今朝は カワセミも天気も・・・「気分上々」で
ちと 「謎」を調査しに いざ鎌倉!
もうひと昔(10年)前でしょうか? TVの旅番組で
鎌倉の洋館で・・・馬鹿でかい敷地の遠くに もの凄い「洋館」が!
そこの奥様がインタビューに応えていて・・・
主人は「バロン 古我」さん
なんでも日本のレース創成期には有名な方だそうで・・・
僕らの年代では 二輪からの「高橋 国光」さんとか「生沢 徹」さん
そしてオートレースから「田中健二郎」さん?とか・・・
もう記憶も定かでは??????????
それより もっと もっと 昔
10年前 その広大なお屋敷を 衛星画像でググッったら
在りました! がっ! 門は閉ざされ・・・・
今日も門から覗こうと・・・
「レストラン」になってましたぁ~
お店の ホームページより
モータースポーツのパイオニア”バロン古我”
戦後日本の経済成長、特に自動車メーカーの発展は著しいものでしたが、貞周氏の息子、“バロン古我”こと古我信生氏は、日本のモータースポーツのパイオニアとして国内外に知られています。
信生氏は単身欧州の自動車レース界にアタックをかけ、レーシング・ドライバーとして活躍、1959年(昭和34年)に開催された日本初の本格的なラリー「日本アルペンラリー」で浜島輝元氏と共にプリンススカイラインを駆り優勝します。(当時の写真やエンブレムは資料として一部を展示しています。)
信生氏の活躍は国内のみならず、プリンス自動車(現日産自動車)の契約ドライバーとしてベルギーのリエージュ・ソフィア・リエージュラリー(61、62年)に参加したほか、ホンダからF1開発プロジェクトへの参加を請われ、1965年にはそのテストグループのメンバーとして開発に携わりました。西ドイツ、ニューブルックリンで行われた82時間耐久レースでは、ホンダS600を駆りクラス優勝を遂げています。
レーサーとして第1線で活躍しながらも、1963年(昭和38年)には、鈴鹿サーキットで行われた4輪レース初の日本グランプリで審判長を務めました。
「古我邸」の前庭には今でも、レーシングカー運搬用の通路が残っていますが、信生氏はこの敷地内でレーシングカーのチューニング・組立を行い、レース会場に向かっていたそうです。
「古我邸」
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