育係になったサリバンは、ケラーの手のひらに指で繰り返し「人形」の文字を書くことで、彼女に言葉を理解させたとされています。
映画『奇跡の人』はアン・サリバンの記録をもとに書かれたものですが、有名な井戸水を手にかけて「ウォーワー」という言葉を理解し発した、というエピソードは戯曲家ギブスンの創作で、一般にこのイメージを定着させたのは1962年のアーサー・ペン監督の映画「奇跡の人」かららしい。 (実際にはサリバンはケラーがこのとき発声したとは書いていない)。
また、食事では気ままに家族の皿から手づかみで取って食べたり、気に入らないことがあると大暴れするシーンが「奇跡の人」にあります。
これもギブスンの演出で、実際とは異なり、「ヘレン・ケラーはどう教育されたか」を読むと、そこに浮かんでくるのは野獣のようなヘレンではなく、聡明で子供らしい可愛い少女。
何より、奇跡の人というのはヘレン・ケラーのことではなく、このアン・サリバンのことですが、実に誤解されている部分が多いのも事実です。
つまり、「奇跡の人」の野獣のようなヘレンをもって、障害者全般に当てはめてしまう。
ヘレンは元から聡明な子であったことを見落として、教育さえすれば「奇跡の人」のような事ができる、と思ってしまう。
実際に、ヘレンのようになることを期待して我が子に無理な教育をしてしまう、障害児の親もいます・・・・・。
1916年に当時36歳のヘレン・ケラーは自分の助手をしていたピーター・フェイガンという青年と恋をして結婚しようとする。
しかし、家族の反対にあい、駆け落ちまでしようとするのだが、結局断念してしまう。
その事件から6年後に、ある男性から結婚を申し込まれた42歳のヘレン・ケラーが書いた返事が"Helen Keller: A Life"(ヘレン・ケラー:ある生涯)という伝記に掲載されています。(メイシー先生とはサリバンである)。
「身体的障害、抑圧が鎮めることができない原始的本能、心の願い全てが、貴方様の願いに応えたいと弾けんばかりです。若い時から男性の愛情を望んできております。運命はどうしてこれほど奇妙な形で私をもてあそんだのか、どうして自分では満たすことができない身体的能力を持たされ、身が焦がされるのか、思い悩んだ時もありました。しかし、偉大な教師である「時」はその役割を果たしました。不可能なことを求めても仕方ないことが分かりました。女盛りが空しく失われてしまうことを嘆いても仕方ないことも。夫婦生活のない一生を送ることが私の運命であると感じるようになり、この運命を受け入れるようになったのです。
人間とはどういうものかご存知でしょう。普通の心の機微はご承知でしょう。しかし、見えない、聞こえない、きちんと話せないという三重苦の重さをお分かりになってらっしゃるでしょうか。私の本を読まれたに違いありませんが、誤った印象をお持ちになったかもしれません。不平不満を活字にはしないものです。自分の傷をさらけ出して、無遠慮な連中にジロジロ見られるようにはしないものです。素晴らしい思想、笑顔の裏に自分のぶざまさ、無力さをできるだけ隠すものなのです。活字にしたものから私の実生活を知ることはできません。貴方は見ること、聞くことができます。だから、どこに行くのも連れて行ってもらい、単純なことすらも手伝ってもらわねばならない暮らしが大変やっかいなことがお分かりにならないでしょう。お手紙を拝読して、私のおかれた状況、不便さを痛感しました。お分かり頂けないかも知れませんが、貴方の人生と私の人生とのほとんど想像を絶する違いが私には分かるのです。
普通の男性の充実した人生を送っていらっしゃる御様子です。私は内向きに生きて参りました。全ての女には子供っぽいところがあると申します。実際、私には子供っぽいところがたくさんあります。実世界を私は知らないと親友たちは申します。ある意味で、私の人生は非常に孤独なものでした。本が最も親密な仲間ですから。家事についても私は物思いに沈んだ傍観者に過ぎません・・・こういった事情にある私と結婚したいという貴方のお気持ちには驚かされます。私が夫にとってどれほどの逃れようのない重荷になるかを考えただけで、私の心は震えます。
・・・時はその役割を果たした、女盛りが空しく失われてしまうことを嘆かなくなったと申し上げました。しかし、強いられた、暗い諦めの心境をほのめかしているのではありません。メイシー先生は、私にとって子供時代から暗闇の中で明かりでいらっしゃいました。そのメイシー先生の賢明で愛情あふれるご指導で、天性の強い性的衝動に私は立ち向かい、このエネルギーを共感、仕事に向けて参りました。神から授かった生殖的衝動を抑え込もうとすることなど夢にも思ったことはありません。私の心のエネルギーを、困難な課題の達成、私よりも恵まれない人たちへの奉仕に、全部注いだのです。その結果として、幸せな人生を送ってきています。そして願わくんば、人の役に立つ人生を」(Herrmann, D. 1998, "Helen Keller: A Life")
確かに、ヘレン・ケラーは普通の生身の人間、ともすると「普通の障害者」からもかけ離れた聖人、聖女と見なされていたのかもしれません。
この伝記の中のヘレン・ケラーは、「不平不満を活字にはしないものです。」と語っています。
そこにヘレン・ケラーは、実は影の部分、裏の部分を持っていたことに、生身の人間を感じるのは私だけでは無いと思うのは・・・・どうでしょうか。。。
Posted at 2008/03/06 17:27:58 | |
トラックバック(0) |
話題 | 日記